華やかなりしも京の都(まち) ①
視界がぼやけていた。
真っ白な天井。なぜかハンガーラックに点滴が吊されていて、黄色の液体がぽたぽたと落ち続けている。
静かだ。風の音さえ聞こえない。
「生き……てる……?」
覚えている。地上四十五メートルの戦い。
僕は死神姫の一瞬の虚を衝き、彼女を道連れに旧京都駅の空中径路から身を投じた。
「痛――っ」
身体を起こすと、全身に痛みが走った。動かないということはないが、指先一本を動かすことさえ、激痛が走る始末だ。筋肉痛は当然として、ギブスで固定された左腕や胸部は、骨までイッているようだ。
でも、生きてる。
拳銃から放たれた光弾が死神姫の頭部を貫き、アスファルトが迫るまでの記憶はある。
そこから先が思い出せない。どう考えても助かる方法などなかったはずだ。ましてや、生命力を使った最後の一発を放ってしまったというのに。
「ここ、どこだ……?」
少なくとも京都多種族安全機構のビル内ではない。あのビルには、こんなにも綺麗で清潔な部屋は存在しない。それに、漂う薬品臭。
「病院……?」
窓の外は夜。あいにくとベッドからは距離があるため、窓から景色を覗き見ることはできそうにない。
ただ、雪が降っていた。静かに。
夢……だったのだろうか……。東京を旅立つことができない僕が見た、罪悪感を具現化した夢……。
穏やかな風が窓硝子を揺らす音が、微かに響いた。エアコンが効いているのか、寒くはない。
「……かー、かー……ぬ……しさ……?」
「わっ!? ――ッてえ!」
無人と思っていた室内から声がして、僕は驚いて仰け反ってしまった。激痛が全身を駆け巡り、もんどり打ってベッドに倒れ込む。
ベッドの下から、金色の子狐がぴょんと跳び上がって僕の毛布に着地した。
「い……てて……。い、伊都那か……?」
「……いー、いー、とーな……」
子狐は僕の上でひょいと立ち上がり、二足歩行で枕元までやってきた。
「よかった、無事だったんだね」
「……だー、だーじょ……?」
「うん、大丈夫だよ。伊都那はケガとかしてない?」
夢じゃなかった。僕は、間違いなく異界の神と戦ったんだ。
伊都那が前足でぺたぺたと僕の額を叩いた。いや、撫でているつもりなのかもしれないけれど。
「……ぶーぶぶじじ……い、とな……げー、げんき……」
喜んでいるらしく、二足歩行のままちょこちょこと跳ね回っている。
「そうだ、ナツユキ――冬乃はどうなった!? どうして僕は生きてる!?」
両方の前足を口元にあてて、伊都那が首を傾げる。破壊的な可愛らしさだ。これの飼い主になったというのか、僕は。
たまらん。たまらんぞ。
「……おー、おぅに……こ……はー……」
「いや、そろそろヒト型になってよ。声帯が狐のままじゃ喋りにくいだろ」
伊都那が短い前足で頭を抱えて、小さな身体ごと斜めに首を傾げる。
「……んー!」
そのまま、ラジオ体操のように前足をくるりと回すという奇妙な動作を行った直後、炎色の瘴気が大量に子狐から発生した。
「ぬおっ!?」
室内を満たすほどの炎だが、まるで熱くはない。ただ目が潰れそうなほどに、ひたすら眩しい。
「やれやれ、ヒト型とはなんとも無粋な呼び名よのう。妾の一族は、艶姿と呼んでおる。飼い主様もそう呼ぶがよい」
「のわあああぁぁ!? ――ぁ痛っ!?」
横たわる僕の数センチとなりに、アンニュイな表情をした金髪の美女が、自らの肘を枕にして僕を眺めていた。健康的な活力溢れるナツユキとは違う魅力で、かなり刺激的だ。長い睫毛も、物憂げな瞳も、艶やかな唇も、総じて色っぽい。
てゆーか、さっきの奇妙な動作って変身ポーズだったのか……。
「何を騒いでおる。飼い主様が艶姿になれと云うたのであろ」
艶やかな唇が開くたび、吐息が僕の鼻にかかる。
「ちょ、ちょ、は、離れて」
「……? あいわかった」
伊都那が身を起こすと、着物が一瞬で着崩れ、豊かな胸で引っかかって止まった。
おまえそれ、もしも胸が小さかったらどうなると思ってやがんだ、と思いつつも、そんなことよりも大切なことがある。
僕は顔をしかめて身を起こし、ベッドの柵に背中を預けた。
「あれから何日経った? 冬乃は、どうなった?」
