挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
蝉だって転生すれば竜になる 作者:あぶさん
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

3/27

第2章 竜は真の慈愛を知る その2




次の日の朝、日の出と共に狩りを始めた。


さすがにもう胃袋が限界である。

そもそも私は、知識の継承のために一週間以上何も口にしていなかったのだから。
正直、今日にでも何かを腹に入れなければ飢えて死にかねない。


私の偉大なる目的(交尾)のためには、こんなところで力尽きるわけにはいかぬのだ。


翼を広げ、天へと登る。

眼下に広がるは竜の生け簀。容易い得物が、ほれ、そこかしこにいる。







狩りを始めて2時間が過ぎた頃、私の目の前には10頭程の獲物が横たわっていた。


生まれて初めての狩りは拍子抜けするほど簡単だった。

上空から獲物を補足し、そこから音速に近いスピードで一気に近づき竜の咆哮を浴びせる。それだけで獲物は皆気絶してしまうのだ。

あまりに間単に狩れるものだから、空腹にも関わらずつい興にのってしまい、これだけの得物を集めてしまった。

ちょうど島の中心に、目印になるべき巨大な岩山をみつけた私は、捕らえた獲物を一匹ずつ山の麓に並べていった。



ああ、誤解のないように言っておくが、私は目の前の獲物達をまだ一匹も殺してはいない。

こうして並べてみたのは、この世界での初めての食事となるこの記念すべき日に、どの獲物を食すべきか決めあぐねていたからだ。

もちろん、全ての獲物を食べるなどという選択肢も存在ない。
過ぎたる食は肉体だけでなく心も肥満させる。鋼のごとき肉体を持つ竜は、心も鋼でなければならぬのだ。


次々と目をさます魔獣に動くなと目でにらみを利かせながら、私は一匹一匹得物を物色していく。






最初に目をさましたのはキマイラという種族であった。獅子や蛇など、様々な動物が交じり合った獰猛な魔獣として知られている。

しかし今、ライオンの鬣は恐怖に逆立ち、ヤギの後ろ足はガクガクと震えている。
無理もない、竜を前にしては例えキマイラといえども、ただの獲物に過ぎぬのだから。


さて、問題の味についてではあるが、私が受け継いだ知識が伝えるには、ヤギの胴体こそ美味であるものの、ライオンの頭部と蛇の尻尾はとても食えたものではないらしい。

先代の竜も、キマイラを餌とするときは、ヤギの部分しか食さなかったようである。



………ふむ。



「ミーン(訳・去れ)」



私の声を聞いたキマイラは、蛇の尻尾を巻きながら一目散に逃げ出した。


なぜ私はキマイラを食さなかったのか? 

決まっている。胴体だけ食って捨てるなど奪った命に失礼なことができるわけがない。

生き物の命をうばうのなら、血の一滴までも感謝をもって食す。食事とは、命を食べる行為なのだから。



なお、少し余談ではあるが、この世界においては言語をもたぬ種族を魔獣、言語を操る種族を幻獣や亜人とみなしている。

本来であれば、キマイラのような魔獣と会話をすることは不可能な事ではあるが、竜であるわたしにとっては造作もない。
竜の言葉には言霊が宿るゆえ、たとえ相手が聾者であっても、直接意思を届けることが可能なのだ。





次に目を覚ましたのは、ケルベロスと呼ばれる種族であった。

闇のように真っ黒な体に3つの犬の首、地獄の門番として名高い凶悪な魔獣である。
目覚めたケルベロスは私の姿を認めると、



「くぅーん くぅーん」



と、腹を見せて服従した。



…ふむ、メスか…。


詮無きことを考えながらも、私はこの哀れな魔獣を解放することに決めた。

先代の竜の記憶でも食べられないことはないがあまり旨いものでもないとある。他に食物がないというのならばともかく、惨めに命乞いするこの犬をわざわざ選んで喰らう理由はない。


帰ってよいと伝えると、ケルベロスは一鳴きして、森へと消えていった。






次に目をさましたのは、ハーピーという種族であった。

鳥の四肢と女性の肉体をもつこの種族は、鳥と人間を足して二つでわったような美味らしい。
先代の竜の大好物で、狩り尽くさぬように自制をしながらも、月に一度はハーピーの肉で舌鼓をうっていたようだ。


