私が師匠と戦う訳
「お久しぶりです、お師匠様」
「あぁ、……3、いや2年、ん、4年ぶりぐらいか?」
「3年ぶりであっていますから。たった1人しかいない弟子との、最後の別れの日ぐらい覚えていてください」
「そういえば、学園の卒業は3年だったな。思い出した」
気だるげそうに記憶を思い起こしている男性に、少女――明乃は小さく嘆息した。この人、3年経っても全然変わっていない…、という呆れるやら嬉しいやらという気持ちが表れる。ただ、やはり若干忘れられていたことには怒っていた。
「学園に私を放り込んだのは師匠でしょう。22歳だというのに、もう痴呆ですか?」
「弟子よ、よく聞け。記憶というものは、必要なこと以外は忘れていくものだ。人間として忘却という行為は、仕方のない部分がある」
「遠まわしに弟子をディスったよ、この人」
「ディス…?」
初めて聞く単語に不思議そうな顔をされたが、明乃は答えを言うことなくツンとした態度を崩さなかった。5年前に永遠の別れとなってしまった故郷の言葉。この世界に落ちてきた当初は、言葉の壁に四苦八苦したものだ、と彼女は感じる。
大部分の壁は、明乃の努力と魔術の力技によって突破してきたが、さすがにパソコンがない異世界でスラングは通じない。彼女はそこまでネットの民ではなかったが、友人が詳しかったため、又聞きで覚えてしまった。なんとなくしか意味は分かっていないが、使いやすいため、時々出てしまうのだ。
「弟子の世界の言葉は、よくわからないものが多いな」
「私にとってみれば、この世界の言葉の方が、不思議が多いですけどね。横文字が多いって不便ですよ」
「くくっ、そういうものか。ちなみに僕なりに先ほどの言葉を検証した結果、『ディスった』という言葉は『相手を馬鹿にしている』または『取るに足らない相手である』という意味ではないかと思うが、あっているか?」
「……相変わらず、性格悪いですねっ!」
会話の内容から意味を考えたのだろうが、それをわざわざ弟子に聞き返す師匠の性格に青筋が出てしまった。弧を描いた口元が、完全に面白がっていることを告げている。この師に口で勝てたことが、明乃にはほとんどない。彼の口から出てくるのは、基本的に魔術皮肉魔術魔術魔術である。魔術馬鹿であった。
弟子を使って魔術の実験をしたり、魔法薬の材料探しに弟子をパシッたり、明乃の知識から新魔術のアイデアが出るかもしれないと何日も問いただされたり、魔術の修行のためにバトルジャンキーよろしくな戦闘の連続だったり。魔術師ってもうちょっと落ち着いた感じじゃないんですかァ!? と叫びまくった弟子など全く気にせず、魔術のためなら文字通り千里すら駆けた。
そんな魔術馬鹿な男に師事することなど、魔術以外にない。魔術師の師弟。それが明乃と彼の関係であった。他に関係があるとすれば、明乃の保護者。この異世界に親類知人が誰もいない彼女にとって、彼は唯一の守ってくれる存在だった。堂々と危険地帯に連れて行かれることも多かったが。
保護者としても、師匠としても、明乃は彼を選んだことに頭を抱えたことはあった。だが、後悔だけはしたことがない。怒ったことや絶叫したことや、恐怖したことや泣き叫んだことなど数知れないが、それでも後悔はなかった。彼女はそっと瞼を閉じ、右手に持った1本の杖を強く握り締めた。
「……お師匠様の性格が悪いのは今更ですね。そのあたりは、もう諦めています」
「僕が言うのもなんだが、君も結構いい性格をしているよ」
「ありがとうございます。伊達に13歳で、異世界に天涯孤独で放り出されてはいません」
肩を竦めながら、明乃は笑みを見せる。皮肉を流す彼女を、彼は静かに見据えた。そして酷薄に浮かべていた笑みを消し、ふっと自然な笑みを作った。初めて会った時の彼女と、今の彼女とが交互に記憶を駆け抜ける。変わったな、と小さな呟きがこぼれた。
「それより、師匠。3年前の約束を覚えていますよね。そのために、学園の卒業式当日にお呼びしたんですから」
「1ヵ月ほど前から、いきなりどこぞの召喚獣が封筒を咥えて持って来たからな。封筒の中には、学園直通の転移魔法陣の紙と一緒に、『逃げるな』とすごい筆圧で書かれた手紙。それが複数枚届く。来るだろ、迷惑だし」
「旅をしている師匠を捕まえるためには、複数枚出しておかないと不安でしたから。あと『来ないとさらに面倒になるな』と感じさせれば、さすがにばっくれないだろうと思いまして」
「僕は約束したことは守る。ちゃんと『弟子が学園を卒業したら会いに来る』つもりだった」
「卒業して何ヵ月後ぐらいに?」
「…………ちっ」
こういう師匠である。
「おしゃべりはここまでにするか。そっちはとっくに準備万端のようだからな」
「はい。この日のために頑張ってきましたから」
明乃は自分の足先から胸元までを一瞥し、彼の言葉に肯定を返した。魔獣の鱗から作った胸当てと関節を守る防具。シンプルながら丈夫な衣服と靴。腰まで伸びた黒髪は後ろで一つ括りにし、髪が風に揺れる。それに灰色のローブを纏い、杖を片手に持つ彼女の姿は、まさに一人の魔術師であった。
明乃は師と旅をしていた頃と、ほぼ変わらない姿だった。違うのは防具の材質と、身体つきと、表情だろうか。彼女の師匠である彼も、似たような恰好である。というより、彼の服装を真似た部分もあるので、似ていて当然だろう。違いはローブの色が、黒か灰かぐらいだ。
「……これより、師弟の儀の最終儀式を始める」
ザリッ、と師の履くブーツから、土を踏みしめる音が聞こえた。前に流れていた黒髪を己の耳にかける師匠の姿を見て、明乃も足に力を入れる。彼が戦いの前にする癖。この癖が現れたことに、彼女は嬉しさを感じる。彼がこの仕草をするのは、それなりに実力があるものを相手にする時なのを知っていたからだ。
隠しているようだが、彼の眼が伝えてくる。魔術師として、彼は常に上を目指す人物だ。弟子とはいえ、強者との戦いに彼の黒い瞳が輝いている。師匠としての威厳を保とうと隠しているようだが、根本が魔術一色のバトル好きなのだ。
明乃は、本当になんでこの人を師匠にしちゃったかなー、と思いながら、魔術師の師弟の儀を思い出す。儀といっても、そこまで難しいものではない。あなたは私の弟子になりますよ、という証を示す『始まりの儀式』から始まり、そこから魔術師になるための段階を踏んでいき、最後に『終わりの儀式』を行う。それがこの世界での慣習らしい。
古くからの慣習ではあるが、これが続くのにはそれなりの理由がある。『始まりの儀式』を行うと、こいつには師匠がいますよ、という身分証明のようなものが手の甲に現れるのだ。明乃の右手の甲には、黒色の蛇のような紋章がある。これは師である魔術師によって紋章が違うため、見分けにも使えた。
そして一番重要なのが、弟子になった者はその師匠に逆らえないのだ。それほどの拘束力はないため、簡単な効果しか出ない。動くな、と命令をすればちょっと弟子の身体が数秒カクカクする程度。微々たる効果だが、やられる側はたまったものではないだろう。明乃はこれで、今まで何回も散々な目にあっていたりする。