彼女を追ってきたんだ。謝りたくて、もう一度やり直したくて、気持ちを確かめたくて。それだけのために僕はすべてを捨てて、魔都へと踏み込んできた。
もしも冬乃――夏奈深雪がいなくなったのであれば、何もかも捨ててしまった僕には、もう何も残らない。カラッポだ。
胸の中を鷲掴みにされたかのように、呼吸が苦しい。返事が怖い。
伊都那が動物がそうするように、僕の膝に惜しげもなく上半身を乗せて口を開けた。
「まだ三日じゃ。鬼の子であれば、もうじきに参じるのではないか。飼い主様には妾がついておるというに、毎夜ご苦労なことじゃ」
あ……。じゃあ……。
毛穴が開く。いつの間にか止めていた呼吸を、僕は安堵の息で吐いた。
「よかった……」
あいつ、毎日僕の見舞いをしてくれてたのか。
謝ろう、十年前に手を放したことを。そして伝えよう。十年も僕を騙していたことへの怒りと、僕が夏奈深雪だけではなく、日向冬乃という人格にも惹かれてしまったことを。
そしたら、またやり直せる気がする。
直後、遠慮がちなノックがして、静かにドアが開けられた。
「……伊都那、入るよ。絢十さんの具合はどう?」
白のコート。日向冬乃――いや、夏奈深雪だ。肌は赤ではなく肌色に戻り、鬼神状態では黒に戻っていた髪と瞳は、輝く炎のような赤に変色していた。頭皮を破って出ていた尖塔型の角もなくなっている。
それに、赤鬼のときと比べて、やはり実年齢よりも少し幼く見える。たぶん、怪として覚醒したことによって、肉体年齢にも何らかの変化があったのだろう。
顔つきは、日向冬乃。傷一つない、いつもの綺麗な彼女だ。
僕は胸を撫で下ろす。
「伊都那の好きなリンゴも買ってきたから、一緒に食べ――」
ナツユキは病室に一歩踏み込んで、呆然と僕を見て、足を止めた。
「……やあ、ナツユキ」
その表情に花が咲く。赤の瞳が一度見開かれてから細められ、手に持っていた果物の袋を取り落とし、両手で口元を覆った。
透明の滴が、彼女の頬を伝う。
「絢――あ……?」
しかし数秒後に視線を下げて真顔に戻り、さらに一秒後には額に縦皺を刻んだ。
なんだか感動の再会の途中から、完全にガンつけに移行したみたいなんだけど……。
「おうこら、ワレ」
あれ? 関西弁に戻ったぞ?
「うちが見てへん間に伊都那を艶姿にして、何しとったんや」
「はい?」
「……ん~?」
僕の膝の上に胸を押しつけて、ゆったりくつろいでいる伊都那。ごろごろして遊ぶものだから、着物の着崩れは一層ヒドくなり、帯も解けかけている。
僕は唾液を呑み下す。夏奈深雪はすっかり日向冬乃に戻り、般若の形相をしていた。
「……浮気か? またヤったんか? 今度は伊都那とコンコンしてもうたんか?」
「いや、これはその、この状況を伊都那に説明してもらおうと思って――」
そう、たぶんここは病院で、僕は入院させられた。あのあとどうなったのか、誰が無事で誰が死んだのか、なぜ僕自身が生きているのかを問い質したくて、言葉の通じやすい艶姿になってくれと頼んだのだ。
頼んだのですけれど!
「この今まさに浮気してますぅってな状況をか? あんた、女に説明させるんか? うちが知っとる十年前の絢十は、そんな卑怯者やなかったのに!」
「お、お、大いに違う」
黙って僕らのやりとりを見ていた伊都那が、僕の膝に肘をついて首を傾げた。
「何を癇癪など起こすことがあろうか。呆れるぞ、鬼の子よ。妾は愛玩に過ぎぬ。夫婦の邪魔をするほど無粋ではないわ。妬くにも値せぬ存在と思うがよい」
「むぐぅ――べ、別に嫉妬とかしてないんですけど! め、めめめめお、めおめめ夫婦でも……ないし……」
散らばった果物を拾い集めながら、ナツユキが唇をひん曲げた。十年前から顔つきは全然変わってしまったけれど、彼女は紛うことなく夏奈深雪だ。
僕はそれが嬉しい。
「それに、伊都那はそうかもしんないけど、男の人ってそうじゃないからね! いきなり襲われたって知らないから! あんたはわたしと違って、特にその――や、柔らかそうだ……な……」
信用ゼロか。傷つく言葉だなぁ。確かに伊都那はかなり刺激的だけど。
膝上の柔らかな二つの感触は、これまでの人生ではたとえるものもない。
視線を向けると、ナツユキは自分で言った言葉にダメージを受けたのか、がっくりうなだれていた。彼女は自分を卑下するけれど、僕はその髪も瞳も綺麗だと思う。
