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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

リバーブ




一般的なCDの解像度は16ビット、サンプリングレートは44.1khzだ。音の大きさを2の16乗、つまり65536段階の大きさに分け、1秒間に44100回の割合で記録するということだ。
当然だが、音とは波であり、アナログであり、大きさや時間は段階的なものではなく、連続的なものだ。量子論なんかを持ち出されたら知らないが。とにかく波なのだから、よっぽど高価なオーディオインターフェースやコンデンサーマイクを使わない限り、無理やりデジタル化すれば音本来の魅力が失われる。とくに、1度機械を通すその行為こそが、生の歌声を殺してしまう。だから好きじゃない。
なんて言い訳を、奏慈は思いつく。
実際の所、ある程度きちんとした録音環境なら酷いことにはならない。65536段階目と65535段階目の違いなんて、奏慈の耳では分からないし、1秒の44100分の1なんてものも分からない。そして分からないということを、奏慈だって分かっている。
だからこれは彼の言い訳。

彼女の歌声を、CDじゃなくて目の前で聞いていたい。

その本当の理由を本人の前で言えるわけがないのだ。
ただ、逢いたい。そんなこと、言えない。
(な? そうだろう、風音)
 風音は歌う。
 耳元で優しく囁かれているような錯覚。ウィスパーボイス。そよ風。
 世界にはまだまだこんなにも優しい気持ちになれる場所があるんだよ、と。大人になってしまった奏慈の心を、香の歌声が洗い流す。水。
 心地良いそよ風であり、光を幻想に変える綺麗な水である。
 人の歌の奇跡。
 風音。
 奏慈の好きな人だ。
 フレーズが終わり、奏慈がOKテイクを出す。すると風音はコンデンサーマイクのスイッチを切った。ゴツゴツ密閉型のモニターヘッドホンから風音の頭部が解放される。
 現れたのは笑顔だった。コロコロとした笑顔。
「あはは~。どうだった~?」
 歌声とは違う、それでもすっきりと聞き取りやすい声。笑顔と乗じて幸せが振り撒かれる。
笑顔と声だけではない。パチクリと鈴の音のしそうな丸い目。顔の輪郭も小さく丸い。ほっぺたなんかは特に柔らかそうだ。風によくなびくだろうロングストレートの髪はつやつや。ちょっとだけ黒を抜いて、軽い雰囲気が作られる。
リラックス感たっぷりのドルマンスリーブは深い青。限りなく白に近いライトブルーのスキニーデニムは、風音の小柄な身体に足の細さをも付け加える。けど、不安定じゃない。一緒にいるとぽかぽかと心が落ち着く。安定、安心する。
「わたし的にはね。『もっともっと素顔を見せてよ~♪』の部分がオススメ!」
「そうだね。なにせかん――」
――感情が伝わる。奏慈がそう言おうとしたら、言葉が遮られた。
「風音ちゃんサイコー! アイシテルー!」
 この歌の作詞担当、凜だった。




 ボーカル、風音。作詞、凜。そして作曲、ミキシング、マスタリングが奏慈。
 彼らは3人で同人音楽サークルをやっている。サークル名は、
『風鈴-impressed summer-』だ。
「奏慈の名前ないね! どんまい!」
(俺の名前……いや、風音にどんまいと言ってもらえただけ良しとしよう。許す)
 そんな経緯ともいえない経緯でサークル名を掲げ、俺達は活動する。
 まずは奏慈が軽くコード進行を作り、主旋律を乗せる。
それが終わったら主旋律をインターネット経由で凜に渡し、作詞をしてもらう。
――歌詞は私の愛であり、全部なのよ! 私の全部、あげちゃう!
 と、彼女は情熱的だった。
詩をもらったらボーカロイドで仮歌を作り、本格的な作曲をする。それができたら風音に渡す。風音はこの時初めて歌詞を見るらしい。ある程度の期間練習してもらったら、奏慈と風音と凜で合流して歌のレコーディング。
――奏慈と凜ちゃんが頑張ってくれたんだもん! いよいよわたしの本気だよ~!
 と、彼女は元気よく歌うあるいは淑やかに歌う。ウィスパーボイス。
本来は、レコーディングに関しては、風音が自宅録音したものを、インターネットで俺の家へ送ってくれるだけでもいい。けれども、せっかくの機会だからと、彼らはこのレコーディングの時に集まることにしている。そして風音の歌に癒されるのだ。
 歌を取り終えたら、奏慈が風音の歌のデータのwaveファイルを家に持ち帰って、パソコンでミキシングをする。
 つまり、今ミキシングをしている。今回の作品作りも終盤というわけだ。
ミキシングでも風音の歌声を何度も聞くわけだが、奏慈はここでも癒される。凜の歌詞も風音の歌声を引き立てる。