目を覚ましたハーピーは私をみて言葉にならぬ悲鳴をあげた。

先代の好物であった彼女の一族のことだ、竜にさらわれるということがどういうことかよく知っているのだろう。顔を真っ青に染めながら、口をパクパクと動かしていた。


しかし、羽をバタバタと震わせながらも、決して声を上げぬハーピーの少女を見たとき、ある疑問が頭に浮かんだ。

私は彼女が怯えぬようにと、気さくな口調で問いかけてみる。



「ミーンミンミンミン?(訳・ひょっとして、しゃべることができないのかい?)」



ハーピーの少女はおそるおそる首を上下にふった。


『憐れな…』とは、心の中で呟くに留めておいた。


ハーピーとは、本来その歌声で獲物をまどわす生き物である。声の出せぬハーピーなど、もはやハーピーと呼んで良いのかすら分かぬ。

一体どのようにしてここまで生きて来たというのだろうか。彼女がここまで育つには並々ならぬ苦労があったであろう。

それに気がついたとき、私にはとてもこのか弱き生き物を喰っておうなどとは思えなかった。 


私は彼女に里に帰るように伝える。

ハーピーの少女は目をしばしばさせながらも、私の気がかわらぬうちにと、里のある方角へと飛び去っていった。

飛び去りながら、時折おそるおそるこちらを振り返っていたのが印象的であった。





次に目をさましたのはラミアという種族であった。大蛇の胴体に人間の肉体を持つラミアは、食いでがあり、中々の美味でもあるらしい。


目覚めたラミアは私の姿におののきながらも、お腹を両手で隠すように身を屈めると、低い声で威嚇し始めた。


その姿に違和感を感じる。
よくよく観察すれば、ラミアの腹は肥満ではない膨らみ方をしているように見える。


(これは、まさか…。)


いや、まさかではないな。ラミアの如き生物が竜の前でこうも気丈に振舞える理由はただ一つだ。



「ミーンミンミンミンミン(訳・勇敢にして優しき母よ。許してほしい、そなたが身ごもっているとは気がつかなかったのだ。安心しなさい。もはやそなた達に危害は加えるつもりはない。…さあ、行きなさい。そして、丈夫な子供を産みなさい)」



私の口から放たれた言葉がよほど意外だったのであろうか、ラミアはぽかんという素の表情を一寸見せた。そして一礼し、すぐにこの場を去って行った。



ラミアの凛とした背中を見送る。


子は腹の中だが、既にその背は母の物である。
竜の咆哮が腹の子供になにか悪い影響を与えていなければよいが…。


狩りの時、ラミアが身ごもっていることに気づけなかったのには理由がある。

ラミアの夫婦はメスが妊娠している間は夫はその傍をかたときも離れないという。
もし、私があのラミアを見つけたときに、夫である雄の姿を認めていたなら、彼女を餌として狩ろうなどとは思わなかっただろう。


しかし、私があのラミアを見つけたときには、近くに他の生物はいなかった。それはつまり…。


私には、あの母子が幸せに暮らせることを祈ることしかできなかった。







次に目をさましたのは、リザードマンと呼ばれる種族であった。

直立するトカゲといった風合いの亜人であり、これもまた、先代の竜の好物であったらしい。


ただ、リザードマンにしては一風変わった服をまとっていた。巫女服と呼ぶものだと、竜の知識が教えてくれた。こちらもメスであるようだ。


巫女服を纏ったリザードマンは、目を覚ますなり私の足元にひざまずいた。


(やれやれ、また命乞いか…。)