だが、身分が存在しない明乃にとって、この紋章は異世界で生きていく上で大切なものだった。たとえ師に逆らえなくなったのだとしても、魔術師の弟子として身分が確立されたのだ。師という保護者を得たことで、彼女はようやく地に足をつけられた。
しかし、始まりがあれば終わりがある。それが師弟の儀の最終儀式。つまり弟子の卒業試験であった。『終わりの儀式』で見事卒業が認められれば、一人前の魔術師となる。魔術師となれば、弟子の紋章は消えるが、代わりに師の魔力で作られた指環をいただくことになる。その指環が『一人前の魔術師』としての新たな身分となるのだ。
「それで、師匠。師匠の卒業試験はなんですか?」
「わかっているだろう。師によって試験の内容は様々だろうが、基本は同じだ。僕を倒す、または僕の手から杖を手放すことができれば合格だ」
「……終わりの儀式の内容を聞いた時から思いましたが、これ師匠によっては一生弟子のままの人もいるんじゃ」
「いるだろうな。弟子のままが嫌なら、弟子をやめるしかない。中には基準値を超えたらいい、という者もいるらしいが……」
「お師匠様が、そんな殊勝なお心を持っているとは思っていないので、全力で倒しに行かせてもらいます」
「あぁ、いいだろう。全力でこい」
噛みつく気満々発言の弟子のセリフに、嬉しそうに受け応えする師匠。ちょっとは残念がれよ、と明乃は思うが、こういう人なのは今更である。彼の弟子になって頭を抱えたのが、この儀式だった。間違いなく、彼は手加減なく来る。殺し合いには発展しないだろうから、殺傷力のある攻撃はないだろう。だが、それだけだ。
『終わりの儀式』が始まると、終わるまで師が弟子を拘束できる力はなくなる。明乃は深く息を吐くと、真っ直ぐに彼を見据えた。3年前、彼女が学園の卒業と同時に約束したのは、この儀式だ。まだ早い、と言った彼に彼女は必死に縋りついた。毎日物理的に縋りついて頑張った。
約束をなんとか取り付け、3年。ようやくここまで来た、と明乃は姿勢を低く保ちながら思考する。彼の弟子から卒業し、一人前になってみせる。それを目標にしてきたのだから。
「……そこまで魔術師になりたかったとはな。それとも弟子がそんなに嫌だったか?」
「正直に言えば、魔術師にそこまでなりたいわけじゃないです。もちろん、なれるのならなりたいですが、とにかく弟子を卒業したくて」
「ん? つまり僕の弟子が嫌だからだと。……ほぅ、いいだろう。君が負けたら、『亡骸の森』での採取をお願いしようか。終わりの儀式を申し込むぐらいだ。できるだろう」
「ちょッ、そこ第1級指定の危険区域ですよ!? 弟子をなんだと思っているんですかッ!」
「使いぱっ、おもっ、下ぼっ、うーん。……うん、弟子は弟子さ」
「パシリは自覚があったのでいいですが、2つ目と3つ目は何を言いかけましたか」
確実にわざとだった。そんな彼を見て、本当になんでかな…、と彼女はこの試験を受けたいと思った動機を考える。弟子は辞めたい。それは事実だが、彼の弟子が嫌だからではない。ただ、弟子の身ではできないことがあった。それだけのこと。
「……ねぇ、お師匠様。私が負けたらって条件があるなら、私が勝ったらっていう条件もありですよね」
「あり、だな。なんだ、何か欲しいものでもあるのか」
明乃の条件提示に、彼は少し困惑しながらもうなずく。最初に負けたらと言ったのは自分自身なので、断るつもりはない。師匠からの肯定の言葉に、明乃は勢いよく首を縦にふった。
「はい、欲しいものがあります」
「そうか。まぁ、僕が協力できる範囲でいいなら叶えてやろう。秘術とかはさすがに無理ではあるが…」
「言いましたね、協力できる範囲って言いましたね。約束してくれますね」
「あ、あぁ」
どちらかと言えば当惑の方が大きいが、彼は了承した。彼女がここまで自己主張が強くなったことに、戸惑いながらも受け入れる。泣いてばかりだった幼い少女。それが今では、真っ直ぐに自分の足で立とうとしている。学園に入れたのは、やはりよかったのかもしれない。3年会っていなかったとはいえ、明乃の成長を保護者として感じられた。
「――始めるか。合図はいるか?」
「いりません。魔術師は杖を構えた時点で、戦場に立ったも同然。それを私に教えてくれたのは――」
「僕、だね」
お互いに口元へ笑みを浮かべながら、杖を掲げた。バチリッ、と空が鳴り、魔力の風が吹き荒ぶ。この辺りに街や街道はなく、他者を巻き込まない場所を選んだ。遮蔽物は少なく、魔獣などがもし現れてもすぐに対処できるような開けた場所。
言葉はない。どれほどの突風でも、逸らされない目。そこに魔力の風によって飛ばされた小石が、岩に当たり小さな音が生まれた。お互いの耳にその音が響いた瞬間、彼らの足は地を蹴った。
******
――天からの落とし子。
この世界には、そのように呼ばれる存在がいる。落とし子たちは、こことは違う別の世界から来た来訪者であった。その者たちには、特徴がある。彼らには、この世界にはない智を持っていた。溢れるほどの力を持っていた。
この世界は、魔力で満ちている。落とし子たちは、人一人が内包できる魔力とは桁外れの量を持って落ちてくる。その理由は未だに解明されていないが、その力は多くの影響をこの世界に与えた。
大昔に落ちた子の一人は、魔力という武と持ちし智を使って国を作った。一人は、研究に研究を重ね、新たな魔術を作りあげた祖となった。一人は、異種族の戦争を止め、英雄になった。時には、一つの種族を全て滅ぼした者さえいる。数は決して多くはなかったが、落とし子が現れたということは、どんな歴史上でも波紋を呼んだ。
天からの落とし子、と呼ばれるのは、彼らが総じて人を超えていたからだ。神と崇められる時もあれば、化け物と罵られる時もある。時代に一滴の雫を落とし、波を起こす来訪者たち。彼らは、この世界の人間が望む、望まないに関わらず突如現れるのだ。
そしてそれは、落ちてくる者たちにとっても同様だった。
「落ち着いたか?」
「…………」
「だんまり、か」
黒髪の少年は、自身の毛布に包まったまま動かない少女に頬を掻いた。眠ってしまったのか、とも思ったが、毛布の隙間から覗く目と視線が合う。目が合ったと同時に、バッと彼女は再び顔を隠してしまった。
時々か細い声が聞こえるが、彼には少女が何を話しているのかがわからなかった。ただその瞳に映るのが、恐怖と戸惑いと絶望といった負の感情ばかりであったことはわかった。魔術一筋で生きてきた少年は、同年代の女の子とあまり関わってこなかった。17年で培ってきたほとんどの知識が魔術なのだから、筋金入りである。
そんな彼が、さらに年下の怯えた少女にできることは何もなかった。ここが街中だったのなら、人当たりの良さそうな人間に押し付けたのだが、残念ながらここは森の中。しかももう空には星が瞬いている。面倒なことになった、と少年は嘆息しながらも、怯えた少女を見捨てていくのはさすがに罪悪感があった。
「ここは街から距離があって、君のような子どもが一人で来られる場所じゃない。誰かと一緒だったのか」