――夢の端っこに隠れたキミ、もっともっと素顔を見せてよ
――嬉しいことも悲しいことも、表情にして抱きしめ合おうよ

風音の声は高音の倍音成分が多く、明るいキャラクター性の持ったのが長所だ。声量が少し足りないし、パートによって音量にバラつきがあったりもするけど、声の出し方的には仕方ないことだろう。その辺りをコンプレッサーで修正して、オケに合わせてイコライザーによる調整のオートメーションを書いてやる。
今回は、サビの部分が生で聞いた時よりも少しもこもこした声になってしまっているので、456Hz以下の低域を大胆にカットする。中高域3.65kHz付近も3.9dBカットして、歌声のアタック感を下げる。これで耳元で優しくささやくようなサウンドになった。そしてセンドエフェクトでリバーブを追加し、オケと混ぜる。
(オケは既にできているし、3日もあれば終わるだろう)
奏慈は休憩を挟むべく、1時間ぶりにヘッドホンを取る。すると、携帯電話に着信が来ていたことにやっと気づいた。急用だったとしたら、申し訳ないことをしたもんだ。そんな軽い反省をしながらスマフォの画面をつけると、

着信5件。
22時56分:風音。
22時56分:風音。
22時55分:風音。
22時55分:風音。
22時55分:風音。

(なんだ、これ!?)
 要件の重要性。ゾッとするような表記。
 気づかなくて良い要件ではないことだったのは確かだった。
 急いで留守電を確認すると、その風音の声を聴いたら、掃除は自分の耳を疑った。

『ゴボゴボゴボゴボ』『ヴォヴォヴォヴォ』

 言葉にすらなってない、不快な音。

 その音が、風音の崩壊した声だと気づくことができたのは、悪い奇跡だった。
 この日、風音は声を失った。




 奏慈と凜と二人でお見舞いに行ってみた。自宅から通院しているということで、場所は風音の家。アパートの一人暮らし。
奏慈は初めて風音の家に上がるのだけれど、今日では好きな人の家に上がるドキドキ感なんてものは存在しなかった。そんな気分にはならなかった。
郵便受けに溜まっていた封筒。たった3日であそこまで詰まってしまうほどに小さく、今にも書類が落ちるか、郵便受けが壊れそうになっていた。
とてもじゃないが、機能しているようには見えないインターホン。辛うじて乾いた電子音が聞こえたものの、中から風音の反応はなかった。いや、声を出せないならインターホン越しの会話はできないのか。それならドアが開くかもしれない、と待ってみるものの、やはり反応はない。
「鍵、開いてるみたいよ」
 そんな風に沈黙を破ったのは凜だった。しばしの沈黙の後、凜が鉄の擦れる音を立てながら扉を開いた。
「おじゃましまーす……」「おじゃまします」
 まず目に入ってきたのは簡素な台所と、襖。おそらくその襖の奥に風音はいるのだろう。
「風音ちゃん、いるの……?」
 凜が襖をあけた。
 果たしてそこには――

 鋏を握りしめ、ボロボロになった服と髪を纏った風音の姿があった。

「風音……!?」
 部屋の中央の痛々しい姿と成り果てた風音の元へ、奏慈は急いで駆け寄った。すぐに鋏を取り上げる。
「大丈夫か……!?」
 奏慈は冷静ではなかった。そのくらいに、激しく風音の肩を揺する。なにより、風音が声を出せないのを知っていながら『大丈夫か。しっかりしろ』という声をかけ続け、返事をもらおうとしていた。
 だから、風音がおもむろにスマートフォンを取出し、そこに文字を打ち出し始めたのを見て、最初は何かと思った。
『奏慈、きてくれてありがとう』
 そして少しだけ、風音の瞳に光が戻ったのを見た気がした。
「良かった。大丈夫そうだ? もう鋏は仕舞おう。な?」
 服、髪と来て、近くで改めて風音の姿を見ると、手首等に赤い不気味な切り傷があるのが見えた。鋏による傷に間違いなかった。
『うん、奏慈が言うならもうしない』
 そう書いたスマートフォンの文章を見せて、奏慈に笑って見せた。力のない、弱々しい笑みだった。
『こんな汚い部屋でごめんね』
 見回してみると、座布団や枕、カーテン等もボロボロに切り裂かれていた。凄まじいイタミだった。
 部屋を片付けようとしたのだろうか、風音は立ち上がった。
「俺も手伝うよ」
 そう言って立ち上がると、この時初めて、
(凜?)
 作詞担当の彼女がいなくなっていることに気付いた。




