挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
シーナくんのつくりかた! 作者:すみやき(明日から休講です。)
1/6

第一話 楽しいお昼の過ごしかた 

第一話 楽しいお昼の過ごしかた 

     1

「ねぇねぇシーナくん、シーナくん。ねぇねぇねぇ」
 学校帰りの電車の中、僕は学ランの裾をぐいぐいとひっぱられた。
 僕の裾を引っ張っているのは一人の女の子だ。
 肩のところまで波打った長くつやつやの黒髪。雪のように白い肌。背が僕の胸あたりしかない華奢な体。
 彼女の名前は(はなわ) 秋穂(あきほ)。僕のクラスメイトだ。
「シーナくん。シーナくんくんくん」
 彼女が着ているのは学校指定の制服だ。サイズがあっていないのか、見るからにだぼだぼだである。このだぼだぼ感がただでさえ小さい彼女の体型をより小さく見せている。
「ねぇねぇねぇねぇ……にゃあ」
 どうやら塙さんは猫になってしまった様子。これは大変だ。すぐに交番に届けないと。ええと最寄りの交番はどこだっけ?
「シーナくん。私は猫じゃないよ? だから交番には届けないでくださいわん!」
 僕としては犬なんだか猫なんだかどちらかにしてほしいところ。とりあえずどちらにしても僕は交番に届ける! めらめらと燃え上がる僕の正義感! さあ交番へ急ごう。
「何が正義感だ! 私は猫でもないし、犬でもないの! そもそも犬とか猫とかって交番に届けるものなの? 保健所とかじゃないのかな?」
「保健所だと殺されちゃうからなあ。最悪の場合」
「何だよそれー! かわいそうだろ! シーナくんの人でなし!」
 別に僕は保健所の関係者ではないんですが。無駄に非人間扱いされた僕の心理的苦痛はどうしてくれる。
「それは時間が解決してくれるさ。シーナくん」
 何故人ごとなんだろうか。あなたの言動でこっちは苦しんでいるというのに。
「モウマンタイモウマンタイ。ところでシーナくん」
 塙さんは無理矢理な中国語を織り交ぜながら、肩をぽんぽんと叩いた。
「何ですか? 受信料なら払いませんよ?」
「違うよ! 私は『受信料を払ってくださいねおばさん』ではないのです。ていうか受信料くらい払えよ。シーナくんのばか!」
 どうやら怒られてしまった様子。ていうか受信料の催促にくるあの人達の正式名称は『受信料を払ってくださいねおばさん』なんだな。けどそれは広辞苑には載ってなかったと思うぞ?
「はいはい、シーナ君注目!」
 これ以上ないくらい注目してたんですが……。
 とりあえず言われたとおりに彼女に注目する。塙さんの瞳はいつものように目薬を差したばかりのように潤んでいる。塙さんはドライアイなんかとは無縁なんだろうな。
「私は今から問題を出します。もしも正解したら私がすっごく喜びます。それでは第一問。じゃじゃん!」
 僕に解答を拒否する権利はないらしい。
 それと正解しても僕には何も特典がないのが気になる。人間は生まれつきだって授業で習った気がするぞ? なんの授業かは忘れたけど。
「今、私とシーナくんは電車に乗っています。さあそこで問題です。……さて私は何を考えているでしょうか!」
 うん! 全く電車と関係ない! 素晴らしい! とりあえず『そんなのわかるわけない』でファイナルアンサー。
「ぶっぶー。正解はとってもアップルパイが食べたい気分だなー、でした」
 はいはい、良かった良かった。ぱちぱちぱちぱち。わーわーわー。
「なんだよー。そのいかにも興味ありません、みたいな態度! ちょっとー行事なんだからちゃんとやれよー男子ぃ」
 どうやら行事だったらしい。すげえ僕初耳だよ! そもそも何で『行事を適当にやり過ごす男子を注意する女子』みたいなフレーズなんだろうか。ちゃんと真面目に行事に参加してる男子だっているよ? 僕は違うけど。
「でさ、そもそも何で塙さんはアップルパイを利用して世界を征服するってことを思いついたの?」
「私そんなこと言ってないよ? アップルパイしか合ってないよ!」
「アップルパイを利用しての世界征服はちょっと難しいんじゃない?」
「だからそんなことする気ないよ! つーかできるの?」
 僕に聞くな。
「何だよその責任転換は! 政治家かよ!」
 なんだよその固定観念は。謝れ! 全国の政治家にあやまれ!
「まあいいや。んで、そのアップルパイがどうしたって?」
 閣僚各位に敵を作りたくないので、僕はとりあえず彼女の話を聞くことにした。 
「んーとねー。私は電車に乗ってからずっとあのあったかくて細長ーいアップルパイが食べたいなーってことを私はずっと考えていたのです」
 マック(関西風に言うとマクド)にあるやつだな? たしかにあれは旨い。ぱりっぱりのパイ生地にあの熱々のリンゴの甘酸っぱさがなんとも……。あれを食べてる時は至福の瞬間だね。
「シーナくんもそう思うでしょ? 食べたいと思うでしょ?」
 いや別に。
「あれだけアップルパイのおいしさについて語ってたのになんでそんなあっさりと否定するかな!」
 んーとね……気分。
「そうかあ。気分ならしょうがない」
 よくわからないけどどうやら納得されたらしい。
「けど、私は食べたいの。ねぇねぇねぇシーナくん。あっぷるぱいぃー」
 塙さんが僕にもたれかかって駄々をこね始める。
 僕にもたれかかった彼女からはシャンプーの匂いがした。甘いけどきつすぎない心地よい匂い。いつまでもこうして塙さんの匂いを嗅いでいたいぐらいだ。
「塙さんがアップルパイ食べたいのはわかるけど、また今度ね。今日は僕の家に行くんでしょ?」
「むぅ。そういうこというと私はアップルパイ訴訟を起こしますよ? 政治経済の教科書に載っちゃうくらいの大きな訴訟を」
 そんなどうでもいい訴訟に付き合ってるほど、日本の法曹関係のみなさんは暇じゃないだろうな、たぶん。

***

 それにしても『また今度』か。その『今度』はいつになるだろう。
 ふくれっ面の塙さんを眺めながら僕はそんなことを考えていた。
『大島団地前ー。大島団地前ー。西京線をご利用の方はお乗換えください』
 電車内のアナウンスが僕らが降りる駅の名前を告げた。
「じゃあ降りるよ塙さん」
 僕は塙さんに声をかける。
 しかし塙さんからの返事はなかった。いつもの彼女と様子があきらかに違うのだ。
「塙さん」
 僕はもう一度塙さんに話かける。
「……うん」
 今度は返事があった。
 しかしどうやら声もいつもの彼女のものではないらしい。
 というより彼女の様子そのものがさっきとは変わってしまったらしい。
 塙さんはさっきまでのテンションがどこかへ行ってしまったかのように黙りこんでしまったのだ。



