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お道化た叫び歌
作:早



 人間は何千億も何兆もたくさんこの地球で生きてきたし死んだけれど、その心を「一つ」としてみる視点を設けてみても構わないだろう。つまり人類が一つの生き物であり、どの細胞が死滅しても新しい細胞が生まれて生を続けていくように、人が死んで生まれても、そんなことにお構いなく、人類は一つの命を続けていく。そう考えたら、一人の人間の生とは海の表面に出来た小さな泡のようなものかもしれない。しかし、一つの泡がはじけるその瞬間、水表面の張力の均衡が破れ、力学的エネルギーが周囲に伝わり、水分子は動く。あらゆる水分子はとなりの水分子の様態と微量であるが必ず干渉している。水分子の運動は、隣へ隣へ威力を小さくしながら、数センチくらいで影響力は1%以下になるだろうけれど、しかし時間的にも空間的にも永遠に幽かでありながらでも伝わっていくことには変わりない。だから、一つの泡がはじけたという小さな事件は、ほんの微量であるが、海全てに未来永劫に影響し続けている。パスカルはクレオパトラの鼻が低かったら世界は全然違うものになっていただろう、と言ったけれど、クレオパトラとかヒトラーとか重大な人物でなくとも、ある大昔の一庶民の一行動が少し違っただけでも、心臓とか脳とかに関係しないある一つの平凡な細胞が癌を発生させてしまったらそれによって数年後その生命体の幾兆もの全細胞は死滅してしまうのと同じように、現在の世界はまったく違ったものになっていた可能性も否定できない。
 そういう想像に可能性の翼をつけて極限まで飛躍させたような空想はともかくとしても、人間の心を一つとみる視点を設けるのは何も空想ではないだろう。
 もちろん、意識が繋がっているとは簡単に言えない。でも個人的には霊的な体験などを通して経験される意識の最深点では全ての生命が根源的一者として共通の意識を持っていると考えている。私は頭に浮かんだことがその直後パッと開いた本のページに書かれているという数秒後の予知を毎年一年に数十回もするのでとても単なる偶然だとは考えられないし、17や18や19のとき、といってもまだ1年くらいしか経っていないのだけど、恐怖感や恍惚感や情動の発作を何回か起こしたのだけど、そのとき自分のものとは思えない恐ろしいものをたくさん感じたし、母親はセーヌ川にいながら、普段は健康な祖母の、日本での突然の危篤状態をイメージで察知したという経験もある。根源的一者は個体や時間や空間を超えて、一つの命、一つの意識を持っているのである!超常現象とは、個人の意識が根源的一者の意識へとつながることによっておこるのではないのだろうか。そもそも個体と個体の区別なんて幻想にすぎないのではないか、脳の神経だけではなくあらゆる物質が記憶に関係しているのではないか、そうでないとデジャヴや予知や透視その他超常現象、臓器移植に記憶が伴う現象などが、説明できない。普段は個体と個体を区別し、意識もその区別にしたがっていると見るような「日常的な幻想」からみれば、超常的だと思えるようなことが起こるだけであって、もともとは日常性こそが幻想に基づいていて、超常性こそが宇宙の生の姿を教えてくれるものなのではないだろうか。そして超常現象を迷信だとして退けようとする学者こそ、分からないものはありえないとして不当にも目を背けようとするような、まったく不誠実な態度、全くの迷信に基づいてこの世界をみているのではないだろうか。でもこのことはまだまだ疑いの余地があり、可能性や蓋然性の範囲は脱しえず、私はこのことをしっかり説明しうるような精密な概念や思考法を全く持っていないので、ここではそれを、つまり一つの共通な心の場があるという考えを、前提として考えることはしないでおきます。ベルクソンやユングの卓越した知性と恐るべき博学が宿った脳髄が綴るような難解な言葉を以ってしてではないと、こういうことは精密には言語化できないのだと思います。とにかくここでは、意識は個々人で完全に切れているということを前提にして、純粋記憶(ベルクソン)集合的無意識(ユング)などの一者性を表す学術的な専門用語を使わず、できるだけ普通の言葉と、たまに比喩の力(オーディンは幻覚の嵐を吹き荒れさせる戦慄の魔術師である!)を借りて、この文章を書きます。
 たとえ意識が一つに繋がっていなくても、人類の幾兆もの心を、一つの心として見ることは決して可能ではないと思う。