 奏慈は気が付かなかった。
 凜が襖を開け、最初のあの風音の痛々しい姿。
 それを見て、凜は笑っていたことに。
 そして、一目散に奏慈に駆け寄られる風音に、激しい嫉妬の目を向けていたことに。
 そんな表情を見られないためにも、凜は紺色に光を反射するレザーのブルゾンを翻し、ショートヘアをグチャグチャに掻き毟りながら風音の部屋を出ていったことに。




「あ、もしもし、凜? お前、なんで急に風音の家からいなくなってたんだ?」
『具合が悪くなったのよ。そう言ってから帰ったつもりだったけど聞こえてなかった?』
「ん、あぁ……ぜんぜん気づかなかった。すまん」
『そう。で、要件はそれだけかしら?』
「ん、もう2つ、手短に。まず、風音の声はしばらく治療に専念すれば回復するってよ。声はしばらく絶対に出しちゃダメだってさ。完全に元に戻る保証はないけど……」
『……』
「それともう一つ。俺さ……」
『何よ、間なんて置いちゃって?』

「俺さ、風音の声が戻るまで『風鈴』止める」

『は!? な、何も止める必要ないじゃない。風音ちゃんがいないなら、ボーカロイドの調教を頑張ればいいわけだし。そうすればこれまで通り、『風鈴』の音楽を作っていくことはできるんじゃ?』
「嫌だ。俺は風音の歌声で『風鈴』の音楽を作りたいんだ。だから待つ。そう決めた」




 そんな電話のやりとりを凜としてから1週間。奏慈は風音の家を3度訪れたりしたものの、『風鈴』の活動はしていない。
 にもかかわらず、凜からは1日1つ、歌詞が送られてきた。歌詞、というよりも、詩。歌がないのだから。
――夏風ゆらゆら踊る、ひまわりに寄り添い、一息
――水面に映る2人の思い出、未来に向かって歩き出した

 最初はいつもの様な詩だった。風音の歌声を意識した明るく遊んでいるような詩。
「俺は作んないよ」
 とメールで返したものの、次の日も、その次の日も凜からは詩が送られてきた。

――こんなに愛を囁いているのに、こんなに全部捧げているのに
――どうしてあんな女のことしか見ないの?

 それも、日に日に歌詞の内容が黒い色を帯びてきた。

――紅に燃える砂漠に溶けて、愛も知らぬ害虫は絶滅してしまえ
――微かな生水を奪い合って、等しく最期は醜く灰に散ってしまえ

「要らないって言ってるのに、凜のやつ、俺にこんな風に歌詞を送って来るんだよ」
 風音の家に4度目の訪問をしたときだった。凜から送られてくる詩が更に禍々しくなってきた頃、そのことを奏慈は風音に伝えたのだ。
 すると、風音はいつものようにスマートフォンに文章を打つ。
『これ、もらっていい?』
「あ、ああ。別に良いんじゃないかな。凜も良いっていうと思うし」
 気のせいだろうか、風音の目は真剣そのものだった。詩越しに、言葉を紡いだ凜を睨みつけているようだった。




 事態は急展開だった。と思っていたのは奏慈だけだったのだろう。
 本当は奏慈の知らない所でとっくに始まっていたのだ、ねっとりとした戦いが。
 それを奏慈が知ったのは、4度目の訪問後、家に帰りパソコンをつけると風音からwaveファイルが送られてきていたことに気付いたときだった。
 ファイル名は『ハンコウセイメイブン』という、彼女らしからぬ語彙。
(なんだ、これ?)
 それを開き、奏慈は絶句した。
 風音の送ってきたファイルは音声データ。彼女の歌声だった。声の出せない彼女。それでも絞り出した歌声。それは――
『オオオオオォオオォォォォォォォォォッ!』
――絶叫だった。絶望だった。
(風音!? どうしたんだ、これ!?)
 言葉にすらなっていない痛み、苦しみ。
(人の気持ちを幸せにして、心を優しくさせる風音の歌声はどこへ行った!?)
それを忘れてしまうほどのヴォイス。
――俺の知ってる風音はどうしちまったんだ!?
 思わず停止させようとしたところで、声の質感が変わった。今度は叫ぶのではなく、何かを伝えようとする、言葉だった。痛々しいほどに掠れた声だった。

