高潔な魂に力を与え新たな世界へ転生させる女神と、すぐ死ぬバカ
私の名はシリル。魂の転生を司る神やってます。
「シリルさあん、ねえシリルさんてばあ」
生前、清廉で潔白な魂を持ちながら、不幸な事故により世界を離れざるを得なくなった魂をつなぎ止め、新たな世界へ転生をさせることが私の使命であり責務。
転生した魂は、より強固な意志と、強靱な身体と、強力な能力を持ち、その世界に光をもたらすべく第二の人生を歩む。歩むはずなんだ、けど――。
「あのお、ボク早く転生したいんだけど、ねえ、ねえってば、聞いてる?」
視界の端でねだるように甘えた声を出す猫毛の少年を見て、私は溜息をついた。
「……えっと、その前に私ひとつ質問してもいいかな」
「いいよお」
「あなた、なんでまたここにいるの?」
「死んだからじゃないですかあ? 学校から帰る途中、猫を助けようとして、トラックに轢かれて――」
「知ってる知ってる、そこは知ってるのよ。その後私んとこにあなたが来たから、あなたの魂を繋ぎ止めて、世界を変えうる力と第二の肉体を与えて異世界に送ったのよ。……なのに、なんでまたここに来てるのかってことを聞いてるんだけど」
「死んだからじゃないですかあ?」
「だから、なんで死んでんのかって聞いてんのよ! 送ったのついさっきよ? ほんの小一時間前よ? ここでの小一時間が現実世界では数十年とかじゃないのよ、マジの小一時間よ? 何をどうやったらそんな昼休憩ぐらいの時間で死んでこれんのよ! 死因は、死因は何なの!?」
「えっと、食中毒」
「地味だわ。せめてもっと避けようもないトラブルに巻き込まれて死んでて欲しかったわ。だいたい何食ったらこんな速効死ねるのよ」
「紫色に赤い斑点のあるキノコ」
「絶対食っちゃダメなやつじゃん。辞典で『毒』って引いたら、挿絵で載ってるぐらいクリティカルな毒物じゃん」
「だってお腹減ってたし、シリルさんがボクに特殊能力与えたって言ってたからイケると思って……」
「私があなたに何の能力与えたか、言ってみ」
「瞬間移動」
「通用するわけないでしょ。毒に対してはベストオブ無力な能力ってわかるでしょうが!」
「毒だけがボクの身体から瞬間移動する能力だと思ってました」
「死してなお前向きだな小僧」
叱られていることに納得がいかないのか、カイトは頬を不満げに膨らませた。
「そもそも、森のど真ん中に転生させるってのはおかしいと思うんですよお。頼れる人もいないし、食べる物もないし、いくら瞬間移動できるっていっても、知らない世界でどこにいけばいいかとかわからないじゃないですかあ。キノコで死ななくても、毒虫とか、肉食獣とかで、たぶん結局死んでましたよ」
「……転生先が悪い、と、そう言いたいわけ。はいはい。わかった、わかりました。それじゃあ今度はできるだけあなたのご希望に添う形で転生させますよ」
私は手元に転生先便覧をたぐり寄せた。
「……で、ご希望は?」
「まずですね、外じゃなくてせめて建物の中がいいです。あと近くに色々教えてくれる人もいた方がいいかなあ」
「建物の中で、近くにアドバイザーね……。今送れるところだと、えーと、地表のほぼ全てを人工物で覆われた超未来世界、が希望に一番近いかな。そこのレジスタンスの一員として転生すれば、近くに色々世話を焼いてくれる人間もいるだろうし、移動すら制限されてる完全管理社会だけど、瞬間移動ならそんなのも関係ないし――」
「あ、食べ物持ち込みってオーケーです?」
「話聞いてくれる?」