無駄かもしれないと思いながらも、彼は言葉を重ねた。たった一枚の毛布も取られてしまったため、寝るにしても少々寒い。だが、会話にならない相手にそろそろ本当に面倒になってきた彼は、もう寝ようかと思案してしまう。
そんな思考をして、一分後。彼はさっさと寝ることに決めた。明日の朝にはさすがに落ち着いているだろう、と欠伸を一つした彼は、杖に魔力を流し、宙に振った。闇の中にこぼれた光が、彼らを囲うように取り巻く。短い詠唱を終え、見えない壁を作り上げた少年はその出来栄えに満足した。
15歳という若さで魔術師であった師から指環を受け取った彼は、更なる飛躍のために旅をしていた。一人旅であったが故に、結界を張り、外敵から身を守るための魔術を行使したのだ。念のため、自分と少女にも個別に結界を張ろうとして気づく。そこには毛布から顔を出し、驚愕の目で少年を見ている少女がいた。
「何をそんなに驚く? この程度の魔術なら、見たことがあるだろう」
「……っ、――――」
少女は話しかけられたことに、ビクリッ、と肩を揺らす。だが、やはり先ほどのことが気になるのか、ぱくぱくと口を開いた。しかし彼の耳に入るのは、聞いたことがない言葉ばかり。意思の疎通ができないことがこれほど困難だとは、と彼は溜息を吐いた。
彼の溜息に、自分の言葉が通じていないとわかると、少女はまた泣きそうな顔になる。さすがに泣かれるのは困るのでなんとかしようと思うが、解決策が思い浮かばない。彼は同じ師を持った、女遊びをしていた兄弟子のことを思い出す。彼ならどうするのかと考えてみたら、「弱っている女の子にはな。優しく抱きしめて、ちゅーが効果的だ!」とトチ狂った最低な助言が思い浮かんだ。全力で無視した。
彼女は何を伝えたかったのか。こちらの言葉が通じているとも思えない。せめてどちらか一方だけでも、言葉が通じていればよかったのだが。そのように考えを巡らせる彼の隣で、目に涙を浮かべながら、少女は地面に何かをかいていた。
「――、――――」
「ん、……絵か? だが、これも――」
彼女が描いたのは、杖を握るローブの少年。髪型からおそらく自分のことだろうと当たりをつける。杖の絵に何度も指を指す少女に、杖が気になるのかと疑問を持つ。だが杖の絵の隣にあった、彼女がかいたものを改めて見たことで、少年は驚きに固まった。
「これは、古代語か?」
「――?」
「待て、これと同じ字を他に書けるか? これなら見たことがある。確か、天の落とし子様が書いたとされる禁書に似たようなものが…」
少年は己の師匠の書庫に勝手に侵入しては、本を読み漁った記憶を思い出していく。少年が持つ杖の先に書かれた文字。それに指を指し、同じように地面に書いた。少年の意を汲むことができた少女は、文字をどんどん書いていく。それを眺めた少年は、必死に記憶を辿りながら翻訳を始めていった。古代語にハッスルした。
一、二時間が過ぎ、気づけば怯えていた少女と少年との距離はほとんどないぐらい接近していた。文字を解読していく少年と、隣で必死に書いたり伝えたりする少女。さらに夜が更け、疲れや眠気からか、少女は船を漕ぎ始めるが、それに少年は遠慮容赦なくその頭をどつき、覚醒させる。痛みに涙目になった少女が睨むが、全く意に反さずに続きをさせる。鬼だ、と彼女は思った。
それからも、眠気に負けそうになった女の子に容赦なく鉄拳を食らわせた。3度目はさすがに彼女も怒って少年にとびかかるが、結界魔術で阻止される。鼻を結界に強打し、悶える少女に少年は盛大に噴き出した。それがまた火に油を注ぐことになり、少女は本気で怒ったのであった。初めて出会った二人は、この時喧嘩を通して確かに通じ合えていた。
「今思い出しても、ありえません。4つも下の女の子に手をあげますか、普通」
「僕としては、いきなり魔力の籠った蹴りを放ってくるとは思わなかった。結界魔術をぶち抜いてくるようなやつを、女の子扱いできるか」
「あの時は怒りで、気づいたら使っていました。この鬼に一発入れるために、目の前の邪魔な壁を粉砕できる力を! って考えたら急にムクムクと」
「なるほど、これが天からの落とし子の理不尽さか」
あの森で出会ってから、3ヵ月目。最初に訪れた街で購入した灰色のローブを身に纏った少女と、黒で統一された少年。むすっ、と頬を膨らませた明乃は、あの後のことを思い出す。はっきり言って、理不尽さなら目の前の人物の方が理不尽だ、と心から思っていた。
彼の弟子になってからは、相手は更に遠慮がなくなった。弟子に人権などない、と言わんばかりの所業の毎日である。師匠の言うとおりに魔力のコントロールを行い、詠唱を教わり、それを反復していく。実戦はまだだが、簡単な魔術ならいくつか使いこなせるようになっていた。ちなみに師匠からは、驚異的なスピードだからな、と呆れながら言われた。
彼女がここまで話ができるようになったのは、魔術のおかげだ。少年は明乃に魔力があるとわかると、問答無用で『魔声』と『魔聴』の訓練をし、叩き込んだ。みっちり扱かれた彼女は、3日でなんとか身につけてみせた。恐るべきは、己のスペックか、少年の鬼畜さか。たぶん両方だとは思うが、比重は後者だと明乃は信じている。
ちなみに彼が、この魔術を叩き込んだのには理由がある。『魔声』とは魔力を含んだ声のことで、『魔聴』はその声を聴くためのものだ。これは魔術師同士の通信で使ったり、魔獣や精霊といった存在と言葉を交わす時に用いられる思念の言葉である。ある程度の魔力とコントロール力があれば使える、初級の魔術であった。
睡眠不足ながらも、なんとか言葉を交わす術を得た彼女は、情報を手に入れようと少年に話しかけた。思えば、自分たちは名前すら知らなかったのだ。色々酷い目にあったが、おかげで意思の疎通ができるようになった。そう思っていたが。
「よし、これで話が通じるな」
「はい、本当です。魔術ってすごいですね。いつもしゃべっている言葉と似ているようで違いますし、聞いている方もまるで膜がかかったような感じに聞こえ――」
「それじゃあ、古代語の解読の続きをやるぞ。魔術の祖と呼ばれた落とし子の魔術、必ず手に入れてやる」
「え、あの、古代……えっ? あれって、私たちが意思疎通をするために頑張ったんじゃ。まずは名前とか、場所とか、お互いのこととか」
「そんなものは後だ。何のために魔術を叩き込んだと思っているんだ。古代語を解くためだろう」
いえ、違います。そう心から少女は思ったが、この少年の性格をだんだん掴めていたので声には出さなかった。異世界に落ちて、1日目は世界に絶望し、2日目に人と出会って喧嘩をし、3日目~5日目にスパルタされ、6日目~10日目は文字を解くまで缶詰にされた。その間、最初に出会った森で野宿。魔術のためなら、彼は寝床も食事も拘らないらしい。魔術馬鹿を発動させた彼はひどかった。
彼が満足し、ようやく名前を教え合ったり、この世界について知れたのは、異世界に落ちてから12日目。これを早いと感じるか、遅いと感じるかは本人次第であろう。天からの落とし子とか魔術とか魔獣とかファンタジー要素に溢れた事柄に、彼女はもう投げやり気味に受け入れていた。今はそんなことより、お風呂に入ってベッドで眠りたかった。