 僕は黙り込んでしまった塙さんの手を引いて電車を降りて改札へと向かう。改札の方へ向かう間も彼女はずっと黙り込んでいた。見るからに調子も悪そうだ。
「塙さん大丈夫?」
 心配になって僕は塙さんに話しかけた。しかし彼女からの返事はない。
 塙さんはうつむいたまま、ただとぼとぼと歩いている。その足取りは見るからに重く、今にも倒れてしまいそうだ。
「ねえ塙さ」
 僕がもう一回彼女の名前を呼びかけた時だった。塙さんはその場にしゃがみ込んでしまったのだ。
「うぅ……えっぐっ。しっし……しぃなく」
 塙さんは泣いているようだった。地面は彼女が流している大粒の涙で濡れていた。
「わわっわ……、わたっし……」
「わかった。わかった」
 僕は屈んで彼女の背中をさする。それでも塙さんの小さな背中から感じられる震えは治まらなかった。
 僕はポケットからミニタオルを出して塙さんに差し出した。すると塙さんはゆっくりと顔をあげる。彼女の目には大粒に涙がたまり、小さな鼻は真っ赤に腫れていた。
「まったく、無理しないでってあれほど言ったのに」
 ちょっときつい言い方かもしれなかった。
 僕は自分の言ったことを反省しながら背中をさすり続ける。
「だっ……だってわたし……し、しぃなく」
「わかった。わかった。しゃべらなくても大丈夫だから」
 僕は何度も何度も塙さんの背中をさすった。
 するとだんだん落ち着いてきたようで、彼女の背中の震えが少しずつ治まってくるのがわかった。

***

 塙さんが落ち着いてきたのでとりあえず僕はここから移動したいと思った。しかし落ち着いたとはいえ塙さんは歩ける状態ではなさそうだった。
「塙さん。ほら」
 僕はしゃがんで腕を背中の後ろに回す。
「……おんぶ?」
 そう、正解。
「そう、おんぶ」
 僕が答えてやると塙さんは僕の肩に手を回した。塙さんのもしかしたらぽきっと折れてしまうんじゃないかと思うほど細い腕が僕の背中を包みこむ。そして弱々しく僕の服をつかんだ。
 おぶってみてわかったが、塙さんはとても軽い。塙さんをおぶって立ち上がる時に塙さんが軽すぎて勢いがあまって転びそうになってしまったぐらいだ。塙さんの見た目は確かに小柄なのだが、ここまで軽いとは思わなかった。
「じゃあ行くよ? 塙さん」
「……う……ん」
 僕は塙さんをおぶって歩き始めた。駅員さんに二人分の切符を渡し、改札を後にする。向かうは僕の住むアパートだ。
 歩いてる間ずっと耳元に塙さんの吐息がぶつかった。それがなんだか心地よくて、いつまでも彼女をおぶっていられればいいのに、なんてことを思っていた。



 少し歩くと僕の住むアパートが見えてきた。
 駅から徒歩二分の学生用アパート。ここで僕は一人暮らしをしている。
 なぜ高校生なのに一人暮らしをしているか、それは実家から離れた高校に通っているからだ。ではなぜ実家から離れた高校に通っているのか、それは実家から通える高校にすべて不合格だったからだ。要は受験に失敗したのである。
 別に勉強しなわけだったわけじゃない。それなりに受験勉強はした。いやクラスの誰よりも勉強している自信があった。それにもかかわらず実家に近い高校は公立も私立もすべて落ちてしまった。これは運が悪かったのか、はたまた自分が思ってる以上に他の受験生が僕よりも頭がよくてなおかつ僕より勉強していたのかどちらかだ。
 結局地元から離れた私立高校になんとか合格できた。それが今通ってる学校なのである。そして僕は必然的に一人暮らしをしながら高校に通うことになった。
 最初は慣れない一人暮らしが嫌になり、自分の不運さを呪ったりもした。
 受験勉強をやり直してもう一回地元の高校を受け直そうかとも思った。
 けどさすがに一年以上もたつと一人暮らしになれてしまい、一人暮らし特有の自由さを心地よく感じられるようになった。今では一人暮らしを絶賛満喫中というわけだ。

***

 僕は塙さんをおぶったまま鍵を開け、部屋に入る。
 部屋の中は綺麗に片づいていた。昨日、テレビ番組でやっていた掃除の裏技特集に触発されて片づけたばっかりだったのだ。こればっかりは運がよかったとしか言えない。
 まさか掃除をしている時に女の子ををおぶって連れてくるとは夢にも思わなかったけど。こうなると昨日放送していたテレビ番組とそれに馬鹿正直に触発された昨日の僕に感謝せざるを得ない。
 僕は塙さんをソファーにゆっくりと下ろした。ソファーの上に横たわらせて、上に毛布をかけてやる。
 塙さんのまぶたにはまだ涙がたまっている。僕はその涙をフェイスタオルでゆっくりと拭った。
「大丈夫?」
 今日二回目のこの問いに彼女は黙って頷いた。
 頷いたといっても顔を縦にちょっと動かした程度だった。具合は僕が思っていたよりも悪いみたいだ。

