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もしも太宰治が異世界に転移したら

『私は三月中旬、ひとりで鎌倉へ行った。昭和十年である。私は鎌倉の山で縊死いしくわだてた』(東京八景)


 五年前、私は鎌倉の海に飛び込んで、失敗した。長兄には多大な迷惑をかけ、私自身もすぐ後に盲腸炎を患い、死ぬ思いをした。今度こそ、と覚悟して、私はとうとう死んだ。死んで、塵となり、消え去るはずだった。けれど、私の意識は未だ形而下けいじかにあり、五臓六腑ごぞうろっぷに染み渡る寒さ、胸の重さが苦痛を伴って襲ってくる。


 ――ここは地獄かしらん。


 スタヴローギン君も、このような場所に堕ちたのかしら。私は、呑気にそんなことを考えて、この途方もなく広い、暗い空間を、ただ呆然としながら歩いた。燈火ともしびが見え、助かった、と駆け寄ると、懐かしいガス灯の下に、およそニホン人らしくない風貌の女性が立っている。露西亜ロシヤ人だろうか、と近寄るのを躊躇した。しかし私は、次第になくなっていく体の感覚には、勝てませんでした。


「あなたはロシヤですか」

 と、乱暴に尋ねた。


津島修治つしましゅうじさまですね。お待ちしておりました」


 どこかで会ったかな、とあれこれ思案をめぐらせるような格好をしたが、女の顔に見覚えはなかった。ただ私の身装みなりが貧しいのを、隠そうとしたまでのことである。着物の袖で額の汗を拭ったけれど、袖が濡れていたので、かえって恥ずかしい思いをした。


「津島修治は私の本名です」

「それでは修治さま、こちらで登録をお願いします」


 紙に、名前、住所を記した。『スキル』と見慣れない語句の欄までくると、顔を上げ、露西亜人風の女に「これはなんだ」と聞いた。


「あなたにはこれがぴったりです」

 と言って、女は紙に『睡眠衝撃波カルモチン』と書き込んだ。恥ずかしながら、私は阿佐ヶ谷の病院にいる時分から、カルモチンを手放せない身であった。


「これより修治さまの冒険がはじまります。行ってらっしゃいませ」


 光に包まれたかと思うと、私は雑多な街中に立っていた。ここがニホンではないということは、すぐに察せられた。おそらくソヴィエトか、フランスの田舎町だろう。異人がたくさん歩いている。着物姿の私は、否応なく目立つ。


 ――われは盜賊。


 芸術家は、どんな苦難にも屈してはならぬ。たとえ異国だろうが、悪魔デモンの国だろうが、驚愕してはならぬ、狼狽してはならぬ。私は懐手をして、顎をつきだし、我こそはという態度で風を切って歩いた。どこへ行くのかは知らぬ。生きていれば、きっといいことがある。


 淫売婦のような服を着た女が、道を歩いていた。私はその尻を目印に、どこまでも追いかけた。もとより行くあてのない旅である。せめて女の尻くらいは追いたいものだ。突如、服の中から猫のような尻尾が飛び出した。ピシッピシッと打ち鳴らす如くに、上下左右に振れる。私はそれをサーヴィスだと思い、そっと女に近づいて、


「煙草を貸して呉れ」

 と、拙い英語で言った。


「さっきからなんでついてくるんですかニャ」

 人と猫のあいだに生まれ落ちた感じの顔だった。彼女は日本語を喋った。


「十銭しか無いのだ。煙草を貸して呉れ」

「貸してって、返せないでしょうニャ」

「きっと返す」


 女は、異国の煙草を三本わけてくれた。変わった味のする煙草だった。日本語を喋る異国の女。ここは満州かもしれぬ、と私は考えた。満州であれば、つてをたどってニホンに帰れぬこともない。希望が湧いてきた。


「ありがとうニャ」

 と私は言って、女と別れた。満州にはニホン人が多く住んでいると聞く。まずはニホン人を探さねばならない。再び歩き出した私は、無銭で満州に来られた幸運を楽しんでいた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 発想が面白いです。 昔の文豪が異世界入りをして、これから見知らぬ世界でどのような反応をするのかや、奇想天外な冒険をするのかもしれないと思うとクスッとなります。 文章も読みやすいですし参考に…
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