 例えば私がこれをネットに書き込んでだけでも、それを見た人は幽かに影響を受けるだろう、そしてその幽かに影響された人が、家族に何か話したとしたら、その家族も幽かに影響を受けるだろう。文章が上手くても下手でも、影響を受けるという事実は真であり、程度の問題である。ある言語表現の天才が表れたとすると、硫酸イオンの入ったフラスコの水300mlに銅イオンの入った一滴の水を加えただけで300mlは突然青く変色するように、もしかしたら一つの文章で全世界に大きな影響を与えるかもしれない。しかし、300mlの水に1滴の水を加えるだけでも、目に見えるようには変化しなくとも、全ての水分子の配置が変わることも確かである。とにかく、全ての人が全体と干渉している。まったく家に引きこもって、誰にも電話もメールもせず、インターネットもしない人がいたとしても、"もしその人が外へ出たのなら"「別の結果になっていた」ということを考えると、その人の存在は人類全体に影響しているといえる。とにかく全ての事象、全ての人間が、通時的にも同時代的にも、運命という一つの鎖につながれ、あるいは宇宙という一つのフラスコに注がれ、常に止むことなく、現実の空間、テレビの画面、本のページ、インターネット、画集、音楽プレイヤ、携帯など、あらゆるものを介して、物理的かつ心理的に干渉しあっている。 この文章では、心理的なものを、人類が一つの命を持っているかのような視点で扱いながら、書いていきます。



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悪戯者のロキは、オーディンの真似をしてみんなの前で怒り狂ってみたくなったのさ。
ロキはオーディンに変身した!


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 情報化の進んだ現代では、特に同時代の人同士の意識が言葉などによって頻繁に干渉しあう。情報化が進めば進むほど、時代を超えてでの通時的な人の心の干渉ではなく、同時代での共時的な干渉の度合いが大きくなるだろう。
 一方、通時的な干渉の方は、主に著名な著作や芸術などによって行われる。古典に馴染むことで、昔の人の思考や感覚を知ることが出来る。では文字がなかったころの古代の人とは、今の人間の心は干渉しないのだろうか。そんなことはない。まず口頭で神話や伝説が伝承され、それは永劫に後の人々に影響しているだろう。それともう一つ忘れてはならないのが、遺伝だと思う。本能は遺伝的に決定されている。たとえば死に対する恐怖は、程度の差こそあるだろけど、全ての生命で共通である。死の恐怖だけでなく、遺伝形質が同じであるあるいは似ている限りは、同じようなことを考えたり感じたりする。この遺伝による時代を超えての思考やイメージや感情の類似性(イメージや観念が記憶としてそのまま受け継がれるといいたいのではなくて、神経の遺伝形質が時代を通して似ているから、考えること感じることも似ている、というようなことです)こそは、どんな口頭の伝説よりもどんな記された古典よりも、通時的に見るとはるかに莫大な年月、時間を越えておそらく数万年くらいを貫いている血管であると思う。
 しかし、情報化が進めば進むほど、遺伝や神話や古典を通しての通時的な心の類似性や干渉よりも、同時代の人々同士での共時的な干渉の方がはるかに大きな影響力をもってしまう。これが情報や言語の過剰がもたらす弊害であり、このようにして現代人の思考や感性は全く現代的となる一方であって、昔の偉大な精神的遺産に対しての感覚が恐ろしく鈍磨してしまい、現代だけで自己完結的な意識をもってしまうことになる。それが遺伝や神話に刻まれている人間の「自然な心の状態」から、現代の意識を遠ざけてしまっているように思われる。つまり人間を全体としてみたときその心は不自然になってしまうのである!しかし、一般に人は、誰も全体的にはみようとはせず、個別的に現在的に見ようとするので、不自然であるということを察知しない。そういう時代で自己完結した意識によって不当にも過去の神話が評価され、迷信だと見做され、神話は忘れらていき、心のレベルにおいての自然破壊はとどまることを知らない。愚鈍な神経は簡単に目に見えるものに対してしか評価できないので、自然破壊を防ぐために色々と物理的な対策を考えるが、そもそも心が不自然になっていく一方なのだから自然破壊を防げるはずがない。不自然な心に依る「価値」こそが、この物理的自然を破壊するような行為をせしめるのである。自然の偉大さへの畏怖、自然の美しさに対する賛美なくして物理的な対策を考えたところで、その対策などは不自然な心が行う産業的な生産と消費のプロセスに対しては比すべくも無い。
