第一章 蝉は竜の翼で飛び立つ
この作品は2014年の1月に投稿し、完結した作品ではありますが、新人賞応募の為、規約上一時掲載を取り下げておりました。
お待たせして申し訳ありませんでした。結果が判明しましたので、再度掲載いたします。
なお、再掲載に当たりまして、文章に大幅な改訂を加えていますが、話の内容自体は変化はありません。
生き生き生き生きて生の始めに暗く
死に死に死に死にて死の終わりに冥し (空海)
生の輝きは流星のきらめきよりも短く、命の炎は手の平の淡雪ごとく儚い。
死の安寧は感触も匂いも温度もない、重力も地平線もない只の黒であった。
人は死を闇、生を光と捉えるというが、ならば私の生とは生きながらにして死んだも同然だったのではなかろうか。
なぜなら私は、それほど短くはない一生のほぼ全てを、暗闇の中で過ごしていたのだから。
卵に生まれ、実に7度目の夏を迎えるあの日まで、私はただ、ひたすら土の中で蟻やモグラにおびえながら暮らしていた。
暗闇のなかで生きた7年は、私には永遠の闇にしか思えなかった。
決して終ることがないと思われた永久の闇。しかしだからこそ私は、あの暗い一生の最後に出会った一瞬の光に喜び奮えたのだ。
朝靄の中、ようやく殻から抜け出したあの日、私は生というものの意味を初めて知った。
光だ。
生まれたばかりの太陽は、徐々にその本性を表しはじめる。
柔らかな桃色であった光の波が、みるみるとその角度と色を変えていくのだ。
光線が真上に登るころには、目も眩む程の白となって、羽化したての私の柔らかい外殻をジリジリと焼きつけていく。
力強い風が頼りない薄羽を千切るように吹き抜ければ、草いきれの強烈な匂いがおぼろげな嗅覚を奪い取る。
ああ、生とはかくも苛烈なものか。
凶暴な太陽に、瞼もない私の小さな目がくらくらと揺れた。
確かに光は生であった。過酷で輝く生であった。
そして気がつけば、私は空に羽ばたいていた。
誰に習ったわけではない。ただ、本能が飛び方を知っていたのだ。
空を飛ぶということがいかに素晴らしいことか、それはきっと飛んだものにしかわからない。
遥か高い空を飛ぶ渡り鳥たちにくらべれば、せいぜい地べたを這いずる程度の羽ばたきでしかなかっただろうが、小さな私にはそれで十分だった。
真夏の気層の光の澱を、夢中になって駆け巡っていたあの時、確かに私は生きていたのだから。
にわか雨を木陰でやり過ごし、
腹をすかせたカラスの嘴から逃げおおい、
わたしを捕まえんとする子供たちの虫網をかいくぐり、
飛んで、飛んで、飛んで、飛んで…
気がつけば、私は地に横たわっていた。
働き者の黒い死神達が群れとなってこちらへ向かってくるのを認めた時に、脳未満の神経繊維の束ですら、これが私の死なのだと理解した。
暗くなっていく視界の中で、私はぼんやりとこの生を振り返る。
僅かな間ではあったが、空とともにあった。風とともに泳いだ。木漏れ日ともに戯れた。
たとえこの広い世界のほんの一欠けらであろうとも、旅をすることができた。
土の中で、あるいは脱皮の最中に命を落とした仲間達から見れば、私はなんと幸運な一生を終えたのであろうか。
三週間の輝きは、7年の暗闇を塗りつぶしてしまう程に眩しい光に違いなかったのだから。
こうしてわたしは、おおむね満足して、蝉としての生を終えるのである。
……おおむね?