『コレカラ、ワタシノ声ヲ奪ッタオンナヲ、殺シニイキマス』

 空気が凍る瞬間。
(『私の声を奪った女を殺しに行きます』って言ってるのか)
 ゾッと冷たくなった空気だからこそ、強制的に奏慈は冷静になってしまった。
(タイトルの『犯行声明文』。やっぱり風音は誰かを殺しに行くつもりなのか? 声を奪った女を)
 それはつまり、風音が声を失ったのは、病気でも事故でもなく、
(誰かに悪い薬でも飲まされたのか?)
 風音の言い分が正しいのなら、そのような手によって彼女の声を奪った『犯人』がいる、ということになる。それも、
(女、か……)
 その女が、目的を持って風音の声を奪ったのか、偶発的な事故によって風音の声を奪ってしまったのかは分からない。しかし、風音の恨みを買ってしまったことは確かだろう。殺したいほどに憎い。
(ダメだダメだ! 風音を殺人犯なんかにしちゃいけない!)
 もちろん、風音から届いたメッセージがあるからといって、彼女が本当に殺人なんていう大それたことをする、と考えるのは早とちりかもしれない。なにせ人を殺すのだ。本当にそんなことをするとは思えない、と高をくくるという選択肢もあるはずだ。けど、あのメッセージからは本当に得体の知れない憎悪が込められている気がしてならないのだ。せめてその『女』を探しだして警告を与えるくらいのことは、した方が良いだろう。
 奏慈は考える。風音と関わりのありそうな女性を。何人か風音と仲の良いであろう人物を連想することはできる。しかし、どうしても風音の恨むような人間とは思えなかった。一人、また一人と思い浮かべ、しかしこの件と関わる要素がない、と否定せざる負えなくなる。
 そうして、とうとう思い浮かべたのが、
(凜……)
 実は奏慈が最初に思い浮かべたのは彼女だ。もちろん、風音とは仲が良かったし、この件から除外だろう。けども、それ以上に凜については意識的に考えることを避けていた。最後の最後まで凜については考えないように、疑わないようにしていた。『風鈴』の仲間だから疑いたくない、という本音があったからだ。
 風鈴-impressed summer-は、歌の風音、曲の奏慈、歌詞の凜の三人での大切なものだから。
 凜の歌詞。

――こんなに愛を囁いているのに、こんなに全部捧げているのに
――どうしてあんな女のことしか見ないの?

(っ……!?)
 不意に、凜から送られてきた異常な歌詞が奏慈の頭をよぎった。
――歌詞は私の愛であり、全部なのよ! 私の全部、あげちゃう!
 という凜の言葉も思い出した。
 風音が凜の歌詞を見るのは、俺が仮歌を風音に送るとき。この時になって、初めて風音は凜の歌詞を見る。
(つまり、凜は俺にしか歌詞を――愛を、凜の全部を、送っていない、囁いていない?)
――紅に燃える砂漠に溶けて、愛も知らぬ害虫は絶滅してしまえ
――微かな生水を奪い合って、等しく最期は醜く灰に散ってしまえ
 凜の、より壊れた歌詞が頭をよぎった。
 これは、愛を知らない害虫に『死ね』と言っている歌詞だ。
(愛を知らない――愛を囁かれていないのは、風音だ)
 そして『絶滅してしまえ』という命令は無理やり実行され、