 哲学者ですら、ニーチェの詩的な言葉やハイデガーの難解な言葉に対しては、芸術的な感覚や哲学的な直観が鈍っているため、まったく抽象的概念的にしか接せず(真の哲学者にとって、抽象的な哲学的観念とは精密に自分の直観を表現するための道具や手段にすぎず、哲学の目的とは直観を深く極めることであり、宇宙の謎を体験すること、生命の内奥へ迫ること、生の価値を高めることである!本当の哲学者は、今自分が意識を持っている宇宙が存在しているという事実に対して、驚嘆と畏れの気持ちを抱いている)、それが命や宇宙の原理を生々しく表現しているとは認知しようとせず、直観という目的と概念という手段を取り違えて、単に抽象的に概念を解釈して、ややこしい抽象的な思弁だけを幾何級数的に量産してしまっていく。自分の意識が、宇宙の存在が、今ここにあるということに恐怖や驚嘆できないのなら、真の哲学を究めることは一生できないだろう。
 今の心理学者は、芸術や神秘主義を病理にまで還元してしまうような、煩い機械音をカタカタ鳴らすことしかできていないように思われる。心理学、特に病碩学とか病理学とか言われるものは、あらゆる精神的価値に対する場違いな暴力をしでかしてしまっているのである、それらによって病理へと還元されるところのものこそ、まったく人間の心の自然な状態を表現しているにもかかわらず!鬱病や統合失調症が気違い染みた発症率になってしまっているのは、まさに人類の心が不自然になってしまっているからであり、この発症率はそのことの警鐘であるともいえる、それなのに心理学はそういうことに全く気付こうとせず、抗鬱剤など気休め程度の治療法しか開発しない。馬鹿げた責任放棄である。心理学こそ、思想や芸術に対する感受性の欠如した一般的大衆の心を改善しなければならない、自然な状態へと導くような一般理論を形成しなければならないという、重大な責任を持っているはずである。この鬱病の発症率はいくらかは心理学の責任なのである。しかし当の心理学者こそ恐ろしく無神経で、何が大事なのか微塵も分かろうとしない。世界初の心理学者を自称したニーチェの生に対する態度を見習うべきである。
 とにかく一般的に、自然な状態がどうであるかに対しては全く盲目であるように思われる。心が不自然になっていく現象は、現代だけではなく、ただ情報化が進んで現代的な言語のみが大量に高速で飛び交う現代ではとくにそうである、というだけで、ここ2千年くらいならあらゆる時代について言えることだと思う。あらゆる時代の一般的大多数の人々、とくに現代の大多数が、狭い視野でしか心や思想に関わるものをみない(物理的にはあらゆる人が、古代の人々の生活、温暖化の影響で氷河湖が溶けてしまうことによる洪水の被害つまり一村の消滅と村人の死滅を常に懸念しているヒマラヤ山脈の原住民の質素な生活、などだけではなく、遥か大昔の三葉虫をはじめとする奇怪な生き物、恐竜の進化、ティラノサウルスの猪突猛進、地球の誕生、遥か彼方の星もブラックホールをも、科学やそれを伝える映像・画像を初めとするメディアや情報技術などの助けを借りて、誰でも簡単に自然を一望できるようになったのに、心理的にはまったく逆のことが起こっているのである!)けれど、思想家や芸術家は違う。思想を、通時的にも共時的にも全体を一望する視野で、ダイナミックにとらえようとする。芸術家の心の血は、神話、つまり人類いや全生命の精神的血管に、直接繋がっているのである。あらゆる時代において、人は心的なレベルにおいて、遺伝的基盤や神話的思想のような時代を貫く観点からみると、不自然な心の状態になってしまっているのだけど、神話的な命の根底に認識の根を下ろした人は、そのことを見破り、自然な状態がどんなものであるかを訴えようとする。自然の状態とは、決して大量かつ高速に卑俗な言語が動き回る情報網や機械音のように抽象的な言語の体系などによって、かちこちに固まったような状態ではなく、大地の創造と破壊のプロセスに象徴されるように、ダイナミックでカオスな状態である!