「なんか転生するとすっごいお腹減るんですよお、食べ物持ち込みたいなあ」
「……持ち込むって言ったってあなた、具体的に何を持ち込みたいの」
「おはぎ」
「超未来世界だ、つってんだろうが」
「だめ?」
「ダメもクソも、米も小豆も孫のためにおはぎを作るおばあちゃんもとっくに絶滅してるわ! その世界で合成可能な食料なら持たせられるから、それで我慢しなさい」
「つまり、おはぎってこと?」
「話聞いてた?」
再び一から説明すると、不承不承ながらカイトは納得した。
「じゃ、いってきまあす」
合成食料を小脇に抱えたカイト、転生ゲートの中に入り小さく手を振った。私も力なく手を振り返した。願わくば、彼がきちんと自らの使命を果たしてくれんことを、本当に心から祈った。
小一時間ほどして、私の元に次の転生者が姿を現した。
「ただいまあ」
……目まいがした。その場に崩れ落ちそうになった・
「あれ、シリルさん大丈夫ですかあ?」
「……座れ」
「え~?」
「いいから座れ。そこ、座れ」
カイトは顔中の筋肉をほどくようなだらしない笑顔のまま座った。
「なんで、また、ここに、来てんのよあんたは!」
「だってえ、ちょっと厳しすぎますよあの世界。ボク何にもしてないのにいきなり撃たれて死ぬんだもん」
「何もしてないのに撃たれて死ぬわけないでしょ。思い当たることはないの。また毒キノコ食べたとか、毒の水飲んだとか、毒触った手を洗わないでポテチ食べたとか!」
「そんなことしてないですよお。まあ強いて言うなら、歩いたら死ぬよ、って言われたエリアを歩いたことぐらいで」
「それだよ」
「えー!?」
「えー!? じゃねえわ。驚けることに驚きだわ。移動すら制限された完全管理社会だって事前に言ったよね? 私言ったよね? なのに、何でやるな、って言われたことやった? なあ? なんでやった?」
「ホントに死ぬのかな? って思って」
「ゲームの選択肢にとりあえず『いいえ』選ぶ小学生か。つーかなんで瞬間移動できるのに徒歩が原因で死んでんのよ、唯一そのシステムの穴をつける能力のはずでしょうが! 何で使わなかったの、バカじゃないの!?」
「バカじゃないよ?」
「バカの確認がたった今取れたわ」
だってえ、とカイトは口を尖らせたが、私のひとにらみで首を竦めて黙った。
「なによ、また私の送った世界が悪いって言いたいの。あんたの注文通り、屋内だし近くにアドバイスくれる人もいたでしょうが。何が不満なの」
「確かにそうだったんですけどお……やっぱり、ボク、ルールが厳しいのって向いてないと思うんですよ。学校でだって、一限目にお弁当食べて怒られたり、二限目におやつ食べて怒られたりしてたし……」
「一限目はともかく、二限目のはわざとだろ」
「だから、なるべく自由な世界がいいと思うんですよ。そういうのないんですか?」
「まったく制限がないとなると、文明以前の原始世界になるけど……」
「あっ、そこがいいなあ。ボクそこがいい、楽しそうだし」
「あのねえ、言っておくけどめちゃくちゃ過酷よ? 他の人類なんていないからね? あんたが神となって文明を熾すところからだからね? 大丈夫? できる? 創世とかやったことあんの?」
カイトは、大丈夫大丈夫、と首をぐらぐらと縦に振った。
「じゃあ送るけど……本当に大丈夫なのね? 今回は特別におはぎ持たせてあげるから、絶対キノコとか食べないでよ? あと危険が迫ったらすぐに瞬間移動使って逃げんのよ? わかった? わかってるよね? 本当だからね!?」