 風音は歌声を殺された?
 凜の手によって?
 『ハンコウセイメイブン』

「凜が危ない!」
 携帯電話だけを片手に家を飛び出した。




 気づくのが遅すぎた。考えるのにも時間がかかった。
 風音や凜に電話を掛けてみたが通じない。
 偶然電話に出ることができない、のなら問題ない。しかし、風音の『犯行声明文』が本気で、本当に凜の所へ行ったのだとしたら……。
 もし実行するなら凜の家だろうか? それともどこかに呼び出すのだろうか? 後者だとしたら見つけられる自信がない。
 前者の可能性に賭けて、電車を乗り継ぎ、凜の家に着いた。
「凜! いるか!?」
 インターホンを押しても、ドアを叩いても返事がない。空振りなのか?
 もしも風音が本気で、選んだのが後者だとしたら、
(俺は凜や風音を助けられない)
 せっかく音楽が好きで、お互いがお互いを大好きなのに、
(そんな結末は嫌だ!)
 奏慈は縋る思いで再び携帯に凜に電話を掛ける。
『リリリリリ』
 という音が両耳から聞こえた。片方は奏慈の使う携帯電話から、もう片方は凜の家の中から。
(中にいるのか!?)
 不自然なタイミングで呼び出し音が同時に切れたことから、その推測は確信に変わった。
「いるんだろ、凜! 風音もいるのか!? 俺だ! 奏慈だ! 入れてくれ!」
 近所の人にも聞こえるだろう。そして不審人物とも思われるだろう。構わなかった。構わずに叫ぶ。
 すると、「ちょっと待ってね~」という声がドアの向こうから聞こえてきた。
(風音!?)
 痛々しいほどに掠れた声で、なおかつ不自然なほどにいつもとトーンの変わらない声。風音のもので間違いなかった。
 ガチャンという古典的な音とともに、玄関が開き、髪のグシャグシャになった風音が現れた。酷く楽しそうな笑顔だった。
「今、面白いことになってるよ~」
 酷く恐ろしい笑顔で、死者の掠れた声で、風音は奏慈を凜の家の中に通した。
 彼女の手には鋏が握られていた。




『これ、飲むと喉にいいらしいよ。家帰ったら飲んでね』
 と、最後のレコーディングの日、凜が一ビンの薬を渡した。それを飲んだら、風音の喉が酷い炎症を起こした。ギミックも何もない話だった。
「最初はショックとか、悲しいのとか、そんなのばっかりだったけど、やっぱり立ち止まってちゃいけないよね。だから凜ちゃんにお薬のお礼をあげることにしたんだ!」
 風音は掠れ声で流暢に喋る。
 凜のお礼、それはものではなく、行為によるものだった。
「お願い……もう、許して……」
 ボロボロに傷つけられた凜の肌。布きれと成り果て、役割を失った服。不揃いに切り裂かれ乱れた髪。床に散らばる大量の鋏。
凜が抵抗しないのは、目をガムテープで何重にも覆われ、両の手の甲にそれぞれ一本ずつ鋏が突き刺さっているからだろう。震える凜と彼女の両腕。悲しい血色がフローリングに斑模様を作っていた。
「大怪我だね~」
 鋏は鋭くない。人間の手の甲に突き立てるには相当な力がいるだろう。それに、鋭くない分痛みも伴う。血も大量に出る。鋏を抜けばさらに酷い出血になることだったろう。
 そんな地獄の様な光景を見て、奏慈は、
「……どうしてこんななっちまったんだろうな」
 自分の、携帯を持つ拳が震えているのが分かった。怒り。そう、怒っている。
「俺たちはさ、音楽が好きで、お互いの持っている音楽が特に好きで、それで『風鈴』を始めただろ。あの頃は楽しかったよな」
 何に怒っているのか、それは奏慈にも解らない。元凶の凜か、狂った風音か。どちらもか、どちらでもない根本的な何かか。
「世の中色んな音楽作るやつらがいるよな。同人業界の俺達ならなおさらそう思うよな。中には暗い音楽、悲しい音楽、怒りや憎しみを訴えた音楽もあるけど、どれを取ったって作っているやつらは音楽を楽しんでいるんだ。音楽が好きなんだ。」
 なぜこんな地獄絵図の中で、自分が語りだしているのかさえも、分からなかった。
「そう、音楽は楽しいんだよ」
「わたしも最初は楽しかったよ」
 風音は鋏を握っていた。
「けど、あの頃には戻れない。そうでしょ、凜ちゃん?」
 鋏に囲まれた女、凜は俯いたまま、しかし微かに「えぇ」と肯定した音が聞こえた気がした。
「奏慈、分かったでしょ? 私たちはもう戻れない。凜ちゃんは奏慈のこと好きだし、奏慈はわたしのこと好きなんでしょ? そうなった時点でもう、終わりかけてたんだよ。歯車がかみ合わなくなっちゃってたの。今はこうして、凜ちゃんがわたしのこと勝手に恨んでくるし、わたしは大事な喉を壊されて、怒って、凜ちゃんのことを殺そうとしてるんだよ。『犯行声明文』にあったように。じっくり、ゆっくりと」
「ふはは」
 風音から『殺す』という単語が出てきた瞬間、奏慈は笑ってしまった。
「何がおかしいの?」
「おかしいだろ。風音の言ってることとやってること、むちゃくちゃおかしいだろ。本当は自分でも分かってるだろ?」
「なにを……言ってるの?」
 風音が鋏をギシリと強く握ったのが分かったが、奏慈は無視した。
「最初からおかしいんだ。なんで『犯行声明文』なんて俺に送った? なんで殺人現場をこんな分かりやすい場所に選んだ?
なんで俺が『入れてくれー!』って言ったら凜の家に上げてくれた?」
「それは……、奏慈に見られながら凜ちゃんが殺されるって場面の方がおもしろそうだと思って――」
 風音が何か言っているが、奏慈はそれをも無視して続けた。