そして、やっと宿についた明乃はベッドに身を沈め、すぐに眠りについた。夢に出てきたのは、彼女の家族や親戚や友人たち。家で食事をして、友達と学校に行き、ゲームをして雑誌を読む、そんな当たり前な日々。夢の中の彼女は笑っていたが、眠る彼女の頬には静かに涙が流れていた。
少年はそっとこぼれた雫を拭きながら、明乃のいた部屋から出る。彼女に話したのは、彼の知る限りの真実。彼自身は非のないことであるが、それでも唇を噛みしめた。天からの落とし子は、誰一人として元の世界に帰れなかった、と告げた時の明乃の顔を思い浮かべながら。
「……弟子にして欲しいんです」
「唐突だな」
宿で寝泊まりをするようになって5日経った。明乃が異世界に落ちて17日目。5日間塞ぎ込んでいた彼女は、お世話になっている少年へと向き直る。自暴自棄になりかけたこともあったが、それを止めてくれたのは目の前の少年だった。
彼は衣食住を、明乃に無償で与えてくれた。毎日の食事や、汚れた服の代わりに買ってくれた新しい服、ここの宿代。塞ぎ込んで3日目で、少年にやっかいになってしまっていることに気づき、彼女はここまで好意を受けられない、と慌てて断った。
「ただの好意じゃない、報酬だ。君は僕の研究の協力者なのだから、堂々ともらっておけ」
彼は至極あっさりと返答すると、明乃に今日の食事を手渡した。地球のパンと比べれば、この世界のパンは固くパサパサしている。一緒に出てくる目玉焼きも、やはりどこか違う。違いを探しては、異世界のものに拒否反応が出そうだった毎日。だが、少年のお金で買ってきたものだとわかるから、彼女は口に含んでいった。
報酬とは、おそらく古代語の解読作業のことだろう。確かに寝不足になりながらも頑張ったのだから、報酬をもらうことには納得できる。だが、このままで居続けるのは、ただの迷惑だ。彼に甘えてばかりいる訳にはいかなかった。
だから、明乃は考えることを始めた。泣き腫らした目に力を入れ、これからを、この世界で生きていく未来を考えた。元の世界への憧憬に心を軋ませながらも、彼女は情報を一つずつ整理していく。そして、考えた末に出てきたのが、彼への弟子入りであった。
「あなたは一人前の魔導師として認められていて、現在旅に出ている。私はこの世界では、天からの落とし子として様々な伝説を持つ存在。魔獣や盗賊とか、危険もある。だけど、私はただ魔力があるだけの人間で、戦ったことすらない。だから魔術を知って、自衛の手段が欲しいんです」
「……理由はわかったが、それなら国に保護をしてもらうべきだ。天からの落とし子なら、国が大切に扱ってくれる。魔術を教わることもでき、知識の提供を主にすれば、自衛手段すら知らなくても過ごせるかもしれない」
「国は、その……」
「僕は魔術師としての腕に自信はある。だが、17歳で後継を作れると思うほど傲慢になった覚えはない。君にとって弟子というのが、自衛手段のためだけだと言うのなら、悪いが僕は認められない」
魔術師としてのプライド。彼は一人前と認められて、まだ2年しか経っていない。確かに魔術師としては、少年は天才の分類に入るほどの才覚を持っていた。たった一人で様々な土地を歩き、戦い、経験を積んだ。だが己の師のような、指導者になれるかと問われれば、首を横に振らざるをえない。
魔術師にとって弟子とは、自分の子どもも同然なのだ。ただ魔術を教えればいいわけではない。性格が悪い、と兄弟子に散々言われ慣れてきた彼でさえも、師にだけは絶対に逆らわない。魔術の腕は超えても、父のように尊敬している人物。師の魔術に対する情熱を、弟子を慈しみ守る温かさを知っている。
いずれ自身も弟子を持つ身となる。ならば、師のような人間になれるよう目指していきたい。共に魔術を研磨し、語らい、腕を競い合う。そんな師弟関係を望んでいた。故に、明乃の自衛手段として魔術を習いたい程度ならお断りだった。いくら落とし子だろうと、魔力が膨大でも、本人にやる気がないのなら意味がない。弟子を持つにしても、自分では早すぎる。
「魔術を習いたいのなら、他を当たれ。落とし子の師になりたい者は、探せばいくらでもいるはずだ。なんだったら、師となる者を探してやろう。僕の師匠なら、その辺の伝手を持っている」
「あ、その、私は…」
「ん? 国が嫌ならそれしかあるまい。その魔力量だ。隠そうとしても、いずればれる可能性がある。なら、魔術師という身分を持つことで独立する力をつけるしかないだろう」
少年としては、これが精一杯の親切心だった。『国』という単語に不安を抱いた目を見て、ならばと案を出した。夢だった古代語の解読に協力してくれた相手であり、自身に非はなくとも落とし子の真実で傷つけてしまった詫び。せめて彼女が食いつぶされないように、足場を作ってやろうと思っていた。
一方明乃は、彼の話を聞きながら必死に思考をしていた。彼の言うとおり、自衛の手段が欲しいのなら別に彼でなくてもいい。信用できる人物を紹介してくれるというのなら、何も問題はないのではないか。そう頭ではわかっているのに、彼女は引き留める言葉ばかりが思い浮かんだ。
突然世界から落とされ、森で一人彷徨い、泣き崩れるしかなかった少女を見つけてくれた少年。黒髪に黒い目と、自分と同じ色彩を持った人物。街に入ってから気づいたが、彼と同じ色を持った者はいなかった。北の大陸では稀に生まれる色と聞いたが、最も安心した色は、やはり彼の黒だった。
天からの落とし子などと呼ばれても、明乃にとっては何がすごいのかがわからない。変わった世界に、変わった自分自身に、全てに怯えることしかできなかった。明乃にとってみれば、自分が持つ膨大な魔力にさえ恐怖を持っていた。伝説などと呼ばれる存在になったことで、周りの目に身体を震わせた。それでも生きるためには、使わなければならない。だからせめてもと、自衛程度の使い方を望んだのだ。
何もかもが恐ろしく、拒絶だけしかなかった世界。そんな世界で、唯一受け入れられたのが、この少年だった。怯える少女の前で堂々と寝ようとするし、日本語にテンションがあがるし、遠慮なく巻き込んでくるし、頭を何度も叩かれた。怒って喧嘩だってした。あんなに声を張り上げたのも、怯え以外の感情を持ったのも、彼だけだった。
古代語解読時に徐々に話が通じていき、明乃が天からの落とし子だとわかった後も、彼は変わらなかった。伝説の存在よりも、古代語の解析に目を輝かせる魔術馬鹿に、もはや呆れた。呆れながら、心の底から安心している自分がいたのだ。
己の中にある魔力は怖い。だが、あの時彼が使った魔術を見た時は、本当に綺麗だと思った。暗闇の中で、温かく輝いた光の奔流。その美しさに、確かに彼女は魅了された。もっと見てみたいと、彼の魔術だけは拒否反応を起こさなかった。
