何百枚という原稿の一枚目――。そこのタイトル欄には「タイトル未定」と書かれていた。
三十代後半。まだまだ若さに負けていないと自負する小説家は、担当者の呼び出しで書斎から居間へと「タイトル未定」を持っていった。
生憎、今日がその原稿の締め切り。
小説家は、頭を大雑把に掻きながらもその用紙の束をテーブルに置いた。
「先生……。その『タイトル未定』というのは、一体どういう事でしょうか?」
「おいおい。本気でこれがタイトルだと思っているのか? 恋愛小説だぞ」
「それは存知してます。私が言いたいのは、まだタイトルが決まってないかという事だけです」
担当者の女性は本文の確認作業すらせず、小説家の隣で「タイトル未定」という文字をひたすら凝視していた。
小説家よりかなり年下の若い彼女は、最近彼の担当になったばかりの人だ。
結構な美人なのだが、根はしっかりとした真面目な性格であり、小説家曰く「ちょっと根を切ればきっと完璧な女性になるだろう」と言われたことがある。
しかし、そんな事はまるで無関心の彼女は、するべき仕事の為に視線をタイトルから本文へと移した。
「とはいえ、本文は結構な推敲をなさっていますね」
「そうだろ? 小説は出だしが命だからね。これでも相当苦労したんだよ」
彼女の言う通り、一枚目の原稿は二本線で消された部分が大多数を占めており、推敲の何よりの証拠となる。しかし、肝心のタイトル部分に関してはキレイな一度書きで終わっていた。
「担当者さん。本当にタイトルって難しいよねー。何度も何度も考えているんだけど《コレだ!》というタイトルが、どうしても浮かばないんだ」
煙草をくわえた小説家は、向かいの庭をぼんやりと眺めながら火を付ける。その表情も相当悩んでいるように見えて、少々だらしない。
そんな小説家に彼女は、きっぱりと言った。
「先生。私が言うのもなんですが、タイトルというのはその場の勢いで決まる事じゃないでしょうか? いつまでも考えていては、きっと良いタイトルは浮かんでこないでしょう」
小説家が大きく息を吐くと、瞬間マンガの吹き出しのような煙が舞っていく。
「それはダメだ。個人的には、推敲してこそタイトルだと思っているよ。――君は俳句家の松尾芭蕉の事を知っているかい?」
唐突な質問に彼女は一瞬顔が緩んでしまうが、すぐに引き締める。
「……ええ、存じています。江戸時代に『奥の細道』などの名作を出した俳句家の事ですが……それが何か?」
「芭蕉は後世に残る名句を数々、世に残した事は知っているな? 実を言うと、ほとんどの名句は度重なる推敲によって、完成させたものらしいんだ。例えば『五月雨の降りのこしてや光堂』の名句だって、当初は『五月雨や年々降りて五百たび』という内容を推敲して改作させた句なんだよ」
文学好きの彼女は、もちろん芭蕉の名句くらいはよく知っている。しかし、それで納得するはずもなかった。
「失礼ですが先生。確かに俳句と小説は同じ文字から表現していますけど、結局それはお門違いではないでしょうか? 私には関係のない事だと思っております」
目を鋭くさせた担当者は、それがなんだと言わんばかりに語気を強めて言ったが、小説家は別段驚いた素振りは見せず、ゆっくりと煙草を灰皿で潰す。
「関係あるよ。俳句というのは短い文字の中に、様々な感情が積まっている言葉なんだ。たかが十七字。されど十七字。そこには作者の感性が所狭しとあって、僕たちに少しづつ伝わっていくんだ。――まるで水を限界まで吸ったスポンジに、自然と水が垂れていくようにね」
そのまま小説家は担当者に目を合わせていく。
「だからタイトルだって同じ事。何十万字という内容をたった少しの文字でまとめてこそ、本当のタイトルだと思うんだ。だから僕は、もう少し考える時間が欲しいな」
小説家の視線の先にいる彼女は、何も言葉を返すことができなかった。
今日が締め切りだというのに、この人はギリギリまでタイトルを必死で考えている。そんな頑張っている姿に、真面目な担当者は簡単に裏切りたくはなかった。
少しの沈黙が流れた後、彼女はついに折れた。
「先生の言いたいことはよく分かりました。考えてみれば、大ヒット作品の九十パーセントはタイトルで決まるとも言いますしね……。推敲も大事だと、改めて認識しました。先程の失言は、申し訳ございません……」
「いいよいいよ。そんな気にする事でもないし、君の意見だって完全に否定はできない。――そうだ、これから久しぶりに散歩にでも出かけてみるよ。もしかしたら、その時に良いタイトルが思いつくかもしれないからさ」
※
小説家の口から煙臭さがなくなった頃。当の本人は玄関で地味なスニーカーを履いていた。
隣には担当者の女性。すでに原稿の束は書斎に戻しており、明日、再び取りにいくという約束を取り付けていた。
家の鍵もちゃんと閉め、外の日射しに目を瞑りながら小説家は言う。
「こういった太陽の眩しさでも、何かキッカケを掴めるかもしれないね。街の風景、季節の花も然り。今日はわざわざ来てくれて、本当にありがとう。必ず明日には決めておくよ」
「お願いします」
そうして、二人は別々の方向へと歩を進めていった。
「ふう。明日には必ず出すとは言ってくれたけど、今日だけは編集長にどんな言い訳をしたらいいんだろう……?」
出版社までの帰り道。
担当者は、ひたすら上司に対しての口実をじっくりと考えていた。
「やれやれ、なんとか騙し通せたけど、あの子に『まだ、ラストシーンだけ完成してない』なんて言える訳ないからな……。今日は徹夜して何とか仕上げなくっちゃ……」
家から家までの散歩道。
小説家は、ひたすらラストシーンのプロットをじっくりと練り直していた。
ちなみに、タイトルに関しては特に問題ない。
確定的なタイトルは、すでに小説家の心の中にインプットされているのだから。
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