 僕は部屋の電気を小さくして、台所へと向かった。
 冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップに注ぐ。それをレンジで温めて、蜂蜜を加えかき混ぜる。これで特製のホットミルクの完成だ。
「塙さん」
 僕は部屋に入りホットミルクをテーブルの上に置いた。ミルクの甘い匂いが部屋中に広がる。その匂いに気づいた塙さんが目を開けて僕の方を見た。
「……ミルク?」
 塙さんは僕に尋ねる。彼女の声は小さく、そして少し掠れていた。
「そう、ホットミルク。蜂蜜入りの」
「は……ちみつ?」
「そう、蜂蜜。おいしいよ」
「やったあ……」
 だんだん声が本調子になってくるのがわかった。どうやら体調が元に戻りつつあるらしい。
「けどまだ熱いから」
「じゃ……あシーナくんが飲んで」
「ん?」
「シーナくんが飲んで、それから私が飲む。そうすればもう冷めてると思うんだ。熱くないと思うんだ」
 そうかなあ。だったら普通に冷ましたほうが熱くないと思うんだけど。なんなら冷たい牛乳を注いでもいいんだし。
「……飲めよう、シーナくん」
 どうしても塙さんは僕に先に飲んで欲しいらしい。それにしてもなんで命令口調なんだか。その理由が僕にはわからない。
「飲めったら飲みやがれー」
「はいはい……わかりましたよ」
 もういちいち文句を言うのも疲れてきたので、ここは素直に塙さんに従うことにする。
 僕はカップに口をつけ、中のホットミルクをすすった。
 すると口の中にミルクと蜂蜜の優しい甘さが広がる。温度は僕が飲むにはちょうどいいが彼女にはちょっと熱いかもしれない。
 じ――――っ。
 どこからか熱い視線を感じた。この視線はホットミルクよりも熱い。
 この視線は言うまでもなく塙さんのものである。
 子供のように無邪気な表情の塙さんが僕がホットミルクを飲むのを見つめているのだ。
「おいしい? ねえ、おいしい?」
 少しは具合が良くなったらしく、声がいつもの塙さんのものに戻っていた。もう小さくもないし、掠れてもいない。
「無難な味」
 ここは正直に答えるのが正解。
「そういうときには素直においしいって言っとけよ。作った人が悲しむよ」
 作ったの僕だよ。悪いけど。
 それに別に僕は悲しくないよ。悪いけど。
「はい、じゃあ交代。今度は私が飲みます」
「ん。こぼさないようにね」
「うん」
 僕は塙さんにマグカップを渡す。
 こぼさないように。塙さんの手にミルクがかからないように。慎重にマグカップの取っ手を彼女の小さな手に握らせる。
「いっただき……ます」
「どうぞどうぞ」
 塙さんはマグカップに口をつけた。と思ったらすぐに口をカップから離す。
「……あひゅい」
 どうやら熱いといっているらしい。だから言わんこっちゃない。
「だから僕は熱いと言いました。僕は悪くないです」
「むぅ」
 塙さんはふくれっ面のまま口をすぼませてホットミルクを冷ましている。
 ふぅ――ふぅ――。
 塙さんが一生懸命ホットミルクを冷ましている。その様が本当に微笑ましかった。写メールに撮って携帯電話の待ち受け画面にしておきたいぐらいだ。
「む? 今笑った?」
「いや? 塙さんの気のせいじゃない?」
 たぶんね。たぶん。
「むむむむむ、むぅ」
「あっそろそろ冷めたんじゃないの?」
 話題の矛先をそらすことにした。
「そう?」
 ミッション成功。よくできました、よくできました。
「じゃあ改めまして、いただきます」
 ぺこっとお辞儀をする塙さん。そのときに後ろ髪がさらりとなびいた。
「はい、よろしくお願いします」
 何がよろしくなんだか自分でもよくわからないが、こっちもこっちでお辞儀。
 塙さんは再びカップに口をつける。
 そして恐る恐る中のホットミルクを口に運んだ。
「ん……」
「ん?」
「おいしっ」
 塙さんの笑顔が見えた。口元に八重歯をのぞかせた屈託のない笑顔。
 見ているこっちもつい笑ってしまいそうだ。
「それはよかったです」
「うん。おしいしいよ。すごく」
 たとえホットミルクでも褒められるとすごくいい気分になる。
 そして塙さんの笑顔という特典つきだ。
「……へへっこれ間接キスだよ。シーナくん」
 てへっと恥ずかしそうな笑顔を浮かべる。
 彼女のほっぺは真っ赤だ。そんなに赤い顔を見ているとこっちもなんだか恥ずかしくなってくる。
「とってもシーナくんの味がします」
 何を恥ずかしいセリフをさらって言ってるんだ。顔赤いくせに!
「それは違うと思う」
 僕はとりあえず否定しておく。
 冷静に否定したつもりだけど、内心は恥ずかしくってしょうがなかった。
「なんだよー。するったらするんだよ!」
「じゃあどんな味か言ってみてよ」
「……え?」
 どうやら不意打ちだったらしい。明らかに目が泳いでいる。
「えっと、あの、その……とても甘くて、それでいてこう、牛乳っぽいっていうか」
 間違いなくそれホットミルクの味です。本当にありがとうございました。
「けどシーナくんはとってもおいしいの。とってもいい味なの」
 それ褒められてるのか? だとしても全然嬉しくないわけなんだが。
「ほめられたら素直によろこべばいいの!」
 どうやら彼女なりに僕を褒めていたらしい。わかりました。はいはい、うれしいうれしい。わあ。ぱちぱち。
「むぅ……なんか投げやりだシーナくん。やりなげシーナくんだ」
 なんで投げやりがやり投げになってるんだか。それになんだか強そうだぞ?
 ふくれっ面をしながらも塙さんは再びカップに口を付けた。塙さんはゆっくりゆっくり冷ましながらホットミルクを飲む。
「おいし……」
 塙さんに牛乳ひげがついてるのは黙っておこう。……とてつもなく可愛いから。



 ホットミルクを飲み終わった塙さんは幸せそうな顔をして僕の部屋でくつろいでいた。どうやら具合は良くなったらしい。
「はあ。おいしかった」
「お粗末様です」
「うわあ……ねむ」
 具合が良くなって、安心したのか塙さんは大きく背伸び。
「寝ればいいと思うよ」
「うん。ねるー」
 そう言うと塙さんはソファーに横になる。それにあわせて僕も横になる。何だかんだで僕も疲れていたようだ。
「ねえ塙さん。夕飯どうする?」
「……」
 答えはなかった。僕は黙って彼女からの返事を待つ。
 すぅ。すぅ――――。
 その代わりに聞こえてきたのは彼女の寝息だった。塙さんの寝顔は完全に安心しきってとても幸せそうに見える。
「まったく無理しちゃって」
 そんなことを僕は一人ごちる。誰かが聞いているわけでもないのに。
 塙さんに再び毛布をかける。そして僕も横になりながら塙さんの寝息を聞いていた。そうしたら僕もいつの間にか眠りに着いていた。
 気持ちよかった。いつもこの部屋で寝ているはずなのに、いつもより気持ちいい眠りだった。

     5

 僕が塙秋穂の名前をはじめて聞いたのは、新年度が始まってすぐの教室でのことだった。
「塙。塙秋穂」
 担任の教師がクラスの一人一人の名前を点呼する。
 しかし担任が塙秋穂を点呼した時、その点呼に対して返事をするものはいなかった。
 塙秋穂は教室にいなかったのだ。新学期早々欠席か。僕はそのときはそう思っていた。
 しかし二日たっても、三日たっても教室に彼女の声が響くことはなかった。
 僕はだんだんこの見たこともない女子生徒が気になっていた。
 秋に稲穂の穂で秋穂。彼女の生まれた季節は簡単に想像できた。
 しかし簡単に想像できたのはそれだけで、その他のことはまったくわからなかった。
 容姿、声、性格。どれも未知数。僕はそんな未知数な女の子にだんだん興味が沸いていった。そして僕の興味は勝手に彼女の容姿を想像させるまでにいたったのだった。肩まで伸びたさらさらのまっすぐな黒髪。そしてうさぎを連想させる白い肌。僕の想像上の塙秋穂は典型的な日本女性だった。僕は授業中にノートをとることも忘れてずっとそんなことばっかり考えていた。
 そんなことを考えていたからだろう。体育の時間に僕は怪我をしてしまった。バレーでアタックを決めた後着地する際に足を捻ってしまったのだ。そのまま続行できるような気がしたがここは大人しく保健室に行くことにした。サボれる時はサボる。これは学生生活の基本である。
 僕は足を引きずりながら保健室に向かう。歩いてるうちに足の痛みがだんだん強くなっていった。心臓の鼓動が聞こえるたびに足がずきっずきっと痛む。思ったより足の具合は悪くなってしまったようだ。中断したのは本当に正解だった。痛む足をいたわりながらどうにかして僕は保健室にたどりついた。