そんな彼から教わるのなら、そんな彼と同じように魔術を使えるのなら、そんな彼と一緒にいられるのなら。恐ろしいだけのこの力を、好きになれるかもしれない。この世界を好きになれるのかもしれない。明乃は思い至った選択に、ぎゅっと手を包みこむ。元の世界に帰る手段を、自分はきっと探してしまうだろう。それでも、この世界を否定し続けるだけでは前に進めない。
だから、明乃は勇気を振り絞った。己の魔力を受け入れることを。魔術師の弟子になるということを。何が何でも彼に弟子入りを認めてもらうことを。勇気という名のスイッチが入った彼女に、彼は悪寒を感じ、逃げ腰になった。が、文字通り弟子入りのために縋りついてきた少女に叫んでしまった。
明乃が異世界に落ちてから、27日目。10日間かけての説得により、彼女は魔術師の弟子という身分を手に入れたのであった。
******
「これは、タルハイドの実だ。この実は色々な使い方ができる。すり潰すと、青い汁を出すので染色に使え、種は粉にすると薬の材料になる。味は、少し酸っぱいが食べられるものだ」
「なんだか、ブルーベリーみたいな実ですね。大きさはちょっと違いますけど」
「ブルーベリーというのは、そっちの世界の果物か。どう違うんだ」
「えっと、タルハイドの実と同じで青くて丸い実なんですけど、この銅貨ぐらいの大きさですね。すごく甘い匂いがするんですよ」
異世界に落ちてから、半年目。明乃とその師匠は、店に売られている果物を眺めていた。彼は魔術を教えるだけでなく、少女に生きるための知識も教えていた。お金の使い方から、人との交渉の仕方、商品の見分け方に、旅支度の仕方。明乃もメモを取りながら、少しずつ周りを見ていくようになっていた。
師から教わった通りに、店主にお金を払い、タルハイドの実を購入する。恐る恐る口に含んでみると、ほのかな酸味と甘みが彼女の中に広がった。グレープフルーツの味に似ているかもしれない。久しぶりの甘味に、明乃は笑みを浮かべた。
「あっ、お師匠様もいりますか? グレープフルーツに似て、おいしいです」
「グレープ? 前に森で見つけた果物が、それに似ていると言っていなかったか」
「グレープじゃなくて、グレープフルーツです。前に話したブドウ味の果物とは違いますよ」
「相変わらず、弟子の世界の言葉は不思議だな。まぁ、いただこう」
「不思議って、私としてはターハイドの実とか、タイカルドの実とか、普通にややこしい名前が多いのに、覚えられるこの世界の人が不思議です」
こればかりは価値観の違いだろう、とお互いに思いながら街を歩いていた。明乃はこの世界のことを聞きながら、同時に自分の世界についての知識も話している。彼女の世界に興味を持った師匠が、よく聞いてきたので、ついでに話すことが多くなったのだ。
この半年で、たくさんのことを話しただろう。家族構成や友人について、学校や食べ物や街並み、社会の仕組みや価値観など、本当に色々話した。師匠は彼女のどんな話にも、興味津々に聞いてくれた。面白い世界だな、と笑ってくれた。魔術がない世界だと教えた時は、僕はその世界では生きられないね、と真顔で答えられたが。
魔声を介して、彼からこの世界の言葉や文字を習っていた明乃は、ようやく日常会話までなら魔聴が使えない相手とも会話ができるようになった。他人と話すのは、未だに緊張してしまうが、昔ほどの恐怖はない。
買い物が終わったら、今日も魔獣を狩りに行くのだろう。少し前から、彼は明乃を連れて、共に狩りをするようになった。といっても、明乃は索敵の魔術だけを使い、獲物を見つけるだけが仕事だった。狩りをするのも、獲物を仕留めるのも彼の仕事だ。
魔獣はこの世界に住む、人間にとって害獣にあたる生き物である。彼らは人間を襲い、食糧にしようとやってくる獣。中には魔声によって、会話ができる温厚な魔獣や、人間に興味を持って独自に接触してくる魔獣もいる。それでも、だいたいの魔獣は人間と敵対していた。
明乃はこの半年で、また様々な魔術を覚えた。師が作った的に攻撃系の魔術を命中させることができ、威力も決して悪くない。彼ほど上手く撃つことはできないが、魔獣と戦えるだけの下地は出来上がっていただろう。それでも彼は、明乃に魔術を撃たせることがなかった。
「……あの、お師匠様。今日も私は、魔獣を探すだけでいいんですか?」
「あぁ、だいぶ探知の魔術が上手くなってきたしな」
「その、本当にそれだけでいいんですか。私は魔術師の弟子ですし、攻撃の魔術も習っていますよ」
彼が魔獣と相対する姿を、彼女は何度も見てきた。その度に、震えることしかできなかった自分が悔しかった。これでは、なんのために修行をしてきたというのか。自分の身を守るために習っているはずなのに、ずっと守ってもらってばかりの自分に嫌気がさした。
「私だって、戦います。そのために師匠から、魔術を習っているんですから」
「無理をする必要はない。焦っても仕方がないことだ」
「無理じゃないです。焦ってもいません。だって、わかるんです。私の魔術は、もう魔獣と戦えるだけの力があるんだって、わかるんです。私は伝説とされる、天からの落とし子なんでしょう。強い魔力だってあるんでしょう。頑張らなきゃ、この世界では生きていけないじゃないですか」
血を見ることは恐い。生き物を殺すことは恐い。だけど、彼に見捨てられてしまうかもしれないことがもっと恐い。天からの落とし子なんて大層な名前を持っているくせに、何もできない小娘のままじゃいけない。
だから彼女は、師からもらった杖を握りしめ、目を逸らさずに見つめる。魔術師の弟子となる時に、命を奪う可能性も考えた。気持ち悪さもあった。それでもそれを呑みこみ、前に進むことを選んだのは自分なのだから。
「……本気だな」
「はい。我が杖にかけて」
杖は魔術師にとって、誇りと同じこと。魔術師同士の決闘では、杖を手放せば負けとなり、相手に杖を落とさせることで勝利となる。杖をかけるということは、魔術師としての全てをかけることと同じなのだ。
明乃の宣言に、彼は呆れたように溜息を吐いた。これは折れない、と一度決めたことにはとことん頑固になる弟子を考察する。彼が生き物を初めて狩ったのは、9歳の時。この世界では、10歳ごろには生き物を狩って、生活をする子どもなどいくらでもいる。食料のため、金のためなど理由は色々あるが、それがこの世界の常識だった。
明乃の年齢は13歳。女の身だろうと、戦う力がある者はその力を振るうべきだとされる世界。それがこの世界の生き方で、価値観。彼女の覚悟は、むしろ必要不可欠なものだった。
「わかった、今日から戦闘にも加わってもらう。今までの修行をよく思い出し、成し遂げてみせろ」
「は、はい!」
師から激励に、明乃は唇を引き締め、心臓を跳ねさせる。魔術師としては真面目な師に、杖をかけたのだ。もう後戻りはできない。震えそうになる手や足を叱咤し、彼の隣に並ぶように歩いた。そんなガチガチになっていた明乃に、師匠は真面目な顔を崩し、面白そうな笑みを浮かべる。そして、固まっている明乃の背中に、容赦なく魔術で作った小さな氷を放り込んだ。
「ッ! うひゃあぁぁッ!!」
「ぶふっ、くくっ…、良い、悲鳴だ。くくくっ……、ぶはぁッ」