伊都那が少し考えるような素振りを見せて、僕を見上げた。
「まあ、それも吝かではないがのう。愛玩にも多々あるゆえ。妾の在り方は、飼い主様が決めればよいことじゃ」
おい、やめろ。ほら見ろ、また般若みたいな顔してるじゃないか。
「てゆーかあんた、子狐じゃなかったの? なんなのよ、その姿は!」
それは僕も疑問に思っていた。
伊都那は少し考えたあと、首を傾げた。
「……? まだ一千と二〇〇年程度しか経っておらぬからのう。伏見におわす宇迦之御魂神や、唐土の大妖、白面金毛九尾の狐に比べれば、妾などまだまだ子狐じゃ。神樹生まれほどではないがの」
あ、もうそんなお年寄りなんだ……。
僕は伊都那の背中を撫でて、とりあえずこの状況をどうにかすることにした。ちょっと、いや、かなり惜しいけれど。
「い、伊都那、とりあえず狐に戻ろうか」
「なんじゃ。艶姿になれと云うたり、狐に戻れと云うたり。まあ、飼い主様がそう云うのであれば、従いはするが」
口元に手をあてて大きなあくびをして、伊都那が僕の膝の上で頭を抱えた。やはりラジオ体操のようにもぞもぞと腕を一回転させ、突如として輝き出す。
やたらと眩しい炎色の瘴気が消失したあとには、子狐が僕の膝の上でくるりと丸まっていた。
僕は額の汗を拭う。こいつ、ペットとしては可愛いけど、かなり肝を冷やすな。
まだ般若のような顔つきをしているナツユキへと、僕は話しかける。
「無事でよかったよ、ナツユキ」
「あ、う、うん、おかげさま……で……」
途端にナツユキの表情が変化して、恥ずかしそうにうつむいた。
「僕が言っているのは、死神姫のことじゃないよ。その……十年間、あの日から」
「……うん」
僕が騙され続けた十年間。彼女が騙し続けた十年間。互いに苦しみ、本当に長かった。
沈黙が訪れる。手持ちぶさたになって、僕は伊都那の頭に手を置いて、そっと撫でた。伊都那は少し気持ちよさげに「きゅう」と鳴き、眠そうに瞳を閉じる。
もしかしたら、眠るふりで気を遣ってくれたのかもしれない。
色々と伝えたいことがある。あったはずなんだ。怒りたいことや、喜びたいこと。なのに、一言も出てこない。ただ長い沈黙だけが病室を支配して、なぜか僕らは気恥ずかしくなって、視線すら合わせられない。
「……ご、ごめんなさい」
「へ?」
ナツユキが突然頭を下げた。
「そ、その、色々と……」
「ゆるさないよ」
彼女は十年間僕を騙していたことを謝ったつもりなのだろう。たぶん。でもそれは的外れなんだ。間違いなく。
「ごめん……なさい……」
「絶対にゆるさない。どうして嘘をついたんだ? 十年間も。僕がここへ来てからも、あんなメールを続けたりして。なにが窓際のポインセチアだよ。深窓の令嬢かよ。年齢だって大嘘じゃないか。十代後半? 僕と同い年だろ」
「うう、ごめんなさい……」
僕は伊都那を起こさないようにベッドの縁に移動して、泣きそうな表情のナツユキの手を強引に引いた。
「わう……」
よろけたナツユキが、僕の隣りに腰を下ろす。その背中が、僕の肩にあたった。
「勘違いするなよ、ナツユキ。つかれていた嘘の内容なんてどうでもいい。どうして嘘をついたのかってことを責めてるんだ」
折れた肋骨の痛みを押し隠して、僕は大きく息を吸う。そうして、大声で叫んだ。
「――おまえがどんな姿になっても、どんな生物になったとしても、それを理由に僕がおまえを嫌うとでも思ったのか! おまえを忘れるとでも思ったのか! おまえには、最初っから嘘をつく必要なんてなかったんだ! 赤鬼がなんだ! 鬼神がなんだ! 顔つきが変わったからどうした! 髪の色や瞳の色がなんだってんだ!」
僕はナツユキの背中に腕を回し、めいっぱい抱きしめる。ナツユキが息を呑んだ。
「もっと僕を信じてよ。おまえは鬼である以前に僕の知っている夏奈深雪で、精一杯僕のことを考えたからこそ、騙すことを選択した日向冬乃だろ」
ナツユキが両手で口を覆い、涙をぽろぽろと零す。
「ごめ……なさ――必要のない嘘をついて、ごめんなさい」
「うん」
背中を向けていたナツユキが振り向いて、真っ赤な顔で僕を見上げた。覚悟を決めたかのように唇は強く結ばれ、瞳が閉ざされる。