***

 保健室のドアを開けるとそこには誰もいなかった。どうやら保健の先生は留守のようだ。
 だけど開いてるんだったらベッドに横になることぐらい大丈夫だろう。僕の脳が都合よい解釈をしたので、僕はベッドに横になることにした。
 ベッドはどれもカーテンが閉められていた。これでは見ただけで誰かが使っているのかどうかがわからない。
 僕は息を潜めてみる。そして耳を澄ませたが寝息らしい音は聞こえない。きっと誰もいないのだろう。僕はそう勝手に解釈して適当にベッドを選んでカーテンを開けた。
「あっ」
 僕は思わず声を出してしまった。ベッドに人がいたのである。
 それも女の子だった。しかも僕はあろうことか彼女の姿をじっと見つめてしまった。
 あ、ぱんつだ。しかもオレンジと白の縞ぱん。縞ぱん、縞ぱん……。ん? 縞ぱん?
 一気に僕の頭の中が真っ白になった。血の気がひくってこういう事を言うんだなって思った。
「ご、ごめん!」
 僕は急いでカーテンを閉めた。
 どうしよう! 本当にどうしよう!本当に本当にどうしよう!
 僕の今の行為は一体なんだ。答えは……せーの『のぞき』! よい子のみんなー。『のぞき』っていったいなんだろーう? はんざーい。つかまるー。おまわりさんにおこられるー。
 みんな正解ー。そうだね最低の行為だね! もう人間のクズだねー。
 そんな最低の行為を僕はやらかしてしまった。これから僕はいったいどうなるんだろう。 停学? それともまさかの退学? そして楽しい楽しいニート生活へ突入? 
 ……。いやそんな生活をうちの親が許すわけない。どうせ殴られるだろうし、僕自身もこの年でその生活はどうかと思うし。
 それじゃあどうするか、僕はそんなにしわが入っていないであろう脳をフル回転して考える。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
 とりあえず逃げるか? 知らない人が誰もいない遠いどこかへ。異国の地へ高飛びするのだ。いや、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ! そもそも僕は逃げる旅費どころかパスポートだって持っていない。そもそも日本語以外の言葉なんて話せるわけがない。そもそもコミニケーション能力が僕にはない。
 そもそも逃げるなんて男らしくないじゃないか。僕は男だ。戦わなきゃ現実と!
 いろんな言葉が僕の頭の中でぐるぐる回ってくる。
 落ち着け落ち着け。とりあえず一旦落ち着こう。現実的に考えて今僕ができるもっとも最良の手段をとろう。僕が今できることはなんだ?
 またまた僕は一生懸命考えた。
 よし、謝ろう。
 僕が出した結論がそれだった。実にシンプルで、それでいて実に当たり前なこの結論。
 謝って、とりあえずわざとじゃないってことをわかってもらうしかない。許してもらえるかわからないけど。というより許してもらえそうにないけど。とにかく謝るしかない。
 親父に殴られないためには! そしてニート生活を避けるためには! 謝るしかない。不祥事を起こした会社の社長なみの謝罪をしてやる!

***

 僕が謝ろうと決意した瞬間、ベッドのカーテンが開いた。
 そこにはさっきの女の子が立っていた。どうやら彼女は今の間に着替えたらしく、上に学校指定のブレザー、下には学校指定のスカートを着ている。そして潤んだ瞳は明らかに僕の方を向いている。やばい。泣かせてしまう……。
「あの、……、その、さっきはすぅいあさんですた!」
 思いっきり噛んでしまった上に、思いっきり声が裏返ってしまうという最低な謝罪を披露してしまった。誠意の気持ちは微塵にも感じられないであろうこのスーパープレイ。今のシーンをリプレイで再生してもらいたいぐらいだ。
 とりあえず僕は思いっきり頭を下げた。そのせいで彼女の表情がわからない。きっと怒っているだろう。そして軽蔑した目で僕を見ているんだろう。
「怒ってる……ます……よね」
 僕は顔を上げて、彼女に話しかける。どんな罵声も受け入れるつもりだった。ただただ僕は謝る。
 僕の問いに対して意外にも彼女は首を横に振った。それは彼女の反応は僕の思っていたのとは違うものだった。
 恐る恐る顔を覗くと彼女の表情からは怒りを感じることはなかった。ただただ僕に向かって首を振っているだけだった。
「許してくれる……とかそういう」
 てんぱっていて自分が何を言っているのかがわからない。ちゃんとした日本語を話せているかも疑問だ。
「……」
 彼女は何も言わなかった。ただ、こくんと小さく頷いただけだった。
 僕はそこで初めて目の前にいる女の子を見ることが出来た。すると胸ポケットに縫いつけられている名札がまず最初に目につく。
 うちの校則は厳しく、これらをつけていないと即注意を受けるのだ。だからうちの学校の生徒のほとんどがきちんと名札を付けてきている。この子も例外じゃないらしい。
 まず僕の目に飛び込んできたのはクラスの欄だった。気づいてみれば彼女が何年生なのかを知らない。先輩なのか後輩なのか、それとも同い年なのか、それもまだわかっていなかった。
『2年4組』。そこに書かれていたのは僕のクラスだった。
 僕はもう一回彼女の顔を見やる。見たことのない顔だった。まだ新しいクラスになってから日が浅いから彼女の顔を覚えていないだけという可能性もあるが、彼女が僕と同じ教室で過ごしていることが何か不自然な気がした。けど何故か彼女に見覚えがある気がした。それも何度も何度も。……まさか。僕は名前の欄を見てさらに驚くことになる。
『塙 秋穂』。僕はなんだか夢でも見ているような不思議な感覚に包まれた。
 僕が教室でどんな子だろうと想像していた女子が僕の目の前にいる。肩まで伸びたまっすぐな黒髪。うさぎを連想させる白い肌。僕が想像していた女の子が目の前にいる。しかも名前が塙秋穂。こんなことがあっていいのだろうか。
 彼女が不思議そうな顔でこちらを見ていた。それもそうだろう。謝ってきた男がこちらをじっと見ているのだ。それは不思議に思って当然だ。
「いや、あの、ごめん。えっと塙さん?」
 すると彼女はびくっと震え、何か怖いものをみるかのように僕を見た。
「いや僕、塙さんと同じクラスなんだ。だから名前は知ってて……それからその名札を見て」
 彼女はまだ怯えたままだったが、少し安心した顔をする。
「あの、ごめん、あのさっき」
 僕は塙さんに再び謝った。今日何回目の『ごめん』だろう。なんか本当に謝罪会見で謝ってる人みたいだ。
「えっと……」
 それから保健室に沈黙が流れた。
 時計の秒針が動く音が聞こえる。僕と塙さんはお互い違う方を見ていた。僕が違う方向を見ているのは僕自身が人の目を見て話すことができないから。もしかしたら塙さんもそうなのかもしれない。
 僕の頭の中をひたすら時計の秒針が回り続ける。
 何か話さないと。だけど何も言葉が浮かんでこない。
「……」
 彼女はじっと僕の方を見ている。それもなんだか心配そうに僕の足の方を見つめていた。ああ、なるほど。僕はどうやら無意識のうちにさっき捻った足をさすっていたようだ。
「えーと。バレーでひねっちゃって。それで僕、保健室に来たんだけど」
 話かけるきっかけが見つかって僕はほっとしていた。ただこの話は終わってしまっているのに次の話題が全然思い浮かばないのだけど……。
 すると塙さんはすっと立ち上がった。そして保健室の奥にある棚に向かう。そして彼女は僕に手を突き出した。手に握られているのは市販の湿布薬だった。
「あ、ありがと」
「……」
 塙さんは何も言わない。ただ恥ずかしそうに下を向いているだけだった。
 僕は湿布役をするためにズボンの裾をまくりあげる。ぴたっ、と湿布を患部に貼り付けると冷たい感触が広がった。



