「そこのキミ」
アスナの方を向いた男が言葉を発した。
その低くてよく通る声が、自分に向けられていることにアスナはまだ気付いていなかった。
自分が助かったのだ、という実感が湧いたことによる安心感から少し意識が遠のいていたようだ。
「キミ!」
さらに大きな声で呼ばれて、やっと誰に向かって言っているのか気付く。
彼の顔を見てその目が自分に向けられていることを確認して、慌ててアスナは返事をした。
「は、はい」
まだ彼の正体が分からない以上、おずおずといった感じではあったが。
それでも男は返事を返してくれた。
「ほら、これ、キミのレイピアだろう? いいものみたいだし、大切にしないと」
カマキリに弾き飛ばされたアスナの細剣を差し出してきながら。
いつの間にか壁から抜いておいてくれたらしい。
その場面が記憶として残っていないということはよほど放心していたのだろうか。
「ありがとうございます」
アスナは差し出された剣を手に取り、鞘に収めた。
カチッといい音がして、剣はピタリと鞘にはまる。
その動作を行いながら、そのプレイヤーの顔をしげしげと眺めてしまった。
自分の顔がそのまま反映されているSAOの中では珍しく、整った顔つきをしている男だった。しかしどうも整いすぎているような気もする。
そう、まるでゲームのキャラクターみたいに。
ありえない。そう思って自分の妄想を頭から振り払う。
年は二十代半ばだろうか。
しかしよく観察してみても、やはりその顔はアスナの知らないものであった。
「一つ聞いてもいいかな?」
それはもちろんアスナに向けられた質問だった。
助けてもらった以上、断るわけにもいかない。
アスナはいいですよ、と了承する。
まさかその質問があんなものだとは思っていなかったから。
「キミの今のレベルはどれくらい?」
「え?」
思いがけない質問に逆に聞き返してしまう。
てっきり名前とかを聞かれるのかと思っていた。
アスナが驚いた理由は、この質問がマナー違反であるからだ。
レベルを含めて全てのステータス情報はこのSAOの中ではプレイヤーの生命線とも言うべき重大な情報である。
見ず知らずのプレイヤーに気軽に聞いていいものではなく、そしてそれを教える義理はどのプレイヤーのも存在しない。
しかしアスナはその質問にしぶしぶ答えた。
それが命を助けてもらったことによる恩返しだと思えば、安いものであると自分に言い聞かせて。
「七十二ですけど」
「そうか……。低いな」
さすがにこれにはムッときた。
七十二といえば攻略組の中でもトップクラス。十の指には入るだろうというレベルだ。
この世界にいるほとんどのプレイヤーのレベルはアスナよりも低い。
それをあからさまに低いと言えるとは、どういう頭の構造をしているのだろうか。
「そういうあなたは何レベなんですか?」
アスナは少し尖った口調で言葉を投げつける。
普通のプレイヤーならその顔を見た瞬間、縮み上がっているのではないだろうか。
アスナが美人であるからこそ、怒ったときの顔はかなり怖い。
しかし、その男は意に介した風もない。
豪胆というのか、鈍いというのか。
彼はアスナの質問にこんな答えを返してきた。
「俺は百六だ」
「ひゃく、ろく!?」
にわかには信じがたい。というか信じられない。
攻略組でアスナが知っている現在最高レベルのプレイヤー、あの≪黒の剣士≫のレベルが七十九だったはず。
あの≪神聖剣≫ことKoB団長、ヒースクリフのレベルはそれより上だと言われても驚かないが、それでも百には到達していないとアスナは思っている。
「信じられません! 確かにあなたが強いことは認めます。でもそんなレベルなんて……」
アスナは猛然と反論した。
目の前の男が自分を助けてくれたプレイヤーだということはすでに頭から抜け落ちている。
その抗議を聞き、男はあろうことかにやっと笑い、こう言ってきた。
「じゃあ、ステータス画面見せてあげるよ。ほら」
そう言って彼は自分のウィンドウを二、三操作した。
恐らく他のプレイヤーからも見えるようになる可視モードに変更したのだろう。
男がアスナを手招きしたので、男の後ろに回りこみ、目の前に開かれた画面を覗き込む。
その行為もマナー違反ではあるのだが、向こうがいいと言っているし、こっちもレベルを教えたのだから問題ないだろう。
「っ!」
男のステータス画面を覗き込んだアスナは、息を呑んだ。それほどまでに男のステータスは現実離れしていたのだ。
このゲームにログインしてから今までの時間を、全て経験値稼ぎの戦闘に費やしたのではないかと疑うくらい。
彼の言ったとおりレベルは百六、しかもほとんどの武器スキルがコンプリートされていた。
アスナがそのステータスを見たことを確認すると、男はさっきまでとは一変したきつい口調でこう言った。
「そのレベルなら攻略組の面子なんだろう」
そう言ったところをみると、どうやらアスナがトップレベルのプレイヤーだということは分かっていたらしい。だが、それでも彼はこう続けた。
「だがな、そのレベルじゃこのダンジョンのマージンは取れていない。ここでの安全マージンは八十五からだ」
その言葉を聞いてアスナは俯く。
自分が間違っていたことが自分で分かっているから、なおのこと男の言葉が重くのしかかる。
しかも、と男は畳み掛けた。
「その制服、血盟騎士団のものだろう?」
「そうですけど……」
「だったらソロプレイがどれほど危険なものか、分かっているはずだ。何のためにギルドに加入したのか、考えた方がいい」
正直なところ、あんたに言われたくないわよ、とアスナは言いたい。その危険なソロプレイをしているのは誰だ、とも。
だが、男の言うことはもっともすぎるくらい正論である。
どんな手段を使ったのかは知らないが、向こうはレベルが百六。現在の最前線でも敵などいないだろう。
しかしアスナがソロでここにいるのは単なる個人のわがままである。
自分の浅はかさを再び明白にされ、アスナは口を結んで俯いた。
その姿を見て良心が痛んだのか、男は口調を柔らかくしてこう言う。
「まあ、なんにせよ死ななくて良かった。こんなゲームで命を落とすなんて馬鹿げているよ。これからはこんな無茶なプレイはするなよ?」
「はい……」
よし、といいながらアスナは男に頭をなでられた。
即座にその行為に対して、ハラスメント防止コードの発動を促すメッセージがアスナの視界に表示される。だが、アスナはOKボタンに触れなかった。
この男と話しているとき、会話や表情には出さなかったが、初めて味わった死というものはアスナにとってとても恐ろしいものだったのだ。
頭をなでられるという行為は、アスナに向こうの世界での兄を思い出させた。
なにかと自分に優しくしてくれた兄。もう1年以上も会っていないことを思い出し、アスナの頬を、一粒の涙が零れ落ちた。
そんなことには気付いていないのか男は手を離し、じゃあ、というように手を振りながら転移ゲートの方へ歩いていった。
「ちょっと待ってください!」
思わずそう叫んでいた。
自分でもなぜ彼を呼び止めたのか分からなかった。
彼にこれから二度と会えないかもしれない。そんな考えが頭によぎったのだろうか。
だが、ん? とこちらに振り向いたくれた彼に対して、言葉がのどから上がってこない。
数秒、考えに考えた末に、出した言葉がこれだった。
いまだにその時もっと言うことは無かったのか、と思い出すたびに赤面してしまうけれど。
「もしよかったら、私とフレンド登録してくれませんか?」
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