体を震わせながら大地にひれ伏す憐れな獲物を前にし、食欲の失せた「もう帰って良いぞ」と伝えようとした。

しかし、顔をあげてこちらを見つめてくるリザードマンの眼差しは、私の予想に反し、喜びと恍惚に満ちていた。

首をかしげる私に対し、彼女は朗々と語り始める。



曰く。 



彼女の一族は竜を信仰の対称にしていること。

竜に食された者は、死後に絶対なる幸福へと辿りつけると信じていること。

さらに彼女は、竜信仰の祭儀を執り行う巫女であるということ。

巫女として、今日この日が来ることを日々待ち望んでいたということ。


犬のように尻尾をブンブンと左右に振りながら、リザードマンの巫女は私にそう言ったのだ。


信仰とはかくも凄まじきものなのか! 彼女にとっては竜の餌になることは、恐怖などではなく、喜びだというのだ。




さて、わたしは確かに彼女を餌にするつもりで捕獲した。しかし、向こうから食べてくれと迫られると、逆に食べる気をなくしてしまうのが人情というものであろう。

何より、そのカマキリのメスのような表情で近づくのはやめてほしい。これではどちらが捕食する側か判ったものではない。

もう腹は減っていないから帰ってくれと諭すが、彼女は一向に引く気配を見せず、「せめて尻尾だけでも、それがだめなら先っぽだけでも」と詰め寄って来る。


ほとほと困り果てた私は、もう一度咆哮で気絶させ、ちょうどその時目をさましたガルーダに頼んで彼女をリザードマンの里まで連れて帰ってもらうことにした。


ついでにガルーダも逃すことになってしまったが、まあ、いたし方あるまい。
実は少しカラスに似ている為、ガルーダを食すのはあまり気乗りはしなかったのだから。





その後も、セイレーンに、アラクネ、ペガサスに巨大なカエルと、空腹であるにもかかわらず、これらを食べてみようという気にまったくなれなかった私は、結局捕まえた獲物の全てを逃がしてしまった。

逃した後で、もう一度何か別の生き物を狩りに行こうかともおもったが、別の生き物を捕まえて来たところで、どうせ同じことの繰り返しなのだと気がついて、やめた。



私の前世は蝉である。

脆弱で、常に命を狙われる生き物であった私は、命を奪うことの重みを幾分に知りすぎているのかもしれない。


今世の逞しい体を見下ろす。

例えば私がこれから1000年生きるとして、いったいどれだけの屍を積み上げていくというのだろうか。
わが今生の目的は、そうまでして達せられなければならぬことなのだろうか。


極限の空腹を抱えながら、私はふと、蝉であったあのころに毎日口にしていた樹液の味をおもいだした。



死に瀕した今、もはや自分を偽る必要などあるまい、正直に言おう。






私は樹液が好きだ。






木々の表装をながれる甘い液体は、真夏の強烈な渇きをいやし、生きる活力を与えてくれた。 

いや、夏だけではない。成虫に鳴る以前、まるで白いイモムシであった頃から、私は木の根っ子から樹液を啜って生きていたのだ。

大きな木からわずかに頂くお零れが、セミであった頃の私の喜びだった。


毎日樹液ばかり飲んで飽きないのかと思う者もいるかもしれないが、とんでもない。

樹液の味とは木の種類によってまったく異なるものなのだ。それどころか、同じ種類の木ですら、一つとして同じ味をもってはいない。



若い木の樹液は、その活力を現すように青く瑞々しく

壮年の木の樹液は、太陽の光をいっぱいに吸い込んだ力強い甘みをもち

年老いた木の樹液は、木の中で熟成されまるで極上のワインのような味となる。


樹液への我が愛と知識は、私に残された短い時間では決して語り尽くせぬであろう。


一生を樹液のみで生きるセミとは、樹液界のソムリエールなのだから。





樹液よ


樹液よ


ああ、樹液よ


今一度、私の渇きを癒してはくれぬだろうか。


もう二度と、私の腹を満たしてはくれぬのだろうか。


この竜の顎では、お前を舐めとるには大きすぎるのだ。


この竜の体では、木にしがみついても押し潰してしまうだけなのだ。




最後に歌う愛歌ラヴソングは、自分のための子守唄レクイエム




激しい空腹の中、しかし私は、このまま朽ちるのも悪くはないと思えてしまった。


何の因果か、一度は死んだ身が蘇ることができた。雲の上まで羽ばたくことができた。
一瞬ではあったが、竜の生もなかなかのものだった。 



だがもしも、もしももう一度生まれ変われることができるのならば…。



私はもう一度蝉になりたい。


小さな顎でも良いから、仲間たちと大きな声で歌いたい。

小さな羽でも良いから、木漏れ日を浴びながら飛んでいきたい。

小さな手足でも良いから、柔らかな木肌にしがみついて抱きしめたい。


そして何より、もう一度お腹いっぱい樹液を飲みたい。




目を閉じれば、光と力が遠ざかっていく。



最早立つこともままならなかった故に、私は背後の巨大な岩壁に身を預けた。

島の中央にあった天をも貫く巨大な岩山。これが私の墓標となるのだろう。

冷たいはずの岩肌は、何故かほのかに暖かく感じられた。





(こんなものでよければ…)




その時、岩山の中から声が響いた気がした。何物だと思う前に、甘い匂いが私の嗅覚を刺激した。

それは懐かしくもあり、記憶のどれとも比べられぬ極上の香りである。


不信と確信をもって私は振り向く。


なんと、私が身を預けていた巨大な岩山、その裂け目から琥珀色の液体があふれんばかりに流れだしているではないか! 