「塙ちゃーん、ごめんね。そろそろ……あら?」
 保健室の入り口の方から声がした。
 入ってきたのは保健の先生だった。僕は彼女の名前を思い出そうとする。えっと……名前名前。何しろ保健室に来たのは去年の身体測定の時以来だし。えっと……確か福田先生だったっけ。
「……えっと君は誰?」
 誰とはご挨拶だな。もっと他の尋ね方があるだろうに。
「あ、二年四組の椎名です。体育で足を捻って」
「ああ、そうだったの。じゃあ湿布出すから」
 そう言って先生は奥の戸棚に向かった。
「いやいいんですよ。もう持ってきてもらったんです」
「え? よく場所がわかったわね。というか保健室を勝手に漁っちゃだめなんだぞ」
 ぷんぷんとわざとらしく頬を膨らませてみせる保健の先生。
「いえ、塙さんが」
「……そうなの?」
 塙さんは顔を赤らめて、こっくんと頷いた。
「そう……。ありがとうね塙ちゃん」
 塙さんはもう一回こっくりと頷く。っていうか塙さんだったらよくて僕じゃ駄目なのかよ。
「あ、そうだー。塙ちゃん。そろそろ帰る時間だよ。送ってくわ」
 すると塙さんは自分のバックを持つ。そして先生は机の中を漁って鍵を取り出した。どうやら自動車の鍵らしい。
「じゃあ、あたしは塙ちゃんを送っていくから」
「あ……じゃあ僕も教室にもどります」
 そろそろ体育の授業も終わったころだろうし。
「いや、君はここにいて。すぐ戻るから」
「あ、でも……」
「これは命令。君はここにいなさい!」
 わかった? と先生は念を推す。これは命令と言うより脅迫じゃないだろうか。
「は……はあ」
 意味がわからなかった。わからなかったけどとりあえず従うしかなかった。とりあえず今の僕には脅迫に立ち向かえる術を持ち合わせていない。
「じゃあ、すぐに戻るから! ばいばいきーん!」
 福田先生は塙さんを連れて保健室から出て行った。最後に行ったセリフは聞かなかったことにしておこう。どう考えてもイタイ。

     ***

「さ、て、と!」
 本当にすぐ戻ってきた福田先生は僕の方を向く。
 僕がバックれて教室に戻ってしまおうなんて考える余裕もないほどだった。
「えーと。授業中だってのに保健室に女の子と二人か。うーん。何をやっていたのかにゃ? ん? 少年」
 先生が顔を近づけてきた。なんだか良い匂いがする……って今はそんなこと考えてる場合じゃない。
「僕は……その……やってません!」
 あ、しまった。後悔した時にはもう遅い。
 ていうか何でとっさに口から出てきたのがその言葉だったんだ? やってません? 何言ってるんだ僕。 何をやってないって言ってるんだ? あーあ確実に誤解された。 
 停学だー。 退学だー。 たーのしーなー。……ってそんな現実逃避してる場合じゃない。なんとかしないと本当にまずい。……なんとかできるのかこの状況。
「ならいいけど」
 は? 僕は思わず拍子抜けしてしまう。本当にあっけなく終わってしまった。さんざん考え悩んだ時間はなんだったんだ。
「えっとシーナ氏? 二年四組ってことは塙ちゃんと――」
 先生は教卓に腰を下ろす。というか『シーナ氏』って僕のことか? そんな風に呼ばれたこと今まで一回もないぞ? まあこれからもないだろうけどさ。
「はい、同じクラス……です」
 とりあえず僕への呼び方をつっこむのはやめた。
「ふーん」
 先生はポニーテールに銀縁眼鏡、そして白衣と言う見るからに『保健の先生』といった感じだった。
 見た感じ年は二十代前半、行ってても三十代前半といった感じ。見た目は若いのに保健の先生としてのこの貫禄はなんだろう。
「塙ちゃんとは知り合い?」
「いえ、今日初めて会いました」
「ふーん」
 その質問を皮切りに先生からの質問攻めが始まった。
「部活は?」「やってないです」
「お家はどこ?」「一駅先のアパートで一人暮らしです」
「好きなものは?」「牛乳プリン」
「嫌いなものは?」「炭酸水。特にメロンソーダ」
「彼女は?」「ノーコメント」
「今まで一度も?」「ノーコメント!」
「いないのね?」「……はい」
「好きなチョコボールは?」「イチゴ味です……この質問に何の意味が」
「バナナはおやつに?」「入りますが……だから」
「銀行の口座の暗証番号は?」「言えるか!」
「円周率は?」「およそ3!」
 後半はまったく僕自身と関係ない質問だった。何の役に立つんだろうこの質問。
 先生は紙に何かを書き始めた。いったい何をメモっているんだか。
「じゃあこれで質問は終わり」
 そういうと福田先生はメモを胸ポケットにしまった。
「あの、じゃあ僕からも質問したいんですけど……いいですか?」
「ん? いいよ」
 もちろん聞くことといえばひとつ。
「塙さんのことなんですけど」
 福田先生は「そうきたか」という顔をした。先生は深呼吸。そして――
「塙秋穂。十七歳。九月二十三日生まれのO型。好きな食べ物は甘いもの全般で嫌いな食べ物はキノコ類全般」
 何も見ずにすらすらと塙さんのプロフィールを言ってのけた。全部暗記しているのだろうか。
「スリーサイズは上から……」
「それは言わなくていいです! 僕、聞いてないですよ? あー。あー」
 僕は手を耳の上に当てて塞いだり開けたり塞いだり開けたりを繰り返す。
「えー。あたしここまで聞き出すのに苦労したのになあ」
 ってことはスリーサイズも聞いたのか。しかも答えたのか塙さん。すごいな!
「まあ本当は推測なんだけど」
 推測かい! っていうかなんでそんな嘘付いた? まあそうだろうな。さすがに問題があるし。
「って僕が聞きたいのはそういうのじゃなくて」
「ん?」
 どうした? と先生は首をかしげた。
「塙さんってまだ一回も教室に来てなくて……」
「あーそうだねー。彼女は保健室登校だから」
 保健室登校。学校には来るけど、教室に行けず、保健室ですごす生徒のことだ。
「学校には来てるんだけど、授業を受けてるわけじゃないからね。彼女留年しちゃったんだ」
 そうか彼女は年上なのか。通りで九月生まれなのにもう十七歳なはずだ。
「生まれつきさ……あまり人と話すのが得意じゃない子っているのよ」
 福田先生は眼鏡のレンズを布でふき取る。眼鏡をとった福田先生はとても綺麗だった。街をあるけば誰もが振り返る、そんな感じの美しさ。眼鏡と白衣のせいでだいぶ損している気がする。正直もったいないと思った。
「塙ちゃんはその極端な例ね。人に話しかけられた瞬間に精神が不安定になっちゃって、体の具合も悪くなっちゃうのね」
 僕も人と話すのは苦手だから、塙さんが精神不安定になってしまう感じはよくわかる。人に話かけられても何も言い出せずに怖じ気づいちゃうあの感じ。全く人と話せないとなると彼女にとって教室は苦痛以外の何ものでもないんだろうな。特にこの高校は常にクラス単位で行動しなけらばならないから他人をコミニケーションをとれなければ授業自体についていけないし。
「あのさ、シーナ氏。休み時間とかって暇だったりする?」
「まあ……暇ですね」
 質問は最後ってさっき言ってたような気がするんだが……。まあいいか。
「保健室に遊びに来てくれないかな。ちょくちょく」
「先生に会いにいくためですか?」
「違うよ。塙ちゃんに会いに行くため」
 まあそうだろうな。
「まったく、あたしに会いに来てどうするんだよ」
「それもそうですね」
「そこは同意しなくていいの! とにかくシーナ氏は明日から保健室に遊びに来るの! 塙ちゃんもあなたを気に入ってるようだし」
「そうですか?」
「そうよ。自分でわからない」
 わからないから聞いたんじゃないか。
「何するってわけじゃなくてただそばにいて欲しいんだ」
「先生のですか?」
「しつこい!」



