女神と彼女の棲まう湖畔
「へんなの、ひろった!」
ダイニングキッチン。
小さな女の子が嬉しそうになにかを抱えて持ってくる。
料理をしていた金髪の女性は手を止め、エプロンで手をふいてから女の子の持っている物を見る。
「あらあら、また『漂着物』ですか?」
「そう!」
女の子は持っていた物を嬉しそうに掲げた。
その無邪気な動作に、女性は目を細めた。
かわいいものだ。
こんなにかわいい種族だから、乱獲されて、ニンゲンは絶滅したのだろう。
最後に生き残ったこの笑顔をいつまでも保護しなければ――神の端くれとして、彼女は改めて使命感に震える。
「えーっと、今回の漂着物は……『本』でしょうかね?」
「ほん?」
「ええ。『めくって』、『読む』ものですよ。中には知識や知恵が詰まっている、ニンゲンの――あなたと同じ種族の発明した、優れた記憶媒体の一つですね」
「?」
女性の腰ぐらいまでしか身長のない女の子は、首をかしげた。
そうだ、この『伝説の湖畔』で暮らしていると、とにかくニンゲンの文化に触れる機会がない。
ここは世界と世界の狭間にある空間だった。
あらゆる現実的な苦難から切り離された土地である。
ここでは、異世界のものが湖から湧いてくるという現象がたまにある。
彼女は――ニンゲンを保護する女神は、そうしたものを『漂着物』と呼んでいるのだった。
女神は白くすらりとした手で、ニンゲンから『本』を受け取った。
それは表紙に異世界文字とかわいい少女の絵が描かれた、やけに薄い本であった。
女神の抱く『本』という物体のイメージにそぐわない薄さだ。
内容はどんなのだろう?
パラパラめくって――
女神は慌てて『本』を閉じた。
「……」
「おー、すごい! ひらく! さかなみたい!」
「……」
「かみさまー、かみさまー、わたしも『読む』したい! したいー!」
ニンゲンが小さな体を一生懸命に伸ばして、本をとろうとしてくる。
女神は慌てて本を頭上へ遠ざけた。
とたん、ニンゲンが悲しそうな顔をする。
「なんでー!? なんでー!? かみさま、いじわる、やだー! 『読む』するー! ニンゲンだって『本』を『読む』するのー!」
「ええっと……」
女神は美しい眉根を寄せた。
緑色の瞳でちらりと掲げた『本』を見る。
その内容は――
――エロトラップダンジョン――
――子供にはまだ早い。
「ニンゲンさん、聞いてください」
女神はしゃがみこんで、視線をニンゲンに合わせる。
ニンゲンは真っ黒い大きな目で、女神を見ている。
「なにさ?」
「この本を読むには、資格が必要なんです」
「じゃあ、とる」
「その資格は、あなたがうんとうんと長生きしなければとれないものなんですよ」
「なんでそーゆーことかなあ……いきるの、はやくなんないのに!」
「そうですね。ですから、この『本』はどこかにしまっておいて、あなたがもっと大きくなった時、読みましょうね」
「じゃあー、じゃあー、ちょっとだけでも?」
「ちょっとだけでも、ダメです」
「ほんのちょっと?」
「それでも、ダメです」
「むー」
ニンゲンは真っ黒い髪をがしゃがしゃとかき混ぜた。
せっかく綺麗な髪が痛んでしまいそうで、女神はハラハラする。
「きびしめなのね……」
「そうですね」
「ニンゲン、いつおっきくなる? あした? あさって?」
「えーっと……十年以上はかかるでしょうか……」
「じゅーねん!? じゅーねん……じゅーねん、とは……あさってのつぎぐらい?」
「たくさんの『あさって』を並べて、まだまだずっと向こうですね」
「『ケーキの日』よりむこう?」
「ケーキを十回以上食べた、そのあとですね」
「あ、じゃあー、まいにち、ケーキ、しよ? かんげいします!」
「ケーキは一年に一回だけです」
「なぜ、ごはんはケーキにならないの?」
「栄養バランスの問題でしょうか……」
「『えいよばらんす』! かみさま、むつかしいこと、いうのね」
「神ですからね」
「そっかー……わたしも、かみさま、なりたいなー」
「あらあら……でも、神様になったら、たいへんですよ? あなたがお外で遊んでいるあいだに、おうちのお掃除をして、あなたがお腹ぺこぺこで帰ってくるまでに、お料理を食べられるように用意しなきゃいけないんですから。役割、交換します?」
「かみさまたいへんなのね……」
「ええ、大変ですとも。ですから小さき者よ、とりあえず手を洗っていらっしゃい。夕ご飯、もうすぐできますからね」
「あーい!」
とてとてとニンゲンがダイニングキッチンを出て行く。
女神はそれを見送り、視線を『本』に移し――
「……まあ、これもニンゲンの文化の一つ、ということで」
そう言って、『本』を大事にしまっておくことに決めた。
いつかニンゲンが資格を得て、読めるようになるその日まで――
――エロトラップダンジョンものの同人誌は、『だいじなもの入れ』の中で眠り続けるのであった。