「風音、お前、俺に止めて欲しいんだろ?」

 風音の言葉が止んだ。
 そしてそれでも無理やり言葉を紡ごうとする風音を、奏慈は言葉で制する。
「声を殺されて心が弱っている時に、俺が凜の歌詞を見せちまったからな。『凜はまだ奏慈に愛を囁き続けている』ってことを知らせちまったからな。それで頭の中が真っ赤になって、訳が分かんなくなったんだろ」
 自分を蹴落として、そして奏慈を奪おうとした凜に、圧倒的な感情を覚えてしまったせいで、
「それまではなんとか『風鈴』を元に戻したいって考えてたのにな」
 そのことを忘れてしまったのだ。
 風音はほとんど狂ってしまったのだ。
「けど、ほとんど狂ったお前は、逆に冷静なお前も少しだけ持っていたんだろ。その冷静なお前は、最初は狂ったお前を止めようとしただろ。けど、狂ったお前の暴走を止めることはできなかった。だから――」
 犯行声明文。分かりやすい殺人現場。奏慈を招いた理由。
「――だから俺を頼ったんだ。ほんのちょっとの冷静なお前が、狂ったお前の隙をついて俺を呼び出したんだ」
 風音が鋏を落とした。鋏は床に歯を喰い込ませた後、パタリと床に倒れる。
「わたしは……違うよ。止めて欲しくなんか――」
「諦めろよ。鋏を落とした時点で、お前はもう止まった。冷静になって、自分のやったことが怖くなって、今お前は震えてるんだよ」
「え!? あ……ほんと、だ」
 しゃがみこんで鋏を拾おうとするも、手が震えて全く鋏を掴めない風音。それどころか立ち上がることもできなくなってしまったようだ。
「ねぇ、奏慈。わたし、どうしよう? もうあの頃には戻れないし、立ち上がることもできないよ」
 三人で楽しく音楽をやっていたあの頃。形の崩れた三つの歯車は、二度と噛みあわなくなってしまった。歯車の一つは既に回る力を失ってしまった。二度と動かない。噛みあわない。金属の部品は、欠けてしまえば交換できるのに。それが人、心になってしまったとたん、替えが利かなくなってしまった。なんて不便なんだろう? なんて脆いシステムなんだろう。
「いい方法がある」
 座り込んでしまった風音の手を引きながら、奏慈は言った。壊れた三つの心を繋ぎなおす方法。そんなものがあるはずないのに。

「俺と二人で新しい同人サークルを作ろう」

 いい方法、なのだろうか? それで風音から肯定の返事を貰うことが、この地獄を終わらせることを意味するのか?
「……うん!」
 それを一瞬考えたものの、答えはどうしてもNOであることに気付いた風音は、肯定を表した。思ったよりも手を強く引っ張られ、風音は立ち上がってしまった。空回りでも、不恰好に動き出した。
 ブシュッと液体の飛び散る音に振り返ると、そこには、
「いやああぁぁぁぁあああっ!」
 手の甲から鋏を引き抜き血をまき散らす凜が、失恋していた。