 その次の日から僕は休み時間になるたびに保健室に通うことになった。休み時間に何もすることがないから暇つぶしに……というのは表向きの理由。僕が保健室に通っている理由はただひとつ。塙秋穂に会いたいから、ただそれだけ。
 何回か通ってるうちに塙さんも僕になれてきたようで、僕が話しかけるとこくん、こくんと頷いてくれる。
 しかしまだ会話がまだできてなかった。僕が一方的に塙さんに話しかけているだけだ。ただそれでも塙さんと一緒にいる時間は楽しかった。いままでは学校にいる時間なんて退屈なものでしかなかったのに。

     ***

「ちゃーす。ちゃーす。ちゃーす」
 いつものように僕は保健室に入る。僕はいつのまにか保健室の常連になっていた。昼休みと放課後は毎回と行って良いほど保健室に足を運ぶからだ。
「ちゃーすは一回でいい。というより失礼しますと言え!」
 福田先生はいつものように教卓に座ってカップメンをすすっていた。というか保健室にいる養護教諭が見るからに体に悪いもん食べてて大丈夫なのか。
「別にいっつもカップメン食べてるってわけじゃないよ。私は自分が好きな人の前でしかカップメン食べないことにしてるんだ。きゃはっ! 恥ずかしい!」
「そんなことより塙さんは?」
 先生の言うことをスルーして僕は塙さんを探す。それに何が「きゃはっ!」だ。見てる方が恥ずかしいわ。
「……ったく。塙ちゃんは寝てるよー。そっとしときなー」
 僕にスルーされたのが気に入らなかったのか、なんだか先生は機嫌悪そうだった。
「じゃあここにいてもしょうがないな。三十路と付き合ってる暇は無いし」
「誰? 三十路って?」
「カップメンすすって。きゃはっ! ボディコン。ジュリアナおたちだーいとか言ってる養護教諭を指す」
「誰が三十路だよ! しかもいつボディコン、ジュリアナとか言ったよ!」
「じゃあ教えてよ。いくつなの?」
「一七歳!」
 ……これだ。先生は年齢を聞かれるといつもこう答えるのだ。ベタすぎるだろ。そんなボケ。大阪のおばちゃんかよ。その年齢にこだわる必要を要約して僕に報告して欲しい。しかも僕とタメって絶対あり得ないだろ。
「一七歳だってあたしが言えば一七歳になるの!」
 いや、その理屈はおかしい。
「一七歳なんだもん! 信じてよ。シーナ氏! まだ十代だもん少女だもん。乙女だもん。普通の女の子だもん。ぴっちぴちだもん」
 何一つ違えよ。それに今時「ぴっちぴち」とか言わねえよ。
「本当だよ? なんで信じてくれないかなあ、このゆとり! ゆとりシーナ氏!」
 なんてことをいうかな!。 こういった教育者を解雇していくことを今こそ考えていく必要があるのではないだろうか。
「そうしたらあたしご飯食べていけないじゃん」
「そんなこと僕の知ったことじゃありません。定額給付金とかでどうにかしてください。それじゃあ僕は教室に戻って机に突っ伏して寝たふりをしつつ回りの話を聞くのでそれじゃあ!」
 僕は保健室を後にしようとする。
「ちょっと待て! そこのひとりぼっち学生」
 この人には思いやりという言葉を知らないのかな。早ければ幼稚園ぐらいで習うと思うんだけど。
「友達もろくにいないミスターひとりぼっち!」
 殺意を覚えた。
「ああ! いないさ! そんな僕はどうすればいいんですか先生」
 とりあえず開き直ってみました。
「死ねばいいんじゃないかな」
 ……教育委員会のみなさん。早くこいつをニートにしてやてください。そうじゃないと心に重い傷を負う生徒が続出します。
「大丈夫大丈夫。あたしシーナ氏にしかこういうこと言ってないから。だから安心して。ねっ」
 何が「ねっ」だ。何がどう安心なんだ。レポート用紙五枚以内で僕に提出して欲しい。
「あーあ、こんなつまらない話していたらお腹が空いてしまったよ」
「つまらなくて悪かったな。っていうかカップメン食べてたろ?」
「カップメンは飲み物です」
 そんなことはないと思う。
「というわけであたしは学食行ってくるから。後はよろしく」
「は? よろしくって何が」
「留守番」
 さらっと言ってのける三十路養護教諭。っていうかそれだけのために僕を呼び止めたのかよ。
「つーか仕事しろよ!」
「失礼な! してるよ! さっきからネトゲ我慢して保健室で待機してるんだよ!」
 あやまれ! 全国の汗水たらして働いてる人たちに謝れ!
「じゃあそういうことで! ぐーてんたーく!」
 謝れ! ドイツに謝れ! ドイツに!
 三十路はそういうと本当に保健室から出て行ってしまった。この人への給料が僕の払っている学費から出てると思うと本当に胸が痛む。
「留守番って言われても……一体どうしろと?」
 僕はひとりごちた。ここ最近保健室に通ってるおかげでどこに何があるかということはなんとなくわかるけど……。だけど健康に関する相談とかだったらどうする? 性の悩みとか僕じゃあ解決できないぜ。
 僕がそんなしょうもないことを考えているとしゃあっと音がしてベッドのカーテンが開く。ベッドから顔を出したのはいかにも「起きたばっかりです」という顔をした塙さんだ。
「あ……えっと、おはよう」
 この挨拶は正しいのかどうかわからない。もうお昼だし。
 彼女は黙ってお辞儀で返してくれた。両手をおへそにちょこんとのせてぺこっと頭を下げる姿はなんとも愛くるしい。僕のほうも思わずぺこっとお辞儀を返してしまう。
「先生は僕らをほっといて学食にいっちゃったみたいです」
 僕がそういうと塙さんはこれまた黙ってこくんと頷いた。きっといつものことなのだろう。
 塙さんはうーんと大きく背伸び、そしてふわあ……と小さなあくびをした。寝起きの塙さんもなかなか可愛らしい。
 塙さんは寝ぼけ眼で白いコンビニ袋をバックから出す。コンビニ袋から取り出したのはメロンパン。しかも中にクリームが入ってるタイプのやつだった。
 これは三十路から聞いたことだが、彼女の昼食はいつもコンビニで売っている菓子パンらしい。そして今日の昼食はメロンパンというわけだ。
 はぐっと塙さんはメロンパンをかじりつく。もきゅもきゅと噛みごっくんと飲み込む。そしてパックのお茶を飲んでぷはーと息をつく塙さん。両手でメロンパンにかじりついている塙さんがハムスターのようでなんだか微笑ましかった。
 メロンパンを食べている塙さんを見ていると僕もお腹がすいてきた。なんたって今は昼休みなのだ。僕もお昼ご飯を食べないと。
「ねえ塙さん。僕もここでお昼食べていい?」
「……」
 彼女はこくりと頷く。
「さんくす」
 僕は丁寧にお礼を言うとリュックから弁当を取り出す。僕は弁当を作って持ってきていたのだ。僕は最近お昼ご飯には自分で作った弁当を食べている。自分で弁当を作って持ってきた方が経済的だし、旨いのだ。包みを解いてフタを開けて、両手のシワとシワを合わせて――
「いた、だき、ます!」
 今日の弁当のおかずは卵焼きにウインナーにホウレン草のソテー、それにきんぴらごぼう。冷凍食品が多いのは少し気になるが、男子高校生が作る弁当にしては上々の出来だろう。
 さっそく僕は卵焼きにかぶりつこうとした……のだが。
 じ――――。
 ……なんだか視線を感じる。けど……気のせいだな。
 うん。じゃあ改めていただき――。
 じ――――――――。
 うん。間違いない。僕は誰かに見られている。それもとてもとても熱い視線で。
 さてこの目線は誰から。……考えるまでもない。塙さんが僕の姿を見ているのだ。
