愛しき者へ
時は平安。貴族が栄華を極めていた時代。
都に一人の男がいた。名は雅雪。
決して低くない身分の家に生まれ、歌を好んでよく読んだ。又、権力争いを厭い、ただ穏やかに日々を過ごす、心優しき男であった。
ところで、男には親友といえる友がいた。名は道鉦。
雅雪とは反対に武芸を好み、粗野な所のある男だったが不思議と気があい、よく二人で酒を飲み合い語りあった。
ある日突然、雅雪は検非違使に捕らえられた。帝に対し謀反を企てたという罪で。
何のことだか雅雪には分からなかった。身に覚えなど全く無い。
しかし、雅雪は知ることとなる。
自分を嵌めた相手が親友であった道鉦だった、と。道鉦と他の貴族が協力し合い、雅雪を貶めたのだと。
その事実を知った雅雪の、驚愕と悲しみは如何なるものであったか。絶望の果て、彼は自ら命を絶った。
しかし、深い悲しみ、憤り、憎しみに支配されて死んでいった雅雪は死に切れず、鬼と成りて、現へと蘇えった。
衝動のまま復讐を果した後、正気に返った彼は己が姿、浅ましさに絶望する。
鬼と成り果てた雅雪の姿はとても恐ろしいものだった。
髪は血の様に紅く長く。両の額からは角を生やし、瞳は憎しみを表すかのごとく金に輝き、手の鋭く長き爪は仇の血で赤黒く染まっていた。
そこに、かつての心優しき男の面影など残ってはいない。
そして、鬼となった雅雪は人が訪れること無い、山の奥へとその身を隠した。
それから、どれ程の年月が流れただろうか。
ふと、鬼の耳に、何か聞き覚えの無い音が届いた。人であった頃には到底、聞き分けられなかったであろう音も鬼となってからは聞き分けられるようになった。
山に住む動物の鳴き声とは違う声。なんとはなしに、音源へと近づいて行く。
そこに居たのは、粗末な布に包まれた人の赤子だった。
大方、麓の村人が口減らしの為に山に捨てたのであろう。
赤子は泣き続ける。小さな身体で生きたいと叫んでいる。
その必至さに心揺らされたか、鬼は恐る恐る赤子を抱き上げた。なにしろ人であった時にも赤子と関わったことなど殆んど無かったのだ。過ぎる程の慎重さで赤子を抱き上げる。
すると、赤子はぴたりと泣きやむ。そして、じっと鬼を見つめるとその小さな手を伸ばした。鬼は赤子を抱え直し、その手に己の手を伸ばす。
―温かい
鬼の指を握った赤子の手はひどく小さく、なのに温かかった。
鬼は赤子を抱いたまま、己の住処へと戻っていった。
再び、幾つかの季節が巡る。
春の山を、少女は嬉しそうに駆け回る。青空が広がり、鳥は歌い、花々は咲き乱れる。
桜の下で散りゆく花びらを捕まえようとして、少女は躓いた。
「っ、痛い。」
すると、何処から現れたのか鬼が少女の正面に立ち、彼女を抱き上げた。
「あ、オニ様。」
少女は鬼をそう呼んでいた。彼が人であった時の名は教えてもらっていたが、鬼自身が、自らをオニと呼べとそう言っていたからだ。
「大丈夫か?藍花。足元には気をつけろと言っただろう?」
少女‘藍花’を、気遣うように、諭すように鬼はそう告げる。
「はい…。」
シュンと項垂れてしまった少女に苦笑を零し、傷が無いかどうか確かめる。
どうやら軽く擦ったぐらいで、血も出てないし大丈夫なようだ。
鬼は気落ちした藍花の頭に手を置き、優しく撫でる。そっと、見上げてくる藍花に向かって微笑みながら鬼は言う。
「次は気をつけるように。」
「はーい。」
元気な返事が返って来て鬼は笑みを零した。
そうして、そのまま二人で花見をする。
「キレイだね、オニ様。」