 救急車は1分で来た。もともと奏慈が呼んでいたのだ。
――どうしてこんななっちまったんだろうな
 という、奏慈の最初の言葉。携帯を持つ拳が震えていたこと。それは、119に電話を掛けていたからだった。凜の怪我を見てすぐに救急車を呼んでいたのだ。
 それでも怪我は大きかったし、出血の多さに凜は失神。
 そして彼女が目覚めると病院のベッドだった。
「凜!」「凜ちゃん!」
 そして奏慈と風音がいる。
「あれ? 私……?」
「しばらく日常生活は、そのグルグルの包帯のせいで大変なことが多いかもしれないけど、命に別状はないってよ」
「良かったね! しばらくすれば腕も治って、また歌詞を書けるってさ! じゃなくて、ごめんなさい! 本当に、ごめんな――ゲホゲホゴホゴホ!」
 本来風音は大きな声で喋っていい喉をしていない。それをすっかり忘れてあの日に大声で喋り続けた結果、喉が悪化してしまったという。それを聞いた凜は、
「ごめんなさい。本当に、謝って済む問題じゃないのは分かっているけど、でも……」
 力なく謝るしかなかった。そんな凜を励ます太陽のような笑顔を浮かべ、
『いいんだよ。お互い謝って済むことしてないんだから、プラスマイナスゼロ! 謝っちゃえばいいよ! お互いにね! だからごめんなさい!』
 スマートフォンに異様ともいえるスピードで文字を打ち込んだ。言葉にしてないのに見るものを元気にしてしまうような、『いつもの』風音だった。
 互いが互いに許せない行為をし、された者同士の会話とは思えないほどに軽く『ごめんなさい』が飛び交う。そのせいか、凜は少し不思議な気分になった。
「でも、どうして二人ともここにいるの? 私、もう『風鈴』のメンバーじゃないし、その、奏慈にフラれちゃったし……」
「あぁ、ふった。だから『恋人』じゃなくて『仲間』でいような」
 愛を拒むことは、拒絶になるとは限らない。
「……あなたらしいわね。だから好きになったのよ。狂っちゃうほどにね」
 けれどもそれは愛を拒む側の理論にすぎなかった。愛が全てで、愛をささげた側の人間に、その理論は救いを与えない。
凜はベッドから起き上がらない。もう立ち上がることさえ疲れてしまった。愛する人に愛を囁くことも、音楽も、疲れてしまった。
「でももう狂わないだろ。凜も含めて俺達はもう20をとっくに超えた大人なんだから、反省くらいしようぜ。感情のまま動くと後で困る、て」
「それ、世の中の色んな人が活かせない教訓よ」
「一人じゃ感情を制御できないかもしれないけど、三人集まれば文殊のパワーでなんとかなるだろ。とりあえず、今回は俺が大活躍だったよな」
「原因はあなたにもあるけれどね」
「さて、本題だ」
 あからさまに話題を逸らす奏慈がおかしくて、風音は笑ってしまった。
話題は逸らしたが、『気づくのが遅すぎたこと』という反省はちゃんと奏慈の胸に止めてある。そして風音も、もっと大きな反省課題を抱えている。それが分かっているからこそ、今は笑うことができた。
 一方で、凜に笑顔はない。何がそんなに楽しくてこの女は笑っているのだろう? それを考え、自分を蹴落として幸せを手に入れたからだ、というのを思い出した。
「本題~! わたしと奏慈の作った新しい同人サークル『風鈴-next summer-』では、作詞担当の凜ちゃんを募集してます~!」
「ちょっと、それって私が入るしかないじゃないの」
「凜ちゃんが入るしかないね~」
 この女はいったい何を考えているのか。こんな2人のお花畑空間に自分を巻き込んで、イチャイチャを見せ付けて、楽しいのか。抉られる心に焚き付けられた炎。凜は明らかに機嫌を悪くしていく。
「ああ、ええっと、勘違いしてるようだけどさ、風音にさ、」
 奏慈が申し訳なさそうに切り出した。

「同人サークルやろうって誘いはOKされたけど、『二人で』ってのはNOされたんだ」

「は?」
 突然この奏慈は何を言い出すんだ、と凜はいよいよベッドから起き上がる。
「つまり、風音にフラれた」
 その言葉の意味がようやく理解できた頃、

「あーっはっはっはっはっはっははははっ!」

「おい、凜、そんな嬉しそうな顔すんな! 風音も笑うな! 『あははは!』ってスマートフォンに書くな!」
 たったこれだけのことで、これだけのとっかかりで、3人が元の『風鈴』のように笑い合えてしまったことに、驚きながらも奏慈をターゲットにした談笑は続く。
 3つの歯車は不恰好に回り続ける。噛みあわなくても、錆びていても、3つの力で風鈴の音を再生させる。
 そこにできたものが3角関係でも、風情のない風鈴でも、彼らは笑い続ける。
壊れた風鈴は、今までとは違ってしまう音を奏で続ける。不協和音を響かせ続ける。
そんな風鈴を選んだのだ、風音は。
――あのね、奏慈。わたし、奏慈とは付き合わない! だって、わたしは奏慈と同じくらい音楽が、『風鈴』が好きなんだもん! わたしは両方選ぶよ! 最初は不恰好だったり、凜ちゃんと酷い喧嘩をするかもしれない。でもね、

――わたしは絶対、諦めないよ!