「えっと? 塙さん?」
「ひゃっ!」
 高く透き通った声。可愛いと思った。
 塙さんの声はきゃしゃな見た目とあっていたし、何より――可愛いと思った。
「えっと……あの」
 彼女は顔を真っ赤にさせた。そして恥ずかしそうにうつむいてしまった。
「塙さん。僕の弁当一緒に食べよ」
「え……いや、あの」
 塙さんはなんて言っていいかわからないという様子だった。
「いいから。毎日パンばっかりじゃ体によくないって」
「けど……あのシーナくんが」
 初めて彼女が自分の名前を呼んでくれた。塙さんが僕の名前を覚えていてくれた。そして僕の名前を呼んでくれた。それだけのことなのにここ最近、いやここ五年、いやいままでで一番うれしかった。『勝訴』って紙を持って疾走したいくらいだ。
「大丈夫。僕も一緒に食べるから。それに僕はあれだよ。あんまりおなか空いてないし」
 嘘だった。本当はとてもお腹がすいている。だけど塙さんに僕の作った弁当を食べて欲しかったのだ。
「はい、どうぞ」
 僕は塙さんに弁当箱を差し出す。
「あ、あり――」
「うん」
『ありがとう』と言いたいということは塙さんの顔を見ればわかる。それだけで十分だ。
「えっと……ん?」
 ここで二人で弁当を食べるにあたって足りないものが発覚。それはもちろん箸だ。
 僕は今日一膳しか箸を弁当箱に入れてない。というかまあ当然だろう。自分が食べる弁当に箸を二膳入れてくるやつはそうはいない。
 どうしよう。保健室に箸なんて――。いやあの三十路のことだからもしかしたらあるかもな。
「あ、……あの」
「え?」
 彼女から僕に話しかけてくる。今までこんなことなかったから少し心臓がどきどきしてきた。
「食べさせて……。そ、そうすれば、お箸いらないし」
 塙さんの頬は相変わらず真っ赤だ。確かに二人で二つの箸を使えばこの状況は万事解決だ。塙さんグッドアイディ……あ? え?
「いや、あの、その、え! いや、はい」
 自分が何語を喋ってるのかすらもうわからない。それくらい僕は動転していた。一膳の箸を二人で使うということは……つまり。
 塙さんの顔がますます赤みを増してきた。つまり塙さんも気づいているんだ。一膳の箸を二人で使うこと。それは――間接キスを意味するってことを。
「いいいい……いいの?」
 どうしよう体の震えが止まらない。
「……う……、うん」
 塙さんはこくんと頷く。
「じゃあ――」
 僕は卵焼きを箸でつかむと彼女の口へと運ぶ。緊張で箸が震えているのがわかった。すると塙さんは小さく口を開け、そして卵焼きを噛んだ。
「……おいしっ」
 塙さんは笑った。屈託のない、すごく――ものすごく優しい笑顔。口元には八重歯を覗かせていた。その笑顔を見ただけで僕の緊張は一気にほぐれていった。
「はい。お茶」
 僕は水筒に入れてきた麦茶を塙さんに渡す。カップが二つ付いているタイプの水筒に入れてきたのが幸いした。ごきゅ、ごきゅと塙さんはこれまたおいしそうに麦茶を飲んだ。
「はー」
 満足そうに塙さんは一息つく。
「ありがとう」
 彼女はさっきと同じ笑顔を僕に見せた。
「どういたしまして」
 僕も笑顔で返す。これは僕が笑顔を作ったというよりも彼女の笑っている顔を見て僕も自然と笑顔になってしまったのだ。
 僕と目が合ったのが恥ずかしかったのか、塙さんはうつむいてしまった。僕も恥ずかしかったので下を向いてみる。今保健室に誰かが入ってきたら、僕らを見て何を感じるのだろう。あやしい二人だと思うだろうか。
 バカップルに見られたらいいな、なんて思う。なんてことを塙さんに言ったら彼女はなんて言うだろう。そしてなんて表情をするだろう。僕はそんなことを考えてるだけでますます顔が火照ってくる。それがなんだか恥ずかしくもあり、嬉しくもあり……。なんだか自分でもよくわからない。
 ようやく僕は顔を上に上げる。顔が真っ赤なのはもうこの際気にしないことにする。まだ塙さんの顔も真っ赤なのだが、もううつむいてはいなかった。うつむいてはいなかったけど彼女は同じ場所をずっと見つめていた。塙さんの目線を追っていくと、彼女のひざに辿り着く。何でひざなんか見てるんだろう。……あっ。
 僕は彼女がひざをを見つめている理由がわかった。彼女はひざを見ているのではなく、ひざの上に乗っかっているものを見ていたのだった。彼女のひざの上にはちょこんと小さくて黄色いものが乗っかっているのだ。
 卵焼きだった。さっき食べさせた卵焼きの破片が塙さんのひざの上に乗っかってしまっているのだ。
 僕はそれを拾った。親指と人差し指で黄色い破片をつまんで……。つまんで……? あ……。
「あっ」
 思わず声が出てしまった。今僕は何をしたんだ? 親指と人差し指で卵焼きの破片をつまんだ? その卵焼きの破片はどこにあったんですか? ……塙さんのひざの上……です。それで僕は塙さんのひざを……触って……触って……ました。
「いや、あの……えっと」
 わからない。何が何だかわからない。塙さんのひざを触ってしまった。今――ここで。ぷにってしてたような気がする。そして暖かかったような……気がする。って何をやってるんだ僕は! 何で塙さんのひざを触ってるんだよ! わけがわからないよ。馬鹿じゃないのか僕! 
 右手に卵焼きの破片をもったまま僕は混乱した。塙さんにはどう見えているんだろう。いきなりひざを触ってきて、それでいて卵焼き片手にあたふたしてる……明らかにへんな人じゃないか。
「は、はなわさ……ん」
 と彼女の名前を呼んでみたところで、僕は何をしていいのかわからない。別に下心があったわけじゃないんだ。ただ卵焼きの破片が落ちていたからそれを拾っただけなんだ。それがたまたま塙さんのひざの上だっただけなんだ! ……いいわけ臭いにもほどがある。もうそろそろ一回死んでみようかな僕。
「……それ」
 僕がやっと聞き取れるぐらいの小さな声がした。
「え?」
「それ……も」
 それも? 僕は塙さんの声を頭の中でリピート再生する。……わからない。
「そ……それも、さっさっきと同じような……かん……じ」
 さっきと同じ……ま、まさか。
 塙さんの「それ」を指すのは、僕の指に挟まれている黄色い破片だ。それで「さっきと同じような」ってことはつまり……。
「えっと……これを……食べさせるってこと?」
 僕がそう言うと塙さんの顔はさらに紅潮した。水をたらしたら蒸発するんじゃないかってほどに……。そしてこっくりと大きく恥ずかしそうに頷いた。
 僕は卵焼きを彼女の口元へと持って行く。すると塙さんは小さく口を開けた。塙さんは卵焼きを口にくわえる。そして……僕の指も口にくわえた。塙さんの口の中は暖かかった。そしてとても柔らかかった。
 塙さんと目が合ったので僕は急いで指を引っ込ませた。
「……ははは」
 とりあえず笑ってみた。
「ご、ごめん」
 そしてとりあえず謝ってみた。本当に謝ってばっかりだ。
 謝った僕に塙さんは首を横にぶんぶんと振っていた。
「いや、私……あの私、その私こそ……」
「「ごめんなさい」」
 僕の低い声と塙さんの高い声が重なる。思わず僕らはお互いの顔を見合わせた。そして二人で笑いあった。彼女の笑い声はとても優しいものだった。彼女が笑っているだけで僕はなんだか安心感に包まれていった。そしてある感情が芽生えていくのがわかった。
 ずっと。ずっ――と塙さんの笑顔を見ていたい。一緒に笑っていたい。
 そしてずっと塙さんの傍にいたい、なんてことを――。