古代人つまり自然人は、あることに感動しただけで、恍惚状態になっては自分の魂が永遠に肉体にはもどらないのではないだろうかと戦慄したりするほど、あるいは、自然災害が起こっただけで神々の呪いや天罰だと受け取って大地や天を畏怖したり恐怖したりするほど、あるいは、怪我をして狩が出来なくなると暇つぶしに自然の神秘を解き明かそうとして自然を観察し、水で植物が育つことを発見してしまったからには、村中の人々に狂喜になってそのことを教えたりする(真の物理学者は古代人のように感情的ではないものの、宇宙、全生命、創造主に対する限りなく深い畏怖の念を持っていて、物理学的事実よりもその気持ちを多くの人に伝えたがっているだろう)ほど、驚嘆と好奇心(物理学者を探求に向かわせるのは、仕事柄の義務感や社会的責任や功名心などではなく、好奇心そのものである)に満ちている子供のようであり、概して先天的に躁鬱的である!一般的社会人をして社会的秩序を無視して大量に金銭を消費せしめたり破廉恥な行いをさせたりする、あるいは、詩人をして病的な言葉の羅列を延々と綴らせる(この文章は恐らく古代人的な躁的な心理状態の産物です)、躁鬱病は、まさに現代に現われた野性である、もちろん、躁鬱病であるべき古代人的であるべきだというのではなく、躁鬱的な心的ダイナミズム、つまり本能的なもの、破壊と創造の心理的プロセスが、人の心に導かれているべきだ、ということである。
 本能的な心理のプロセス、自然性に立ち返るなら、後得の価値観など無視して、生得性に目を向けなければ成らない。遺伝とは、億単位の年月を通しての大地からの影響で決定されたものであり、心の性質は神経構造に由来していてその神経の構造は遺伝的に決まっているのだから、心の生得的な性質は大地的なもののであるずなのに、どれほど多くの人が心の本能的生得的な性質から離れてしまっているだろう。何十億年もの年月を経ての地球の環境との妥協によって決定された遺伝子によってよりも、ほんの数百年の間に出来た人工の観念体系によって、いや現代的な人であればまったくここ数十年間の間に形成された卑近な観念体系によって、そしてその観念に依存する価値の体系によって、人の心の性質は方向付けられ決定されてしまい、命にとってまったく不要なことに価値を感じたり不要なことにいちいち悩んで心のエネルギーを無駄遣いしたりして、とにかく不自然になっていく一方である。神話が重要なのは、人工的な観念体系から生まれた物語なのではなく、遺伝子に対してつまり大地に対して従順な心の傾向によって創られた物語であるからであり、つまり神話こそ生命の純粋な状態を象徴的に表現してのであり、大芸術というものはこの神話としっかり結びついている。たとえば『ファウスト』や『ツァラトゥストラ』の豊かな象徴表現は、まさに大地と生命の自然な状態や、創造と破壊のダイナミズムを、思想的にも洗練された形式を以って私達の心へ導いてくれる。芸術が非現実的なもの超自然的なものだというのはまったくの誤解に基づく考えである。その時代現実的だとみなされている価値観が、自然から、生命の根源から、まったく離れてしまっているということを訴え、現実を、現実を生きる人の心を、自然な方向へ動かそうとするのが芸術の使命の一つであり、逆にその時代の低俗な大衆的価値観こそが、全く不自然、言ってみれば超自然的なのである。芸術だけでなく神話や神秘主義についても同じで、神秘主義が単なる超自然主義だと誤解されていることこそが、まさに人類の心が不自然になっていること、自然的心象にたいする愚鈍さ加減を、明白に象徴している。迷信家の好むお座興めいた趣味としてのオカルトなどではない、真剣な思想としての神秘主義は、命の核へと認識が迫り、自然に基づくイメージ、命にとってもっとも重要で意義のあるイメージを象徴的に表現しているのである。自然に基づいていないのは、神秘主義ではなく、神秘主義を超自然だと不当にも誤解するような貧弱な価値観の方である。パラケルススの雄大な精神、ユングの深遠な直観、エックハルトの神への賛美、それらは心の次元での命のあるべき姿をしっかり捉え、表現している。自然から切り離された人工的な諸々の観念を脳髄に宿した者が、どうして神秘主義のような生命の内奥に迫る認識を持った思想を、超自然呼ばわりすることなどできようか!都会においての後得的な観念や概念や言語こそが、まったく不自然であり、自然的人物にとってはまさに破壊するために存在するような空虚なガラクタであり、そういう後得的な観念体系や言語観に洗脳されている現代人こそ、自然界の生の姿を恐ろしく歪曲して捉え(歪曲して捉えない方法があるとすると、それは自然と完全に一体化することである)、歪曲して映った姿を不当にも現実と見做し、挙句の果てに、この自然を、自分達が現実だと見做したような不自然なものへと、物理的にも変えていってしまう、つまり心の次元での自然破壊が具現され、実際に自然破壊をしてしまうのである。