「冷たッ! 本当に冷たい! ちょっと、師匠ォ! 女の子の背中に氷を入れるなんてセクハラです! 訴えますよっ!!」
「緊張でガチガチだったのを解しただけだ。むしろ褒めてほしいな。あと残念だが、セクハラと呼ばれる言葉はこの世界にはない。第一、師匠が弟子で遊んだだけで訴えることはできん」
「堂々とおもちゃ宣言したよ、この人!」
なんとか氷を取り除き、涙目で明乃は噛みつくが、飄々とした師匠に効くはずもなかった。彼が彼女のためにした、というのは一理あるが、それはそれ、これはこれである。持っていた杖で師匠と同じように氷を出して狙うが、悉く粉砕された。
「お師匠様のばぁーか。あぁーほ。へんたいー」
「それだけ元気なら問題はないな。……そうだ、馬鹿弟子よ」
「なんですか、あほししょー」
明乃はふて腐れながら、悪態をつく。そんな彼女を見ながら、彼は小さく笑ってみせた。
「……あまり、背伸びをしすぎるな。君の世界では、まだ親の庇護を受けている年齢なのだろう」
「えっ…」
「この世界では12歳で独り立ちが一般的で、早ければもっと早い者もいる。それを考えれば、弟子は確かにもうその規定を超えている。それに天からの落とし子としての力もある」
郷に入れば郷に従え。環境やその場所のやり方に従うのが、賢い生き方である。明乃もそれをわかっていたからこそ、覚悟を決めたのだから。
「だがな、戦いも何もない世界から落ちてしまっただけの者に、そんなものは関係ないだろう。いつか必要になる日は来る。だがな、無理はするな。心を壊してまで、自分を殺そうとするな。僕は魔術師として、師として、例え何年かけたとしても、弟子を一人前の魔術師にしてみせる」
だから、ゆっくり追いついてこい。明乃の頭をコツンッ、と軽く杖で小突くと、彼は黒いローブを翻した。彼の放った少ない言葉たち。だがそれらは、少女の心にゆっくりと染み込んでいった。明乃は溢れそうになった思いをそっとふき取り、力強く顔をあげ、前を歩く黒い背中を追いかけた。
異世界に落ちてから半年経った日、明乃は初めて自ら命を奪った。
******
「――落ちてッ!」
詠唱を終えた明乃の杖が、碧の光を放ちながら標的へと向かう。疾風の刃が、空から振り注ぐ氷の刃を切り裂く。それを確認した明乃は、すぐにその場で風を纏い、後方へと離れた。すると彼女が先ほどまでいた場所に、冷気が起こり、一瞬にして氷柱が叩き込まれていた。
気温が下がり、身を震わせるような氷の世界に白い息がこぼれる。緑に溢れていた草原は消え、魔術師同士の決闘による傷跡が晒されていた。無尽蔵と言ってもいい明乃の魔力と、一般的な魔導師の数十倍は多いとされる師の魔力。普通の試合なら魔力量の多さと鍛えられてきた技量で、明乃に軍配が下りるはずの勝負。しかし決定打すら与えられない現状がそこにはあり、彼女は荒くなる息を整えていた。
「さすがは、お師匠様。3年前より、確実に強くなっていますね」
「そう言われると、僕としても嬉しいね。弟子も3年間遊んでいた訳じゃないとわかった。本当に、強くなったよ」
「はい、頑張ってきました」
明乃から100メートル以上先に突き刺さっていた氷柱の影から、黒髪の青年が現れる。傷一つない姿だが、彼は先ほどの攻防で破れたローブを掴みながら、その相手に賛辞を贈る。明乃はそれを、素直に受け取った。
魔術のことに関しては、彼は真っ直ぐに評価をする人物だ。相手の魔術が下手なら堂々と下手だと言い、上手い相手ならば称賛を贈る。彼の弟子になって、これほど褒められたのは初めてかもしれない。だが、これは卒業試験。彼の弟子を終えるためのものなのだ。褒められて喜んでいる場合ではない。
「師匠って絶対におかしいですよ。なんでさっきのコンボを防ぎ切っちゃうんですか。学園のみんなで考えた、複合魔術だったのに」
「あぁ、なるほど。道理で珍しい術式があると思ったら、精霊に力を貸してもらったのか。おかげでローブがボロボロだよ。弟子は、なかなか面白い友人を持ったみたいだ」
「はい、本当にいい友人を持ちました」
「……そうか」
魔声によるやり取りのおかげでよく聞こえるが、さすがに遠くにいる相手の表情までは見えない。だが、明乃には師が笑ったように見えた。最初に師匠命令で『学園へ行け』と言われたときは、何故入らなければならないのか、と思った。だけど、今は学園の門をくぐってよかったと思う。
魔獣を狩りながら、師匠と様々な場所を旅した。2年間続いた旅は、13歳の幼い少女を15歳の魔術師へと変えていった。師に付き合わされ、秘境や魔境と呼ばれるところに引き摺られて本気で泣きながら突破した過去の経験たち。彼の師匠に挨拶をして、可愛がられたこともあった。彼の兄弟子のその弟子と決闘したこともあった。城並みにでかいドラゴンと、師弟でタッグを組んで戦ったこともあった。ちなみに、その時の師匠はかなりノリノリで、弟子は泣いていた。
元の世界に戻れる方法を一緒に探したが、結局見つけることはできなかった。それに寂しい気持ちはあったが、もう泣くことはなかった。盗賊に襲われたときは、二人で魔術を使って昏倒させ、街に引き渡すようにした。『人は殺さない』、それが明乃という天からの落とし子が決めた、この世界で生きる上で作ったルール。師匠はそれに、静かにうなずいてくれた。
そんな非日常な旅の連続で、15歳になった明乃へ『通学書類』を持って来たのは師匠だった。捨てられてしまうのか、と大泣きしながら師に突撃を繰り出す少女を、彼は涼しい顔でいなす。あっさり放り投げられ、師匠命令が発動された。
入学当初は、彼女はそれはもう拗ねた。絶対に見返してやる、と約束は取り付けられたが、それからどうすればいいのかがわからなかった。ずっと師匠の背中を追い続けていた明乃にとって、その背中がいなくなったことに胸が苦しかった。
最初の頃は、学園の魔術書をひたすら読み耽り、師匠に教えてもらった方法で、こっそり禁書スペースを閲覧する日々が続いた。身体を動かし、魔術を鍛え、勉強をする。そんな色褪せた毎日を送っていた。
それなのに、気づけば同室者と友達になり、魔術科に決闘を申し込まれ、何故かストーカー対策本部の副指令官に抜擢され、訓練所の破壊活動率NO.1で風紀に目をつけられ、なんかやばい封印を解いてしまったクラスメイトの尻拭いをしていた。2年生に上がった時には、もう自分がやりたいことをしようと決意した。色々吹っ切ってしまった。
明乃が天からの落とし子だとわかっても、傍にいてくれた友人たち。彼らと協力して、彼女は様々な技術を吸収し、強くなっていった。時には教師や強い先輩に頭を下げて教えを乞い、己の力とした。失敗をしたら、みんなで笑い、困ったことがあったら、みんなで助け合った。そんなドタバタした日々が、本当に楽しかった。
いつの間にか、この世界にたくさんの繋がりができてしまっていた。
「……私の師匠って、本当にずるいです」
この世界に落ちてから、明乃は彼にずっと守られていた。魔術馬鹿で理不尽の塊で、皮肉屋で性格がねじ曲がった師匠だったが、彼は誰よりも明乃の成長を支えてくれた。彼女の前を歩いて、道を示し、その手を引いてくれた。まるで父のように、兄のように。娘を、妹を守るように。