*
「恐竜つよい~」
「まずどうして挑んじゃったか教えてもらっていい?」
「やっぱりボク、自然とかあんまり向いてないですよお」
「自然は関係なくない? なんで勝てない相手に挑んだ?」
「やっぱり普通の世界がいいかなあ」
「私、神やってて大分経つけど、ナチュラルにガン無視されたの初めてだわ」
「あ、あと、気づいたんですけど、守りたい人がそばにいた方がいいと思います! 女の子とか! これ自分で気づけるの凄くないですか!?」
「うるせーわ。私の神としての尊厳がストップ安なことにどうか気づいてほしいわ」
「おねがいします! シリルさんみたいに可愛い女の人がそばにいてくれる世界に送ってください!」
ぺこぺこと頭を下げるカイトを見ていると、何も言う気がなくなってしまった。
「ったく、調子いいんだから。今さらおだてたって何にも出ないわよ。で、何、守ってあげたくなるような女の子がそばにいればいいの? それなら、大国を治める女王の幼なじみとして転生させるのがいいかな……」
「あ、できればシリルさんより若い子がいいです」
「前言撤回、鉄拳ならいくらでも出るわ」
「うそうそ、うそです! どんな子でも命がけで守りますから、今度こそ、使命を投げ出さないでちゃんとやりますからあ!」
*
「フラれた~」
「命ごと投げ出すとは思わなかったわ」
「あのお、女の子の寝室に瞬間移動したらフラれたんですけどお」
「あたりめーだろ。なんでちょっと私のせいみたいな空気出してんのよ。だいたいフラれたからって死ぬなよ、宣言したんだから命がけで守ってこいよ!」
「でも、もう口もきいてくれないって言われちゃって……」
「その湯葉よりやぶれやすいメンタルいい加減にしろ」
カイトは悲痛な表情で、ぶんぶんと首をふった。
「もう女の子はいいです……。次は、眺めが良くて、心が落ち着く世界がいいです……」
「転生を小旅行か何かだと思ってない? 眺めが良いとなると地上を棄てた天空都市しかないけど、先に言っとくよ。瞬間移動もあるし、絶対にありえないと思うけど、落ちるなよ? 絶対に落ちるなよ? 落ちたら絶対に助からないからね? 地上は見渡す限り硫酸の海だからね? ね? 落ちないでね? 落ちないでね!?」
*
「落ちた~」
「ぶっ殺されてえかクソガキ」
「もう死んでまーす」
その後もカイトは何度も転生し、何度も死に戻ってきた。
その度に、やれ環境が悪いだの、人間関係が良くないだの、最終的には流れが来てないだのと、パチンコをやめられないフリーターみたいな難癖を付けては、私の溜息と共に新たな世界へと旅立っていった。
「じゃ、いってきまあす」
もう何度目かわからない転生にも、笑顔でカイトは向かっていった。
死ぬたびにそれ相応の痛みや苦しみも味わっているはずなのに、あのあっけらかんとした態度を崩さないでいられるのは何なんだ。心がぶっ壊れてるんだろうか。まあ彼の心はともかく、私の心はぶっ壊れる寸前だった。これ以上付き合っていられない。
だから私は今回、一計を案じた。
このまま座してカイトが戻ってくるのを待ちはしない。
本来、転生させた魂については不干渉だが、そんなことも言っていられない。
彼が一人で生きていけないというのなら、私が助け船を出すしかあるまい。
私は深い溜息とともに異世界へのゲートを開き、カイトの後を追った。
ゲートをくぐると、すぐに広い空間に出た。