そうだ。私の生にはただ一つだけやり残したことがあった。
目から最後の光が消えてしまうその瞬間、私は気管から漏れ出す最後の息とともに、たった一つのことを思う。
一度でいいから、メスゼミと交尾をしたかった
交尾を知らぬまま、愛を知らぬまま生を終えるのだと思った時、種としての本能、性への欲求がむくりと起き上がって、私を唆した。
死を前にして、針のように小さな生殖器がズクリと疼いた。
最後の瞬間にチロリと燃えた欲望は、死という完全なる冥闇の中でも、微かに燻り続けてしまったのだ。
今思えばその欲求と未練こそが、私を次なる生へと繋いだのかもしれなかった。
死後の世界。
周りに広がるのは完全なる黒。ツヤもなければムラもない黒の中、しかし、私の最後の一欠片だけは、塗りつぶされることはなかった。
一瞬であったのか、あるいは永遠であったのか。果てしない黒に一筋の白い亀裂が走った時、私の2度目の生は始まったのだ。
光だ。
そう、光だ。
光を生み出すものは紛れもなく太陽。
もう2度と拝むことのないと思っていた太陽と、再び顔を合わせた時、私の中に膨大な知識が津波のように流れ込んできた。
継承の儀とよばれるそれによって、わたしは1週間もの間意識を失っていた。
1週間たち、ようやく全ての知識が脳に定着したときに、私は悟った。
この世のあり方を、私という存在のあり方を、可逆的に、普遍的に、全てを理解していた。
自分の前の生が蝉とよばれる小さな生き物であったこと。
この世界は私が前にいた世界とはまったく別の世界であること。
この世界には人間を始めとしたさまざまな種族が存在すること。
この世界には生物達の頂点に君臨する竜とよばれる生き物が存在すること。
この島では、世界で最後の真なる竜が、遥か古代の時代から代々生き続けてきたこと。
最後の竜は死を前に自身の全ての力と知識を残した、一つの卵を生んだこと。
そして、その卵から孵ったのが……、私であること
内から溢れてくるのは、賢者の知恵と無限の力。
外へと広がるのは、新たなる光と真っ青な空
そして気が付けば、私は空に羽ばたいていた。
蝉であったころから考えると、比べ物にならぬほどに大きな体は、同じく比べ物にならないほどに広い翼を以って太陽へと羽ばたいたのだ。
ぐんぐんと遠ざかる大地と、ゆるやかに近づく空。
蝉の小羽では決して届くことのなかった雲の塊を通り抜けたとき、私は腹の底から笑ってしまった。
前世から通じて、生まれて始めて笑ったのだ。
蝉の仮初の脳みそでは笑うことすら許されなかったのだから。
見よ! この生まれ変わった肉体を。
針金のように細かった手足は、巨大な岩山すら持ち上げられるほどに太く逞しいものに変わった。
風に吹き飛ばされていた私の薄羽は、羽ばたけば嵐すら巻き起こすことができる。
脆く剥き出しであった外殻は、今ではどんな鉱物よりも強固な鱗によって覆われている。
樹液をすすることしか能のなかったあごは、アイアンタートルの甲羅すら噛み砕くだろう。
蝉という卑小な生き物が、生物の長たる竜となる。運命とはかくも奇妙なものか。
蝉が、ましてや異世界の生き物が、なぜこの地で竜の体に宿ったのかは受け継いだ知識を総動員してもわからないし、その理由を知る必要もない。
竜になった以上、そんなことはもはやどうでもいいことなのだから。
たしかに私は、今も蝉としての記憶を持っている。しかしそんなちっぽけな記憶など、すぐにこの脳裏から消えていくであろう。
私は竜なのだ。
セミの一生などとは比べるのもバカらしいほどに、遥かな長き生が我を待っているのだ。
虫網にも、カラスの嘴にもおびえる必要はない、力強き生が我を待っているのだ。
知識が語りかけてくる。
私は世界最強の生き物なのだと、我が咆哮だけで地上の全ての生き物を震え上がらせてしまえるのだと。
この新たなる世界で、何者にも怯えること無く、遠慮することもなく、新たなる生を謳歌してしまえばよいのだと。
そう! 私は今この空の……いや、世界の王となったのだ!
さあ、声高く歌おうではないか、竜としての新たな生の始まりを!
ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン
世界に響け、わが喜びと求愛の歌よ。