 あの日、立ち上がることのできなかった風音の腕を掴んで、ひっぱてくれた奏慈。
 奏慈は確かに風音が好きだ。
 けども、彼の願いは『風鈴』にある。
 それを知っているからこそ、そしてそれが彼女の願いでもあるからこそ、風音は諦めない。




 そんな心情を、凜はすぐに理解してしまった。この2人の笑顔から簡単に分かってしまった。ずっと3人で活動していたからこそ、その絆を通じて知ってしまった。
例えボロボロの糸でも、繋げっていたのだ。
凜はそれを実感したからこそ、つい笑顔を表してしまった。
――ああ、私は一人じゃないんだ。
 あの日、凜は風音に鋏で身体を切り刻まれた。しかし、それ以上に心を傷つけた光景は、奏慈が風音に『二人で』同人サークルを作ろう、と言ってしまったことだった。あの瞬間、凜の恋は破れた。狂おしい程に愛しい奏慈に捨てられ、風音にも突き放され、一人になってしまった。
 そう、奏慈に恋心を拒絶されたことよりも、一人になることが怖かった。
 けど、彼らはまた3人で『風鈴』を作ろうと言ってくれる。
 未だに奏慈のことを狂ってしまうほどに愛してしまっている凜には、風鈴の一部になることのできる自信がない。
 また壊してしまうかもしれない。また傷つけてしまうかもしれない。
 けど、まだチャンスがあるのなら……。

 凜は光に手を伸ばした。




 風鈴は鳴り響く。
 かつての音とは違う、少し不協和音の混ざった音。
 だけど、音楽をするうえでは、不協和音は恐れてはいけない。
 ディミニッシュコードやサスペンディッドフォースコード、更には複雑なセブンスコード等が混じり合い、不協和音さえも音を進める力とする。
 綺麗な音色を揺らし続けた風鈴は、春を超えて、一回りほど力のある夏音を作る。進む。願った未来を目指して。
 頼りない、不安定な風鈴の音でも、濁ってしまった音でも、鳴り方を忘れた風鈴でも。三人の世界は溶けうためにも『風鈴』を鳴らす。





 次の秋――夏の暑さの抜けきらない秋、新生『風鈴-next summer-』の新譜は、これまでの明るく煌びやかな曲とは違い、失恋の悲しさを歌った夏の終わりの曲だったという。悲しいのに、それでもそれを乗り越え、前に進もう、という気持ちにもなれる、そんな不思議な曲だったという。
 余談だが、相変わらず同人音楽即売会ではいつも通り、風音と凜が
「売れないね~」「売れないわね~」
 呟いたという。





 あとがき

 みなさんこんにちは。キントキです。
 DTMにおける『リバーブ』というエフェクトについて説明しましょう。
 リバーブとは奥行や広がりを作り出す空間系エフェクトで、『ディレイ』というエフェクトの技術を応用したものです。
 『ディレイ』とは、ある元の音に対し、その音をもう一度遅れて鳴らすエフェクトです。一度ではなく、何度も鳴らすことができます。よく例に出されるのが山彦です。自分の叫んだ『ヤッホー』が原音だとして、はね返って後から聞こえてくる『ヤッホー、ヤッホー、ヤッホー……』という、段々小さくなっていく複数回の音がディレイ音です。
 この『ヤッホー』の小さいものが、幾つも幾つも密集して、更には左右に広がったり、ぼやけた音を作り出すのがリバーブなのです。
 リバーブの例えは、カラオケのマイク等が当てはまるでしょう。マイクに向かって声を出すと、機器に自分の声が通され、リバーブがかかり、スピーカーから声が出力されます。すると、歌声が部屋全体に響いて聞こえるのです。カラオケでは『エコー』という名で知られていると思います。
 ただし、リバーブのエフェクトは深くかけすぎると、音がぼやけてしまうので注意が必要です。
 さて、リバーブは音に奥行や広がりを持たせるために使うのですが、なぜそのようなことをするのでしょう。
 リバーブは一つの音だけではなく、例えばボーカルだけではなく、それ以外のギター等にもかけていきます。これによって、その音楽に空間が生まれ、一つ一つの音が上手に『混ざる』のです。
 そう、リバーブは音と音を『混ぜる』ことを目的としています。
 例え耳障りな不協和音が連続してしまっているような酷いオケでも、リバーブを深くかけてしまえばとりあえず『混ざって』くれます。

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