―貴方を『恐い』と感じた事は一度たりともなかった
小鳥達が青い空を飛び去って行く。小さくなっていくその姿を見送り、清歌はいつの間にか過ぎ去っていた月日に想いを馳せた。
彼女がこの山に登ってから、もう半年が過ぎようとしている。初めは生け贄として、命を捧げる為に来たはずだった。それなのに…
彼女の村は日照り続きで農作物は枯れ、多くの村人が飢えに喘いでいた。中にはそのまま死んでしまう者、栄養失調で働けなくなる者もいた。
そんな村の危機を救うべく、村の巫女であった清歌が立ち上がったのだった。
村の西に聳える山に住むという、水を司る水鳴という名の天狐の神。その神に雨乞いする為、清歌は自らの命を捧げるつもりでやってきた。
しかし、神は清歌の命はとろうとはせず、変わりに清歌が側にいる事を条件に雨を降らせたのだった。
そして今、清歌は人型をとっている天狐神・水鳴と暮らしている。
「清歌!」
切羽詰まった声音に驚いて振り返ると、血相を変えた水鳴が走って来る所だった。その頭には可愛らしい耳と背に揺れる尾が垣間見える。どうやら、本当に慌ているようだ。
「どうなさいました?」
「すまない、巻き込むつもりでは…」
言いながら人間の男の姿をとった水鳴は、清歌に薄い衣を被せる。
羽の様に軽く、しかし丈夫なそれが彼の大切な者の毛皮から出来ている事を清歌は知っていた。
「いけません。これは…」
「着ていて良い。といっても気休め程度だろうが…」
そう呟く彼に唯ならぬものを感じ、清歌は押し黙る。一体何が起きたのか。
しかし、その答えはすぐに分かった。
『水鳴よ…何処だ…』
「これに」
水鳴は手で清歌に隠れる様指示しつつ高らかに答えた。その声から分かったのか、音もなく大きな影が現れる。
それは大きな八頭の大蛇。古より忌まし荒ぶる八股の大蛇だった。
『水鳴よ…主をたぶらかしたはその娘か』
八頭の神は、計十六もある赤い眼を清歌に向ける。そのあまりに大きな威圧感に、清歌は身をすくませた。
「違います。私はたぶらかされてなど…」
『では何故、人の為に動いた』
水鳴の言葉を制し、大蛇神は厳かな声を上げた。その有無を言わさぬ声音に、水鳴の体がビクリと震えた。
いくら水鳴が天狐神とはいえ、古よりの神とは比べものにならないのだ。
「それは…」
『主は先日、我に申したな…村の為に雨を降らせたいと』
大蛇神の言葉にその場から立ち去る事も出来ずにいた清歌は、はっと水鳴を見た。水鳴はその視線を感じつつ、大蛇神を見据えている。
『以前の主なれば、この村全体を潤す雨を降らせるなど容易かった。だが、今の主は力が落ち、それほど迄の力はない』
清歌は、水鳴が拳を握っているのに気が付いた。村の願いを叶える為、力の落ちた彼はこの一体を治める大蛇神にまで頼ってくれたのだ。その心がとても嬉しかった。だが。
『主の力が落ちたのは、その人間の娘の為か?』
「…っ!」
水鳴の顔色が変わる。大蛇神はその一瞬を見逃さなかった。
『やはりそうか…』
神は嘘を吐けない。それは神々の間でさだめられた、揺るぎない理だった。
大蛇神はゆっくりと清歌に向き直る。
『娘、悪く思うな』
「何を…!?」
立ち竦む清歌に大蛇神は静かにその尾を振りかざす。清歌の耳から一瞬全ての音が消え失せた。
―これでいい…
自分という存在が彼の枷となるら、消えた方が良いのだ。
いつも周りを気にかけて、自分をいとわない優しい神。そんな貴方を出逢ってからこの半年貴方を『恐い』と思った事は一度もない。
そんな優しい貴方にしてあげられる事は…
「清歌!」
水鳴の叫び声がした。清歌は目を閉じ、最期の瞬間を待っていた。ところがいつまで経ってもやって来ない最期に、清歌は目を開けた。
「水鳴様!?」
清歌の目に映った光景。そこには清歌を抱き締め、微笑む水鳴の姿があった。
「…な、ぜ…」
微笑む水鳴の背中には、降り下ろされた大蛇神の尾が突き刺さっている。それを見て、清歌は水鳴が自分を庇った事を悟る。
「き、みを…失いたく、なかった」
「水鳴様…」
清歌は崩折れる水鳴を支えていた。だが彼女一人の力では支えきれず、二人はその場に座り込む形となる。
「な、くな…」
手を伸ばした水鳴が清歌の濡れた頬に触れる。その冷たさを増していく手に己のそれをかさね、清歌は懸命に微笑んだ。
「きみ、は…笑って、いて…そして……」
水鳴はその瞳から光を失う寸前、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
―生きろ、と
清歌の耳には確かに、水鳴がそう言った様な気がした。
『水鳴よ…主は何処までも愚かだ。本性にも戻らず我に歯向かうとは。…娘よ。水鳴に免じ、主は殺さぬ』
いささかやりきれない風を漂わせつつ、大蛇神は滑る様にその場を後にする。
一人残された清歌は、事切れた水鳴を抱き締めたまま、唯静かに泣いていた。
それから幾年か後。
人知れぬ山の奥深く、元気に走り回る子供の姿があった。
「かあさま。あれが、ちちさまのお墓?」
「ええ。そうよ」
頷く母の言葉に、子供は無邪気に喜んだ。
「やっと、ちちさまに会えた!」
父の墓前に座り、子供は小さな手を合わせた。生まれる前に死んでしまったまだ見ぬ父に、子供は懸命に話しかける。
その姿を微笑ましく見守りながら、母は神々の本来在るべき場所から見守っているであろう一匹の狐を想う。
貴方の助けてくれたこの命。絶対に守り抜く。
優しい貴方と良く似たこの子を『恐い』と思わず接してくれる人が現れるまで。きっと守り通すから…
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