部屋の一隅にはチーク材の棚。暖炉。大理石のマントルピース。シャンデリア。そして、大きなベッドが一つ。どうやら寝室のようだ。
私が今回彼を送ったのは、人類が魔王に支配された世界。
その植民国家の一領主の息子としてカイトは転生した。
なるほど、視線を巡らせると、ベッド近くのスツールにちょこんと腰掛けるカイトの姿が見えた。
彼はきょろきょろと忙しなく視線を泳がせている。何度か目が合ったが、私は精神体のままなので、彼の目に見えてはいまい。
観察を終えるとカイトは納得したのか、よし、と一言呟き、立ち上がった。
迷いのない足取りで部屋を出た彼が向かったのは、彼の父親の元だった。
「クロイスか、どうした。今日は早起きだな」
書斎から出てきた父親がカイトの、寝癖の残る頭をぽんと叩いた。
この世界でカイトは、クロイス、という名のようだった。
「ねえお父さん、武器ない?」
麦茶ない? と同じトーンで武器を要求するカイトに父親はあんぐり口を開けた。私も同じ顔をした。
「何を言い出すんだクロイス、武器なんてあるわけないだろ、魔王があらゆる武器の所持を禁止しただろうが。もし持っていることがバレたら、一族郎党皆殺しだぞ」
「魔王に見つからないような所にもないの?」
「無いと言っているだろう。だいたい魔王はあの塔から全てを見ているんだ。隠し通せることなどありはしない」
言って、父親は窓の向こうを指さした。天高く聳え立つ魔王の居城が、雲間に薄く見えた。
「そっかあ……あ、じゃあ魔法とかは? 当たると痛い魔法がいいなあ」
「クロイス? どうした? 怖い夢でも見たのか? おねしょか? 父さんでよければ洗うの手伝うぞ?」
カイトを心から心配そうに見る父親の姿にちくりと胸が痛んだ。
すいませんお父さん、息子さんをポンコツにしたのは私です。
武器も魔法もないことを父親から告げられたカイトは、今度は、台所へと向かった。
台所では、巨体を揺らして女中が朝食の準備に取りかかっているところだった。
「ねえ、薬草ない?」
巨体の女中は、スープにおたまを突っ込んだまま首を傾げた。
「どうしたんですか坊ちゃん? どこかお怪我でも?」
「ううん。これから怪我するかもしれないから、薬草がほしいの。できれば、どんな怪我でも治るやつ」
アッハハハ、と高らかな笑い声が台所に響いた。
「そりゃあいいですね。ついでに私が一晩で痩せる薬草も見つけたら、教えてくださいよ坊ちゃん」
あしらわれたことに気分を害したのか、カイトは頬を膨らませた。
「ないならいいよ。じゃあ包丁ちょうだい」
「坊ちゃん坊ちゃん坊ちゃん、え? 坊ちゃん? ちょっと?」
戸棚に手を伸ばしたカイトを、巨体で遮った。
「何言い出すんですか坊ちゃん。薬草の次は包丁だなんて!」
「ご飯作る手伝いをしたいだけなんだよ、だめ?」
「そんならこっちをお願いします」
言って、女中はカイトにおたまを渡した。
「刃物はダメですよ、それこそ怪我でもしたら一大事ですからね」
言って、女中はサラダ作りに取りかかった。
カイトは、渡されたおたまをしばらくしげしげと眺めていたかと思うと、ふいに「まあ、これでもいっか」と呟き、そして――。
跡形もなく、姿を消した。
「はぃっ!?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
女中は、カイトが消えたことに気づかずサラダを作り続けている。それぐらい、音も前触れもなくカイトは姿を消したのだ。
瞬間移動。私が彼に与えた能力だ。それはわかる。しかしどこへ?