だけど――。明乃は杖を横に振り抜き、火の粉を起こす。師と弟子との間で巻き起こっていたブリザードが消え、それに師匠は面白そうに目を細めた。明乃の杖に、炎の魔術の術式が見えたからだ。
「ほぉ、なるほど。僕の優位属性が氷だとわかった上で、その反対の属性で挑むと?」
「はい。私は不得意な属性はなく、全ての属性を平均的に使えます。その分、師匠のような一点特化型には、手数で攻めていくしかありませんでした」
これは、戦う前からわかっていたことだ。少なくとも明乃は、師匠以上の氷の魔術師を見たことがない。そして彼が、炎を扱う魔術師に負けたことがないことも。自身の弱点を誰よりも理解しているからこそ、彼は炎殺しの術に長けていた。明乃が火の魔術で攻めなかったのも、カウンターを恐れてだった。
だがその他の属性では、彼の魔術を破れない。堅牢な氷の城壁を破り、師への道を作り出す方法は他になかった。明乃は彼との距離を測りながら、足を前へと踏み出し、詠唱を始める。真正面から師である己と相対しようとする弟子に、彼はその心意気をかった。射程距離ギリギリまで歩を進める弟子を見送り、杖を構えた。
「……師匠、これが今の私にできる最大の魔術です。私の5年間を、受け止めてくれますか?」
「もちろんだ」
その言葉だけで、十分だった。
明乃が間合いに踏み込んだと同時に、彼の足元から氷壁が生まれた。その壁は一瞬にして本物の城壁と同等の高さへと変わり、さらに横へと伸びていく。間合いへと踏み込んだ彼女を、覆うように展開されていった。
それだけではなく、同時に彼女に向けて無数の氷の刃が襲い掛かる。明乃はそれらを燃やし尽くすかのごとく炎風を巻き起こし、散らしていく。炎の利点は、その効果範囲だ。灼熱と言う威力を誇る、広範囲の魔術。形を持たない炎は、様々な姿へと変わり、相乗を起こすことで更に燃え上がった。
「ならば、それ以上の物量で押しつぶすのみだ」
全方位を囲み終えた氷壁が、パキリッと音をたて、そのまま中央へと雪崩れ込んだ。氷で作られた津波は明乃の炎を囲い込み、地へと押しつぶす。さらに波と言う流動を操り、炎を巻き上げ、地の魔術と風の魔術を操り、彼女の炎の行く先を妨害した。
「――ッ!」
全方位から襲い来る津波から、逃げる術はなかった。全てを燃やし尽くすにしても、次々と雪崩れ込んでくる物量に時間が間に合わない。明乃の魔力量と師の魔力量なら、彼女の方が上だ。魔力を練る時間さえあれば、全てを燃やし尽くせただろうが、彼がそれを待つことはない。
これほどの物量を長時間、維持し続けることは彼にはできない。故に、これが彼の最大の魔術。うねりを上げていた炎を、杖を握りしめていた明乃を、魔術で作られた雪崩が全てを押し潰してみせた。彼女がいた場所は細かい氷で埋め尽くされ、彼という黒以外の全てが白へと変貌した。
「……さて、死んではいないだろうから、助けてやるか」
あの雪崩では、いくら彼女でも杖を手放してしまっているだろう。衝撃で気絶しているかもしれないが、結界魔術を張って防ぐぐらいはしたかもしれない。それでも、この氷の中では身動きを取ることはできないだろう。
そう判断し、彼が踏み出した瞬間。チリッ、とした悪寒が背をかけ、本能に従い結界魔術を展開した。次に彼が目にしたのは、朱の色だった。白の大地の一点が盛り上がり、そこから朱に輝く太い光が一直線に師へと駆けていった。その威力に、防ぎきれないと彼は見極めると、光弾を逸らすために結界で滑らせ、弾いてみせた。その勢いは空を駆け、光弾は師の後方へと落ちていった。咄嗟に動けたが、反射した光に目が眩んだ。
ザリッ、と彼の耳に届いた氷が鳴る音。あんな馬鹿みたいな魔力を籠めた一撃を放てる相手など、一人しか思い浮かばない。彼は回復しない視力を捨て、朱の光弾が放たれた穴の方角に向け躊躇なく氷柱を落とした。そして後方へと跳び、作り出した氷の雪原を利用し、己の姿を隠すために白を魔力で巻き上げる。一度体勢を整えようと、魔力を動かすが。
「逃がしません」
後ろから振り落とされた杖を、魔術を中断した杖を反射的に挟み込むことで、防いでみせた。
「ッ、……いつの間に、僕の後ろへ」
「これぐらいのドッキリをしないと、師匠相手には逃げられますからね。さっきお師匠様が弾き飛ばした光弾。あれ、私でした」
「はっ?」
確かに太い光弾だと思ったが、まさか人間火の球だったとは思っていなかった。師が放った魔術から逃げられず、また全てを相殺することができないと判断した明乃は、己の炎を杖に収束させ、一点突破することを選んだ。炎を自らに纏い、氷に呑まれる前に自ら飛び込んでみせ、突き抜けてみせたのだ。
明乃の魔術は、一点に炎の魔力を収束したことと、ついでに馬鹿魔力のおかげで、貫通力を生み出した。ゴリゴリと氷の壁を削った。さらに突き進みながら再び魔力を練りあげたことで、もはや炎は熱の塊となり、レーザーのようなものになってしまっていた。あんまりな魔術の攻略方法に、乾いた笑みが師匠の口元に浮かんだ。
「……で、ここからどうするんだ」
「……どうしましょう。師匠を逃がさないために、咄嗟に杖で殴打しようとしてしまいましたから」
「するな。まったく、元気すぎるだろう。昔の君はもう少し大人し……いや、昔からこんな感じだったか」
「ちょっと、お師匠様。平和な世界で暮らしていた可憐な13歳だった乙女と、荒波に揉まれまくった強かな18歳の乙女を一緒にしないで下さい」
「うおォッ! つ、杖からすごい圧力が……!」
口論をしながらの、鍔迫り合いが続いていた。お互いが魔術を放とうとも、この至近距離では自らもダメージを受けてしまう。何より、魔術を発動する素振りに気づいたら、すぐに妨害しあうのだ。その繰り返しであったため、硬直が続いてしまっていた。
もはやこれは、いかに物理的に相手の杖を手から放させるかという、魔術師の決闘とは思えない原始的な戦いになってしまっていた。心の中で、魔術師としては真面目な彼は涙を流した。
「なぁ、弟子よ。一端仕切り直さないか。『終わりの儀式』の決着がこれなのは、師匠としてものすごく嫌なんだが」
「では、師匠から力を抜いてください。そうしたら、私も力を抜きますから」
「何を言う、弟子よ。弟子の世界には、レディーファーストと呼ばれる文化があるのだろう。ここは師として弟子に譲ろう。さぁ、力を抜くがいい」
「いえいえ、お師匠様から」
「遠慮をするな、弟子よ」
似た者師弟だった。
「……ぐっ!」
「……ッ、強がっても、僕の方が体格は上だぞ。このままなら、押し負けるのは弟子の方だ。こんな勝利を僕は望んでいない。仕切り直そう」
師からの提案は本気だろう。明乃が力を抜いても、彼は追撃をすることはない。普段の戦闘ならしただろうが、さすがに弟子の卒業試験で大人げないことはしない。彼女もそれをわかっているが、ここまで追い詰めたのだ。すぐ近くに、ずっと追いかけてきた師の顔がある……この距離まで。
そこまで考えて、明乃は師の顔をじっと見つめてしまった。