ああ、ああ! 


これは樹液だ! そうだ樹液だ!


何という奇跡であろうか、原始の神は水から大地を産んだというが、神は今、この哀れな竜の為に大地から樹液を生んだというのか! 


私は岩の裂け目にむしゃぶりつこうと岩山に顔を近づけて、そこでようやく、自らの過ちに気がついた。


私が岩山だと思っていたもの。
それは岩などではなかった。



木だ。



とてつもなく巨大な木だ。


継承された竜の知識がその木の名を教えてくれる。






大樹ユグドラシル





私が住む島の中央に位置する、天まで突き抜ける聖樹である。

世界樹だとか、生命の木とも呼ばれており、その葉は瀕死の生き物すら治療する強い癒しの力を持つという。


真なる竜の住む島は、世界樹のある島でもある。
この世界でただひとつの、尊き大樹、ユグドラシルが。


先代より受け継がれた記憶の中には、世界樹を欲し、島に侵攻してきた人間たちを何度か撃退した記憶もある。

もっとも、先代の竜にとっては、世界樹を守る為に人と戦ったのではなく、自分の縄張りに踏み入った者達を追い払っていただけにすぎない。

先代の竜と世界樹が関わりあうことはなかった。彼にとっては、大樹は大きな目印程度の認識であったようだ。

果実を付けぬ世界樹に、先代の竜は何の興味も持ってはいなかった。



先代の竜は知る由もなかったのだろう。実のならぬ木にも甘味は存在するということを。



甘い液体が私を誘う。

世界樹の樹液の味とはいかなものだろうか。私はそれをそっと爪で掬うと、ちろりと舐めとる。




「みっみみーーーーん!みみみみみっみーーーーん!(訳・ぶっひゃあああああ! うんめゃああああああい!)」




なんという高貴な甘み! なんという豊かな香り! そしてこの柔らかな喉越し!


これぞまさに天上の美味なり! かような食物がこの世界には存在しているというのか! 


この樹液と比べれば、モミの樹液ですら泥水に思えてきてしまう。


最高の樹液を前に、食への衝動はもう止めらない。わたしは木の割れ目に突き刺すように顔をうずめ、じゅるじゅると音を上げながら樹液を啜る。


喉を、胃を、細胞を、ユグドラシルの樹液が癒していく。

美味なる液体が、飢えと乾きを沈めながらも、さらなる欲を掻き立てる。



もっと、


もっとだ。


もっと湧き出せ、命の泉よ。



しかし竜の大きな顎は、樹液をすするにはやはり向いてはいない。

大きな鼻先が邪魔をして、奥の樹液まで届かない。


ああ、口惜しい。

こんなとき、蝉であったあのころならば、導管をふかく木の隙間に差込み、好きなだけ樹液を吸い上げることができたというのに…。竜の身というのは、かくも不便なものなのか。


詮方無きないものねだりに、チッと舌打ちをしようとして、ハッと私は気がついた。


そうだ! わたしにはこの長い舌があるではないか。セミの導管がなくとも、竜の舌で舐め取れば良いではないか。


わたしの舌は割れ目の奥へと進んでいく。そこに残る樹液のすべてを嘗め尽くす為に。


するとどうしたことか、舌を動かせば動かすほど、この蜜壷からは新たな樹液がいくらでも沸いてくるのだ。


内壁を強くこすればこするほど、早く動かせば動かすほど、濃厚な樹液が次々とあふれ出てくるのだ。


私はまるで、砂漠の駱駝が久方の水を呑むように、大樹の裂け目を舐り続ける。



(‥まっ…ねが、い、おちつい‥て…)



誰かが私の脳裏に誰かがよびかけたような気がした。先ほど私に呼びかけた者だろうか?


だがすまぬ。今は何物であろうが関係はない。

私の至上のひと時を邪魔できる者などこの世界には存在しない。



なぜなら私は竜なのだから!