慌てて彼の魂の行方を追った。
彼を追って辿り着いた先で、私は絶句した。
先ほど書斎の窓から微かに見えた、魔王の居城、巨大な塔――。
その塔がまさに目の前にあったのだ。
「ねえ、魔王ってどこにいるの?」
視界の端から聞き覚えのある声。見ると、身の丈三メートルはもあろうかという屈強な魔族の門番が、怪訝そうな眼差しを向けたその先に、カイトの姿があった。
「……人間がこの塔に何の用だ。供物の捧げ物なら、領主を通して――」
「ううん、ボク魔王を会いに来たんだよ。ここにいるんでしょ、どこにいるの?」
門番はしばらく考えたのち、身体を丸めて笑い出した。
「――ガッハハハハハ! 何を言い出すかと思えば、お前ごときが? 魔王様に? ヒー! 腹いてえ! 魔王様はこの塔の最上階にいらっしゃる、行けるものなら行ってみな。俺様の鉄槌を受けて歩ける足が残ってればの話だがな! ガーハハハハ――あれ?」
門番が言い終わるのを待たずに、またカイトは瞬間移動した。
行き先は明らかだった。
*
「……なんだ、貴様は」
薄暗い玉座の真ん前におたま一丁で立つカイトに、魔王が訝しげな視線を向けた。
私は思わず天を仰いだ。全くカイトの意図が読めない。自殺のタイムアタックでもしてるんだろうか。
「人間、か。どうやってここまで来た」
「がんばって来たよ。あのさ、ボク、魔王にお願いがあって来たんだけど――」
カイトの立っていた場所が突如爆炎に包まれた。もうもうたる煙が闇の中を流れる。
「失せよ。余は虫けらの相手をするほど暇ではない――熱ッ!?」
こぉん! と小気味良い音を立てて、おたまが魔王の額にめり込んだ。おたまにこびりついたスープから、まだかすかに湯気がたっていた。
「ひどいなあ、いきなり攻撃することないだろ。また死ぬとこだったじゃんか」
「――き、貴様!」
再び魔王が指先を閃かせると、虚空に爆炎が産まれた。しかし炎がカイトを捉えるより早く、彼は瞬間移動でその場から離れていた。
「く、この虫けらが、ちょこまかと――熱っ、あっつい!」
爆炎を避けては魔王の額におたまの一撃を繰り出すカイト。
「いい加減にしろ、人間風情が!」
おたまヒットアンドおたまアウェイにとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、魔王は玉座から立ち上がり、両手を天にかざした。
魔王の周囲数メートルを残し、空間全てが大爆発に包まれた。
さすがのカイトも避けきれなかったのか、爆風に吹き飛ばされ壁に叩きつけられた。
「ごぼっ!?」
立ち上がろうとするカイトの喉元を魔王が握った。
「妙な技を使いおって、何者だ。貴様のような人間は初めて見たぞ」
「ボク……は、お願い、が、あって来ただけなんだよお」
「願い? フン。良かろう。余を玉座から立たせた褒美だ、聞いてやろう」
「世界を支配するの……やめない? みんな、迷惑してるから……仲良くしようよ、人間と、さ」
少しの間のあと、闇の中に魔王の哄笑が満ちた。
「クククカカカカ! 傑作だ、余に、人間共と仲良くしろだと? そんな冗談を言うためにここまで来たのか? 見上げた根性だ、人間というものも捨てたものではないな、カカカカ! ――で、遺言はそれだけか? では死ね」
魔王が手が喉元を握りつぶさんとするその一瞬、カイトの顔に浮かんだのは懇願でも絶望でもなく、笑みだった。
「へへへ、またダメだったや……今度はなんて言い訳しよう……かな」
今際の際の微かな呟き。しかし確かに聞こえた。
また、と、カイトは言った。またダメだった、と。
私の脳裏にある疑問が浮かんだ。
これまで送られては一時間と経たずに死に戻ってきたカイト。
食中毒、女にフラれた、禁止エリアにうっかり入って……そんな理由で本当に?
彼は何かを隠していたのではないか? 異世界の環境に難癖をつけなかった彼が、瞬間移動という能力については一切文句を言わなかったのはなぜ?
もしかしてカイトはこれまでも、その世界の元凶となる者の元へ何の準備もないまま移動しては、返り討ちにあっていたのではないのか――?