「なんだ、離れるタイミングか? いいだろう。僕が3秒数えるから、同時に後方へ行こうじゃないか」
「……お師匠様。18歳の異性の顔がすぐ近くにあるのに、そのセリフはどうかと」
「ん? 異性って、まぁ確かに成長はしたと思うが――」
彼の言葉は最後まで続かなかった。
「……成長、したんです。私はもう子どもじゃない、18歳の女です」
突然唇に感じた感触に目を見開き、硬直した師に、明乃は己の杖を下から振り上げた。さらに重心をずらすために、己の足で目の前の足を掬いあげる。彼の思考が正常に戻った時には、崩れた体勢から逃れられず、杖を持つ手の力が一瞬抜けた。
明乃はその一瞬を見逃すことなく、振り上げた杖を己の師の杖へと吸い込ませた。互いの杖から感じる衝撃。その瞬間は、まるで時間が止まってしまったのかと思うほど、ゆっくりと流れた。
――カンッ、と氷の大地に響く音が耳に入った時、ようやく師弟の時間は動いた。二人から数メートルほど離れた場所に落ちた杖が、甲高い音をたてたのだ。勢いをつけ過ぎ、そのまま倒れこんでくる弟子を、その師匠は慌てて空いた両手で抱きしめ、しっかりと受け止めた。
******
「あぁ、うぅ……うわぁぁあああぁぁ…。負けた、僕が負けたぁ……」
「あの、師匠。そんな本気で落ち込まないでくださいよ。これ卒業試験ですよ。ここは頑張った弟子を褒めるところでしょう」
己の師のものすごい落ち込みっぷりに、弟子もさすがに引いた。倒れ込んだ師の上に明乃が乗り上げているというすごい状態なのだが、彼はそれどころではないらしい。それに明乃は、小さく溜息を吐いた。
「ほぉーら、お師匠様ー。泣いちゃだめですよー」
「泣くかァ! って、待て待て待て。お、おい弟子よ、君は自分が何をしたかわかっているのか」
「師匠を押し倒しています」
「違うッ! いや、それも違わないんだが…! けど違うッ!」
「師匠、わかりましたから。とりあえず、本当に落ち着きましょう」
まともに話ができないと悟った明乃は、いそいそと師の上から降りた。彼は倒れていた上半身を起こすと、右手で乱れてしまった黒髪を軽く直す。弟子の言葉になんとか落ち着きを取り戻したが、その目は全く納得していなかった。
「……弟子よ。決闘で杖を手放したのは僕だ。故に、……君の勝ちだ」
「そんな不本意そうに言われても」
「どんな理由があろうと、先に杖を手放したのは僕だ。この勝敗に文句はない。それがたとえどんな理由だろうとッ」
結果は受け入れるが、過程は受け入れられなかったらしい。
「君の僕に勝ちたい姿勢は認める。勝利をもぎ取るために、あらゆる手を尽くすことは決して悪いことではない。だがな、それでもやり方があるだろうッ! 簡単に身体を許すようなことをするんじゃない!」
「……簡単なんて思っていません」
「本当に思っていないのなら、あんな軽率なことはしないだろうッ!」
自分のために本気で叱ってくれているのは、明乃にもわかる。それは嬉しい反面、ものすごくムカムカした気持ちが膨れ上がっていた。結局のところこの魔術馬鹿な師匠は、彼女の精一杯の思いに全く気付いてくれていないということだ。彼にとって、明乃という少女は娘であり、妹でしかないのだ。
その突きつけられた事実に、明乃は拳を握りしめた。
「……お師匠様、私が勝ったら欲しいものをくれるって言ってくれましたよね」
「確かに言ったが、今はそんな話を――」
「私は、師匠が欲しいです」
決して大きくはなかった明乃の声は、真っ直ぐに目の前の人物へと届いた。
「最初は、嬉しかった。何もわからない世界で、何を信じたらいいのかもわからない世界で、守ってくれたあなたが、教えてくれたあなたが、信じさせてくれたあなたが、一緒にいてくれることが、ただ本当に嬉しかった」
いつからだろうか、変わってしまったのは。
「だけど、だんだん悔しくなっていきました。私だって守りたいって思った。私を知って欲しいって思った。私を信じてほしいって思うようになった。でも、あなたはいつもいつも、私を守るばかりだった。私は守られるばっかりだった!」
前を歩く彼に、ただ追いつくことしか考えていなかった雛鳥は、彼の隣で一緒に歩く自分を夢見てしまった。
「あなたがいつも見せてくれる魔術が綺麗だった。魔術や皮肉ばっかりだったけど、楽しそうに笑うあなたの顔が好きだった。強がる私をいつも笑って受け止めてくれたことが温かった。私の世界の話を真剣に聞いてくれたことが嬉しかった。学園に入学してあなたがいないことがすごく寂しかった。私をずっと、『明乃』という一人の人間として見てくれたあなたに……私はいつも救われていたっ!」
だから、彼の弟子を……雛鳥だった自分から変わりたかった。ずっと強くなりたいと頑張ってきたのは、魔術師として、人として一人前だと彼に認められたかったから。守られるだけじゃなくて、隣に立ちたかった。支えられるだけじゃなくて、支え合いたかった。
3年前に彼と別れてからは、泣き虫だった自分に卒業しようと決めた。今も目尻に溢れそうになる涙を、彼女は必死に押し止める。そこにいるのは、一人ぼっちで迷子になって泣いていた13歳の少女ではなかった。真っ直ぐに自分の思いを胸に生きることを選んだ18歳の女性だった。
「だから、ちゃんと訂正してください。私が、師匠が言うあんなことをするのは、あなただけです。簡単でも、軽率でもないですから」
白き大地を彼らの頬を朱に染めていく夕日が照らす中、双黒の瞳が静かに交じり合った。
「……まぁでも、冷静に考えてみたら、朴念仁というか魔術馬鹿な師匠に、いきなり恋人は無理ですね。焦りすぎました」
「こ、い……ま、待つんだ、弟子よ。ちょっと考えをまとめるのに10年ぐらい」
「弟子は卒業したので、明乃と呼んでください。あっ、ということは私もお師匠様を名前で呼べるということに……!」
「うぐっ、そ、そうだ! 君に指環を渡していないのだから、君はまだ僕の弟子だ! 指環を作るのにも材料がいるからなっ!」
「えぇー。じゃあ待ちますから、指環は私の左手の薬指に合う大きさで作ってくださいね」
「何故かわからないが、悪寒が止まらないッ!」
あの魔術馬鹿は絶対に、女性経験ゼロの大馬鹿だから、押し倒したら一発じゃね、と彼の兄弟子から助言をもらっていたが、さすがに明乃もこれ以上は辞めておいた。珍しく慌てる師の姿をもっと見てみたくもあるが、彼女の羞恥心的な部分がそろそろ限界だった。夕日で相手にはわからないだろうが、指環の話らへんでもう真っ赤だった。
だけど、これだけはちゃんと言っておこう。寒いのか自分の腕をさする師匠に、明乃は向き直り、照れくさそうに笑ってみせた。
「えっと、弟子は卒業してしまいましたが……お師匠様。これからもこの世界でよろしくお願いします」
「……まったく、僕は本当にとんでもない弟子を持ってしまっていたようだ」
「あっ、それどういう意味ですか」
むっ、と頬を膨らませた明乃を見て、彼は柔らかく目を細め、笑ってしまっていた。
異世界に落ちてから5年経った日、明乃はこの世界に生きる一人の魔術師となった。