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第6章 竜と少女の夏休み その1





この瞳を、どうして濁してよいものか (壺井栄)










幼さは可能性と共に在る。

 


純粋、無垢、無邪気。

 


幼き者を表す形容詞には様々なものがあるが、そのどれもが、憧れと、郷愁と、ほんの僅かな嫉妬を含んでいる気がする。

 


幼きものを映す我らの瞳は、いつか置き去りにした自分の姿を映しているのやもしれぬ。


可能性に溢れていた自分の姿を。遥か遠き昔の自分を。


望んでも、もう二度と帰れないあの頃を。



なればこそ、幼き者を愛せよ。



大人の都合やくだらぬ事情で、その未来を汚してはならぬ。勝手に灰色に染めてはならぬ。

 


幼きもの達がぐんぐんと、まっすぐに伸びていくその様を、我らは柔らかな太陽となり、優しい雨となり、見守って行くのだ。


そうすれば、我らはもっと自分の事を愛せるようになるだろうから。



幼きものは愛らしい。



心の臓をとくんと揺らす温かき感情は、春を迎える喜びにも似ている。


春を愛することが出来る心は、春が未だ、我らが心の内に残っている事の証明ではなかろうか。



ああ、春よ。大きく育て、大きく繁れ。いつか来る夏の為に、未来の為に。

 


そして、夏を終え、秋を越え、あるいは冬を迎えた我らの心にも、きっと春は宿っているのだ。

 


幼き者の存在は、我らにそれを教えてくれる。

例え何歳になろうとも、春はほら、ここにある。


 


私は、こちらに背を向けたままの幼きものにそろりと近づいていく。

よほど腹が減っているのだろう、幼きものは私のことなど気にもとめず、一心不乱に食事を摂っている。

 


愛らしき幼き者をそっと撫でてみる。


真っ白い肌はぷっくりと膨れ、僅かに湿ったような、柔らかな感触である。


私の手のひらほどの大きさしか無いかの者の素肌を、壊さぬように、傷つけぬように、二度、三度、うなじから背中にかけての稜線をなぞってみた。




「モキュッ?」



 

うむ。やはり愛らしいものだな。幼虫というものは。



これ以上、オオイセカイカナブンの幼体の食事の邪魔をせぬよう、私は静かにその場を立ち去った。












「お帰りなさい、同居人さん。…いかがでしたか?」

 


巣へと帰った私をユグドラシルが迎えてくれた。



しかし、いつもと違って幾分声が堅い。

本来の彼女の声は、芽吹いたばかりの若葉のように優しく柔らかであるはずなのに、今日に限っては、まるで硬い繊維が口に残ってしまうように、緊張に強張ってしまっていた。



「心配には及ばぬよ。やはりあの船には他に誰もいなかったようだ。良くないものも何一つなかったよ」



「よかった…。私本当に、心配してしまったのです」



ユグドラシルの声がいつもの彼女の物へと戻る。

心優しき彼女のことだ。島の生き物達のことを酷く心配していたに違いない。



「うむ、安心してくれ。戦いに巻き込まれたり、怪我をした者なども誰もいなかったよ」



「同居人さんが大怪我をしたではありませんか! ‥本当にもう、お体は宜しいのですか?」



「ああ。何度も言っているように、貴方の樹液のお陰なのだよ。ユグドラシル」

 



少女との戦いの後、巣へと帰った私を待っていたのは、普段は落ち着いた彼女からは想像もつかないほどに、取り乱してしまっていたユグドラシルであった。


私が古代兵器に胸を貫かれる所を見ていたユグドラシルは、心配のし過ぎでこのまま枯れてしまうのではないかと錯覚してしまうほどに、私の身を何度も何度も、繰り返し案じ続けた。

優しき彼女にこれほどの悲しみと憂いを与えてしまった自分を、私は恥じた。



「あの少女の様子はどうだ?」



「まだ眠っています。時折苦しそうな声をあげますが、生命の炎は少しづつ強くなって来ています。……古き神々というのは‥、本当に、残酷なことを…」

 


件の少女は今、ユグドラシルのうろの中で眠っている。

 


大丈夫だと何度繰り返しても、私の身を痛ましいほどに案じていたユグドラシルは、いつものように力強い歌声を聞かせることで、ようやく私の無事を信じてくれた。

 

しかしユグドラシルはそれで落ち着くことはなく、今度は私が抱えてきた少女に対し、葉を震わせながら、怒りの感情を見せた。



初めて見せたユグドラシルの激情に私は大いに戸惑ったが、古代兵器の事と、彼女にはなんの罪もないことを語ると、ユグドラシルは少女への怒りを、同じ大きさの慈愛へと変えた。

 


少女を世界樹の虚の中に横たえた後、私も休んだほうが良いというユグドラシルの申し出を、先にやるべきことがあるからと固辞した。

 


やるべき事とは、少女が現れた船とその周辺の探索である。

あの少女以外に何者かが上陸していないとも限らない。あの船が、毒や呪いを撒き散らしていないとも限らない。



もはや不死身に近い私にとっては何の障害にも成りはしないが、この島の他の生き物達にとってはそうはいかない。



少女をユグドラシルに預けた後、私は日が暮れるまで島を探索し続けた。

 