(‥きづいて…だめっ、‥ふっ…あっ、それ以上は‥) 


私の舌は止まらない。

意外なことに、竜の舌とは中々器用なものらしい。
思うがままに、いや、思う以上に、自由に巧みに動いてくれる。


(…そこはっ、いやっ…はぁっ…あぁっ…、ああ…っ)


相変わらず私の脳裏に正体不明の声が聞こえてくるが、不思議な声の事よりも、どう舐めればもっと効率よく樹液を摂取することができるか、それだけで今は頭がいっぱいである。



(‥はっ、っは、はっ‥ぁあ…ぁあっ、‥ぁあああぁっっ!)



最後に、何者かの叫び声とともに、私の口に洪水のような樹液が流れ込んできた。

全ての樹液を飲み干し、私の腹が満ちたりたと同時に、まるで母親の乳房が稚児の授乳を終えたのを察したかのように、ピタリと樹液がとまったのだ。



そして今、私は前世を通じて、嘗て味わったことのない高揚感と幸福に満たされていた。


力が体から湧き上がってくる。死の足音など、もはや遥か彼方に遠ざかっていた。


ユグドラシルの慈悲により、私は命を繋いだのだ。




大樹を見上げる。


天に向かってそびえ立つ太い幹は雲の向こうまで伸びていて、地上からではどれほどの高さであるかすらわからない。


この竜の身が、まるで小さな蝉に戻った様に錯覚するほど、偉大な生命がそこにあった。


なるほど、この世界でもっとも偉大な生き物は、竜などではなく、この大樹だと言うことか。


私は左手を胸にあて、右手を大樹に伸ばして心からの感謝を伝えた。


「…はぁっ…はぁあ‥、ようやく…、おちついてくれましたね。優しき竜よ」


その時、大樹に当てた右手を通じて、誰かの言葉が私の脳へと流れ込んできた。
先程からずっと聞こえていた声。しかし、この場には私と大樹以外の何者も見つからない。


これはまさか、ユグドラシルの声だとでもいうのだろうか? 

大樹ユグドラシルとはいえ、植物である木に意思があったというのだろうか?



「ふふふっ、わたしはずっと呼びかけていたのですよ。もっとも、まるで生まれたての子ヤギが母親の乳にすがりつくように、必死で樹液を飲んでいたあなたの耳には届かなかったようですが」


赤子のようだと言われ、恥ずかしいとは思えど、嫌な気持ちは起きなかった。

原始の木たるユグドラシルから見れば、例え何万年もの記憶を受け継ぐ竜といえども、赤ん坊に過ぎないのだろう。


私は自らの非礼を心から詫びた。

意思ある木、そして生物の母たる木から、わたしは恥知らずな野良犬のように樹液を啜りつづけていたのだから。

しかし大樹は、やはり母のような慈愛で私の謝罪を受け止めると、こう言った。


「優しき竜の子よ、あなたの行いはずっと見ていましたよ。早く獣の血に慣れる事ができると良いですね」


ああ、ユグドラシルには、わたしが獣を食せぬところもすべて見られていたようだ。

獣を前に尻込みしていた私を、ユグドラシルは笑うことはなく、優しいと称した。それどころか、


「短い間でしょうが、私の樹液で良ければいくらでもお腹を満たして下さい」


慈愛深い事に、わたしが血をすすり、肉を糧とできるようになるその日まで、彼女は樹液を与えてくれるという。

これではまるで、乳離れできぬ赤ん坊そのものではないか。


私はいたたまれぬほどの恥ずかしさと、これからもこの大樹の樹液を得ることのできる幸福で、どんな顔をしたらいいのかわからなくなってしまった。


大樹はそんなわたしに、「恥ずかしがることはないのですよ」と、前置きしながら、




「‥でも、その…、次からはもう少し優しく吸うようにしてくださいね‥」




と、付け加えた。



これが私と、ユグドラシルの最初の出会いとなった。


私の竜としての生でもっとも深くかかわることになる大樹ユグドラシル。

この日、私は彼女のもつ樹液以上に、その大いなる慈悲に心をうたれたのだった。




わたしはふと、あのリザードマンの巫女のことを思い出す。


なるほど、彼女が私に身を差し出せるように、私もユグドラシルのためなら喜んでこの身をさしだせるのであろうな。




慈悲深き大樹に最上級の賛辞を込めて歌おう。



彼女を讃え、彼女だけに聞かせる歌を。








ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン







+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