フロアに入った瞬間、アスナは拍子抜けした。何も出てこないのである。奥に転移用と思われるゲートがあるだけ。
ああ、あの扉はダンジョンをクリアしたから出てきたものなのだ。そう頭が解釈しかけたとき、羽と羽をこすり合わせたような嫌な音が天井から響いてきた。
アスナは恐る恐る上を仰ぐ。そこには、一つ前のフロアに出てきたカマキリの数十倍はあるであろうカマキリがはりついていた。顔の横に付いた二つの眼球が、まるで品定めでもするかのようにアスナの体を見下ろしている。
表示されているモンスター名は、≪The Despair of mantis≫。
その定冠詞はボスモンスターの証。
しかし、名前の下に表示されるはずのステータスが表示されない。
敵モンスターのステータスは、識別スキルが高ければ見ることが出来る。
アスナの今の識別スキルなら、五十六層のボスモンスターであってもそのステータスは表示されることだろう。
それが出ないということはつまり、このボスは五十六層よりかなり上の層のボスと同じクラスのモンスターであるということである。
冗談じゃない! 私のレベルでステータスが表示されないなんて!
心の中でそう叫ぶ。声を出して叫ばないのは、無意味なことかもしれないがこの巨大カマキリに刺激を与えないため。
目の前にいるのがシステムに操られた偽の生命体であると分かっていても、その威圧感がアスナにそうさせた。
こいつには勝てない。
直感的にそう悟ってしまった。
このモンスターにとってアスナは、ボリュームゾーンのプレイヤーと同じようなものである。
だから何もしない、というわけにはいかない。アスナはカマキリの目から視線を逸らさず、必死で何をするべきか考えた。
出た結論は、とりあえず扉の外まで逃げること。なぜならボスモンスターは部屋から出ないという原則があるからだ。
隠しダンジョンのこのボスにその原則が通用するかは分からないが、わざわざ部屋として区切ってある中に出現しているのだから、その可能性は高い。
アスナは鍛えに鍛えた敏捷度パラメーターを存分に使い、扉まで走った。
どういうわけか、いまだに巨大カマキリは攻撃をしてこない。まだ逃げられる。そう思って扉の前にたどり着いた瞬間、
ガシャァアアアアアン
扉はアスナの目の前で、無情にも隙間を閉じた。
「そん、な……」
思わず声が出てしまった。
後ろで何かが床に落ちた音がした。
アスナの言葉に呼応したかのように巨大カマキリが天井から飛び降りたのだ。
アスナがそちらを振り向いた瞬間、アスナの背丈の何倍もあるであろう鎌で切りかかってきた。
何とか上に飛び上がって回避する。
カマキリの鎌は轟音を立ててアスナがいた場所へ衝突した。
攻撃自体は避けたアスナだったが、床に鎌が当たったことによる衝撃までは回避できなかった。
下から大きな力に突き上げられ、天井に激突する。
一瞬でHPバーの三割が消えてなくなった。衝撃だけでこのダメージだ。一度でも直撃をくらえば、一度にHPバーのドットのひとつまでもが全て消えてなくなるだろう。
瞬時にアイテム欄からポーションを選択して飲もうとするが、カマキリの動きが図体のわりにかなり速かった。
飲むというモーションに移る前に次の攻撃がやってくる。今度は完全に避けることができたが、回復ができない。
HPの総量は七割のままだ。
「何でこの大きさなのにこんなに速いのよっ!」
そう絶叫するが、誰にも届かない。
しかしそう叫びながらアスナは、モンスターに突進した。
突進しながら細剣上位剣技、≪リップス・ロザリオ≫を繰り出す。
アスナの愛剣から赤いライトエフェクトが迸り、カマキリの巨体に吸い込まれた。そのHPがわずかに減少する。
一撃一撃のダメージは、この敵にとって痛くもかゆくもないだろう。
しかし与えるダメージが一でもある以上、何千回、何万回と斬りかかればHPはゼロになる。絶対に。
アスナは、狂戦士≪閃光≫と呼ばれている所以の能力をフルに使って、カマキリに立ち向かった。
「こんのおおおおお!」
叫びながら、光のごとく剣を振るう。
何回、何十回というソードスキルを交えた攻撃が、カマキリの巨体に吸い込まれてゆき、少しずつではあるが、確実にHPを減らしていく。逆に敵の攻撃はかすりもしない。
しかし、レベル差という壁は、そう簡単には抜けられなかった。
レベル制MMOの宿命からは誰も逃れることはできない。アスナとてそれは例外ではなかった。
ボスのHPを六割ほど削り、さらにアスナが攻撃を加えたとき。
アスナの攻撃はカマキリの強固な鎌に阻まれ、跳ね返された。
後ろに下がったアスナに、追い討ちとばかりに鎌が振るわれ、アスナの細剣が空中へと弾き飛ばされる。
剣は空中を回りながら舞い、横の壁に突き刺さった。
「しまった……!」
あの場所には取りにいけない。そんな場所に剣は刺さっていた。
取りに行こうとしたら確実にカマキリの餌食になる。そんなところに。
抵抗する手段が無くなったアスナに対し、ボスモンスターはゆっくりと近づいてきた。さながら弱い獲物をいたぶるように。
目の前で止まったモンスターをアスナは見上げた。
首をかしげる動作は、ただのシステム上の動きなのだろうか。それともこのモンスターにも意思のようなものが存在するのだろうか。
アスナは、目の前で鎌が振り上げられた瞬間死を覚悟した。
反射的に体を縮め、目をつぶってしまう。
しかし、いつまでたっても鎌は振るわれなかった。
ピキッという効果音に目を開けると、空中で止まった鎌には無数のひびが走っている。
次の瞬間、ギアアアアアという鳴き声を上げながら仰け反ったカマキリを横目で見ながら、アスナはとてつもなく美しい剣が鎌から引き抜かれたのを見た。
その剣の主は直後、ありえないスピードでカマキリに斬りかかった。アスナですら目で捉えられないほどのスピードで。
しかも、あの、アスナがあれだけ攻撃して六割程度しか削れなかったバーが、ガクン、ガクンと一気に減っていく。
たった数回だった。カマキリのHPを示すバーがゼロになる。
そうなったモンスターの末路は一つだ。
カマキリは無数のポリゴンに分かれて消滅した。
アスナは今目の前で起こったことが理解できなかった。
どうしてここに自分以外のプレイヤーがいるのか。
どうして死ぬ直前だった自分を助けてくれるのか。
どうして目の前のプレイヤーはここまで強いのか。
そんな疑問を胸中に抱きながら、アスナはたった今ボスモンスターを倒したプレイヤーを見上げた。
赤い甲冑に体を包んだ黒髪の男。
こんなにも強いプレイヤーなのだ。そんなプレイヤーがいるとしたら攻略組の中以外にありえない。
しかしどうしてなのだろうか。その顔はアスナが知る攻略組のどのプレイヤーの顔とも一致しなかったのである。
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