少女以外に誰かが訪れたような痕跡もなく、あの船の中にも少女が入っていた棺桶のような箱以外には何もなかった。




呪いも毒も、錨も櫂も、食料どころか水すらもなかった。

 

 


空っぽの何もない船、それに乗ってやって来たのは心と未来を奪われた少女。



竜の生贄に擬態していた少女は、本当は人の生贄であったのかもしれぬ。



人という生き物は、時にはどんな生き物よりも残酷になれるものなのだから。



「で…、では同居人さん。お、お仕事も終わりましたし…、その…、そろそろお食事になさいませんか?」



ユグドラシルの声が、私の思考を遮った。

ユグドラシルの控えめな提案。彼女の樹皮の割れ目からは既に樹液がじっとりと染みだしていた。



「喜んで馳走になろう、ユグドラシルよ。‥しかしその前に、あの少女にも食事を与えてやらねばな」



私は島の探索中に見つけた、枯れたオオウツボカズラの葉を取り出した。


オオウツボカズラの葉はトックリのような形をしている。コップや水筒代わりにこの島の亜人達に重宝されている植物である。



―ジョボボボボ―



それに向けエリクシールを生成する。オオウツボカズラは大きい。私のエリクシールを余すところなくしっかりと受け止めてくれた。



「………ええっと、…それがエリクシールですか? 同居人さん?」



「うむ、これがエリクシールだよ。ユグドラシル」




虚の中に入ると。瞼を閉じたままの少女が、重く、苦しそうな声をあげていた。



「憐れな…」



私は魘されている少女の頭を小指のつめ先でそっと持ち上げると、その口元へとエリクシールを運んだ。



「ミーンミンミンミン(訳・さあ、飲みなさい)」



気を失ったままの少女の喉に、精製したばかりののエリクシールを流し込むが、少女はコフッ、コフッと咽て、口に入った液体を吐き出してしまった。

 


眉根には皺が集まり、愛らしい顔がクルミのように歪んでしまっている。



「ミーンミンミンミン(訳・安心しなさい。何も心配することはない。さあ、口を開けなさい、そしてしっかりと飲みなさい)」

 


少女の呼吸に合わせ、私はゆっくりとエリクシールを流し込んでいく。


少女は飲む度に咳き込んで、半分ほどがこぼれ落ちてしまった。

 


しかし、オオウツボカズラの葉は大きい。十分な量のエリクシールを、彼女の喉へと流しこむ事ができた。



エリクシールが正しく作用しているのだろう、少女の肌にみるみると赤みがさし、内から生命の輝きが湧き上がっていくのが私にもわかった。


未だ魘されてはいたが、呼吸が徐々に穏やかな物へと変わっていく。

 


少女が良き夢を見れるようにと、心から願い、立ち去った。




その日の夜はうろの寝床が少女の物となった故、私は外でユグドラシルの幹に身を預けて眠ることにした。



「星がよく見えるな、ユグドラシル」



「ええ、今日は空気がとても澄んでいますもの。いつもは見えない小さな星まで、あんなに輝いて‥」



私達の見上げる空には、一面の星の海が広がっている。


月のない夜に、星たちは誰にも遠慮をする必要がないと、思う存分その存在を主張している。

 


私とユグドラシルは特に言葉を交わすこと無く、ただただ星を見あげていた。

 


名も無き星がつっと流れ落ちた。




「星座という物を知っているか? ユグドラシルよ。」




私はふと思いたち、ユグドラシルに尋ねてみる。



「星座ですか? 私はそういうことは、あまり…。同居人さんはご存知なのですか?」



「ああ、受け継いだ知識の中にな。面白いものだぞ。星が集まって形を作り、それぞれに物語があるのだよ。」



「私には母も父も、先生もいませんでしたから。…その、もしもよろしければ、私にも星座を教えて下さいませんか?」



ユグドラシルは、控えめに私にそう頼んだ。私の返事など決まっている。



「もちろんだとも、ユグドラシル」



私は星座を一つ一つ指さしながら、それに纏わる物語をユグドラシルに語っていった。



白鳥の翼のような形で空に大きく広がる星の線と、浮気症な神の物語。

英雄を毒で屠り、天へと登ってしまった孤独で小さな蠍の話。その蠍の心臓を、弓を大きく構えて狙いをつける賢き人馬の事など。



私の語った星座の名を、ユグドラシルは「決して忘れたくないのです」と何度も反芻しながら、それらが持つ物語にひとつひとつ、驚きや共感を示していった。



私が持つ星座の知識は、竜がまだ人と仲が良かった頃、あのエリクシールの精製法を見つけた青年から聞かされたものだった。

無数の星に名前をつけ、物語まで与えてしまうなど、人という種族の夢想の力は計り知れない。

 



空の姿は数千年前と何一つ変わらない。


星々の寿命の中では、数千年という時間も、僅かな瞬き程度の時間なのかもしれない。




…いや、一つだけ私の記憶と違う物が空にあった。




「…ふむ、あれは何だ?」



「あれ、とは?」



「空に私が知らぬ星があったのだよ。夏の大三角形のちょうど真ん中に、小さな赤い星が見えるだろう。あれは何かと思ってな。知っているか? ユグドラシルよ」



星の名を知らぬと言っていた彼女に、私は何を尋ねているのだろうか。

 


ユグドラシルは何も答えなかった。







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