「留守番ごくろー。アンド塙ちゃんおはよー」
 三十路が学食から帰ってきた。……というか学食に行ってきたにしてはちょっとばかし遅くはないだろうか。もしかして僕と塙さんを二人っきりにするために――。なんてことを考えたがそれはなんとなく自意識過剰だと思った。きっと学食がめちゃくちゃ込んでいたんだ。そう言うことにしておこう。
「三十路!」
 僕は目の前にいる養護教諭に吠える。
「うっせーな。なんだよ大声出して。それにあたしは一七歳だっていってるだろうが!」
 爪楊枝でシーハーシーハーする一七歳がどこにいるんだろう。けどいちいちツッコミを入れている場合ではない。
「僕、塙さんのことが好きだ!」
 僕は三十路に向かってさらに吠えていた。誰かに聞かれたってかまうもんか!塙さんはあっけにとられた表情で僕を見ている。何が何だかわからないっていう表情を浮かべている塙さん。でも大丈夫! 僕も今何が何だかわからない!
 三十路は黙って僕を見つめる。そして重い口を開く。
「ワンモアチャンス?」
 ……英語? っていうか何故英語? しかも間違ってるくさい。たぶん『もう一度言ってみろ』と言いたいんだろうけど。
「僕は塙さんが好きになりました」
 とりあえずゆっくりわかりやすく今の僕の気持ちを三十路に伝えてみた。
「イングリッシュプリーズ?」
 だからどうして? しかもイントネーションおかしいぞ?
「はっ! シーナ氏。そんなことじゃうちの娘はやれん!」
 ……いきなりなんですかこの人は。別にお前の娘じゃないだろ塙さんは。
「はははは……塙ちゃんを守るんだったらあたしを倒してから行け!」
 キャラを定めろ! キャラを! つーかもう英語はどうでもいいのかよ!
「まあ彼がこういってますけど……塙ちゃん」
「えっ! あっと……その……あの」
 塙さんはいきなり振られて何を言っていいかわからないと言った様子だ。そりゃあそうだ。いきなり自分のことを好きだって叫んでる男がいて、それに英語で対応する養護教諭がいて、娘をやらんって言ってる養護教諭がいて、ラスボスきどりの養護教諭がいるのだ。
「塙ちゃん。シーナ氏のこと嫌い?」
 ん? と首をかしげて塙さんにつめよる三十路。
「そんなことない! そんなこと……ないと……思う」
 いきなり塙さんが大きめの声を出したので僕は驚いた。
「そんなことないってよかったねシーナ氏」
「う……うん」
 嬉しい……よな。喜んでいいんだよな。
「あ、ありがとう塙さん」
「……う、うん!」
 塙さんの返事を聞いて僕は笑った。そして彼女も笑顔を見せてくれた。
「……あれ、もしかしてあたし邪魔? どっか行こうか? あとは若いお二人に任せようか? 年寄りの冷や水飲もうか?」
 三十路は、僕と塙さんが顔を赤くしているのを見てからそう言った。あたし邪魔? と聞きながら三十路はにやにやと僕たち二人の様子を眺めている。絶対どっか行く気ないだろこの人。あと年寄りの冷や水は飲まないほうがいいと思う。
「あのさ……三十路」
「ん? どうした? シーナ氏? やっぱ邪魔?」
『邪魔!』と言いたいところだった。『出てけ!』って言いたいところだった。
 ただ僕はそんな事は言えない。というより三十路には逆にここにいてもらわなければならない。
 もし三十路が出て行って塙さんと二人きりにされたら……。困る。すごく困る。
 だって今二人にされたら、何を話して良いかわからないじゃないか。
cont_access.php?citi_cont_id=108022677&s
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