「ぐぅおッ!?」
カイトの喉が嫌な軋みを立てたその一瞬、光の帯が魔王の腕を焼いた。
魔王は思わず手を退け、後ずさった。
「カイト!」私はカイトを抱き起こした。「しっかりしなさい、ねえ、ちょっと!」
「……あ。シリルさんだあ」
「暢気に笑ってんじゃないわよ。ほら、逃げるよ!」
「もう一人いたか、虫けらどもめ!」
魔王の指先から爆炎が迸る、私はあらん限りの魔力を込めて防御壁を張った。
……身体が重い。とっさの受肉とはいえ、生身の身体はこんなにも扱いにくいのか。思うように力が震えない。防御壁も、爆炎を遮るので精一杯だった。
私は声を涸らしてカイトに呼びかけた。
「早く逃げなさい! 急場しのぎの身体だから魔力も充分じゃない。長くはもたない!」
「ダメだよお、だってまだ魔王に世界征服やめてもらえてないんだから」
相変わらずの弛緩しきった顔で、カイトはそう言い放った。
「……あんた、ずっとそうやって、いきなり世界の元凶を説得しに行ってたの? それであんな早く死に戻ってきたの?」
「うん、へへ、ごめんなさい」
「ごめんじゃないわよ。ちゃんと経験積んで、仲間増やして、準備してから行けば今までだって世界なんか救えたでしょうが!」
「だって、イヤだったんだもん」
カイトは真面目な口調でそう言った。
ゆるんだ表情の中に、透明な眼差しだけが真っ直ぐだった。
「ボクがそうやってる間に、色んな人が犠牲になるかもじゃん。時間かければかけるほど、ボクの知らないところで、知らない人が、悲しい気持ちになるかもじゃん。ボク、そういうのが本当にイヤなんだ」
「バッ――」
バカじゃないの、何度目かわからないその言葉を言いかけて気づいた。
私は今さらなにを言っているのだろう。
最初からわかっていたことだ。そうだ、この子は初めっからバカだった。
自分の命も省みず、猫を助けるためにトラックの前に飛び出した――とびきりのバカ野郎だった。
「茶番は終わりだ人間ども、余の全力の前に消し炭と化せ!」
爆炎の勢いが増し、防御壁に亀裂が入った。
咄嗟にカイトの身体が私を庇うように覆い被さった。
「何やってんの、早く逃げっ――」
言い終わる前に、炎が私たちの全てを飲み込んだ。
*
目を開けると、柔らかい光が視界いっぱいに広がった。
光に目が慣れるにつれ、自分がどこか小さな部屋の中にいるとわかった。白塗りの壁に囲まれた窓のない、その真ん中に置かれた小さな椅子に私は座っていた。
突然のことで状況が把握できないが、その部屋にはひどく見覚えがあるような気がした。
「――ようこそ、さまよえる魂よ」
どこからともなく聞こえたその声と同時に、目の前に一際まばゆい光が瞬いた。
「私の名はサリエス。魂の輪廻を司る女神です」
思わず耳を疑った。
私は咄嗟に自分の身体をあらためた。
受肉したその時の格好のままだ。人間の肉体のままだった。
――まさか。そんな、まさか。
混乱とも動揺ともつかぬ感情が頭を支配する。しかし結論は明白だった。
私はあの時、人間として死に、そして何の因果か、今度は女神ではなく――転生候補者として送られていたのだ。
私は目の前の女神に、口をパクパクさせながら訴えた。
「……どうかしましたか?」
「あの、私、違うんです。私もここで魂の輪廻を司る女神やってて、ほら、見覚えないですか、私の顔!」
「混乱しておられるようですね。しかし不安になることはありませんよ、あなたがたの魂は私によって繋ぎ止められ、今まさに新たな世界に送られようとしているのですから」
「違う違う違う、違うんですって私は――えっ? 今、なんて、あなた……がた?」
嫌な予感がして、隣に視線を移した。
「や、シリルさん。奇遇だね」
顔中の筋肉を解くような、見慣れた笑顔の少年が座っていた。
「ねえねえ、今度はどこ行く? ボク今度は現代世界がいいなあ」
「そうね……」
私は天を仰いだ。
カイトの笑い方が伝染ったのか、口元をだらしなく弛緩させたまま、今度は魔王までそう簡単に辿り着けない世界がいいかな、と、そんなことを考えた。