 とにかく本能が生み出す心のエネルギーや捉え難い根源的なイメージを、命に対して従順なように大地に対して調和するように、心の表層へと導く水路が芸術的表現や神話的象徴であり、遮ってしまうのが都会に聳えるビルの群れ、交差点に犇く群集、インターネットや新聞などの情報網を埋め尽くす色あせた言語、つまり表層的価値観(後の比喩でいうと油膜)の原因となるものであり、全く無駄に消費してしまうのが卑猥な画像や動画や風俗の類である(後の比喩で言うと、フラスコにあいた穴)。男性の芸術家は、芸術構想において「有意義に」本能的なエネルギーを使うからこそ、創造性を真に体現し、生にとって本当に価値のあるものを生み出していく。本能のダイナミズムを源泉にもつ心的エネルギーを、無駄に消費したり、遮ったりするのは、生を無価値なものにしていくことになり、まさに人類の心の疾患である。
 フラスコの中を全体的にみれば中性の自然な液体なのに、表面近くにできた油膜が上の方にあるものだけを全体から遮ってしまい、油膜上にあるものだけ酷く酸性になってしまっている状態、このことは以下のことの比喩である、すなわち、人間が人間である限り必ず自然人であることを可能にするような生得的基盤があり古代の人の大部分は自然な状態で生きてきたのに、時代の表層的価値観に則っている一般的大多数の人はそれら自然状態からはなれている、全体を忘れて表層だけで自己完結している。生命の本能を荒々しく象徴するオーディンやディオニュソスは底の方へ沈んでしまい、彼ら勇敢な神々の歌声を聴くひとはほんの一部になってしまった。人類の心は上下にはっきりと二分され、油膜上にある現代の人々は、全体との干渉がなくなってきているので、酸化して色あせてしまった人類の心の一部だけを、全体と取り違えてしまう。こうなったらもう、硫酸でも硝酸でも何もかもを中和する強烈なアルカリ性の液体や油膜を突き破る劇薬を注ぎ込んだ方が、つまり現代の都会という狭い牢獄で人類の心を自己完結させようとする情報網などを淋漓たる鮮血や激越な表現で塗りつぶしてしまった方が、人の心は自然に近くなるのではないかと思われるほどである!ギリシャ神話、ヨガや神秘主義、哲学史、芸術史など、人類の精神の鼓動であるというべき、どれほど偉大な心的経験が、現代のテレビやインターネットやベストセラー本などの騒がしい情報網を縦横無尽に動き回るどれほど低俗な言葉、不自然な神経系が綴るどれほど空虚な言葉の数々によって、現代人の心から奪われてしまっていることだろう!さあ表現者達!心の血を世界へ注ぎ込め!砂上に築かれた貧弱な情報や言語の骨組み、その言語に依る価値の高層ビルを、今こそ、大地への賛美を具現するかのようなマグニチュード7.2の荒々しい表現、強く揺るがさんことを!その生命力であの山々を身ごもらせ、大地の意志を語る噴火を起こせ!斜陽に照らされ黄金色に輝く大地のシンバルを、芸術の舞踏で脚踏みし、地球の鼓動を空高くまで鳴り響かせよ!地に根ざし地球の血から吸い上げられた栄養によって妖艶に咲き乱れる花々のような、うっとりするほど美しい表現を、情報網が張り付いてしまって審美の能力を失ってしまった粗野な網膜に、焼き付けるように、はっきり見せつけよ!激情の荒々しい風で、心を覆う既成の観念や概念など切り裂いて、心が出血したならその血で新しいメタファーを綴ればいい!心に張り付いた表面的な言語や概念の殻、もはや角質と化してしまった表面など、情熱で揺るがして破壊し、その瓦礫など愛に満ちた涙の熔岩で融かし、そしてゴッホの絵のように燃え上がる命の核を晒してやれ!人類の精神が、大地の女神の乳を吸って成長し、多淫な表現物を地表に耕す日、神話が復活する日がいつか来て欲しい!大自然の生命力を象徴するような豊かな表現、この宇宙への全生命への畏怖と愛を象徴するかのような深くまた祝福に満ちた表現が、産業的で情報的になってしまったこの世界を、人の心を、いつか彩りますように!














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