「そうだな。」
―それはひどく穏やかで、優しい時間だった。
こんな時間が、ずっと続くことを願っていた。その願いは適わなかったけれど―
「…此処は何処だ?」
生粋の貴族である高岑は、現在非常に困っていた。
家来と共にこの山の中腹に庵を持つ、徳の高い法師を尋ねて来た。それは良かったのだが、その帰りに家来とはぐれてしまい、一人山の中をさ迷っているのだ。
「困ったな。」
呟き、ため息を吐いて直ぐ傍の木に身体を預け、ずるずると座り込む。
日は暮れて、辺りは寒い。月明かりが寒さを更に強調させている気がする。
寒い。もうくたびれて動けない、動きたくない。
「此処で、死ぬのか…?」
そう、高岑が呟いたときだった。目の前の茂みからガサガサと音がした。
獣か何かだろうか、と瞬間的に身体を硬くした高岑の前に現れたのは。
「アナタだれ、どうしたの?」
幼い少女だった。
その手にこの季節には無いはずの鬼灯を持っていてそれが、ぼぉと彼女の周囲をてらしている。その顔は高岑の亡くなった妹とよく似ていた。
妖の類か、と警戒する高岑の傍に少女は何の気負いもなく寄ってくる。
「どうしたの。どこか痛いの?」
そう言って高岑の顔を覗きこんでくる少女の目は澄んでいて、害を加えてくるようなものとは到底思えなかった。
だから、高岑は少女に正直に答えた。
「否、少し疲れているだけだよ。道に迷ってしまったんだ。」
「疲れてるの?もう、全然動けない?」
酷く心配そうに少女が顔を歪める。そんな顔など見たくなかったので、高岑は。
「ああ、でも、少しなら動けるかな。」
そう言って立ち上がる。少女は良かった、と言って笑った。
「道はね、こっちにあるよ。」
少女が手を引いて歩きだす。その手は温かく、妖などとはもはや思えなかった。高岑は連れられるがまま付いて行った。
やがて、確かに二人は道に出た。
「ここから下の村にいけるよ。じゃあね。」
そう言って、再び山へ戻ろうとする少女を高岑は慌てて引き止めようと少女の腕を掴んだ。
「待って欲しい。君は…。」
不意に強い風が吹いた。その次の瞬間、少女と高岑の前に一匹の鬼が立っていた。
鬼はゆっくりと口を開く。
「その娘から手を離せ。」
静かな声でそう言い、高岑を見据える。その目は酷く冷たく、高岑は酷い恐怖を感じ動けずにいた。
唯、少女をこの鬼に渡してはいけないと思った。少女が鬼に喰われてしまうのでは、と思ったのだ。
「オニ様?」
不思議そうに少女が鬼に呼びかける。
鬼は少女の呼びかけに答える事無く、高岑を見据えながら一歩、歩み寄った。
少女の腕を持ったまま、高岑は一歩下がる。
その時、ふいに高岑の袖からカサリと紙の音がした。法師にもらった御札を袖に入れていたのを思い出す。
さらに、一歩鬼が歩み寄った。その瞬間、高岑は鬼に御札を叩き付けた。
バチバチバチ、と物凄い音がした。
「っぐ、が。」
ガクリと鬼が膝を附き、地に倒れこむ。
その隙を逃さず、高岑は少女を抱え全力で走る。
「いやぁ、オニ様、オニさまぁ。」
高岑に抱えられた少女が、肩越しに後ろを見ながら叫ぶ。
「くっ、藍、花。」
鬼は必至に身を起こそうとする。だが、及ばず再び地に沈んだ。
次第に遠ざかっていく声に鬼は歯噛みし、地に爪を立てた。
「藍、か、あいか、ああああああああああ。」
鬼の声は悲しく山に響き亘った。
一方、高岑は。
家来達と無事合流することができた。
「嗚呼、主様。ご無事で良う御座いました。」
今まで、高岑を必至で探していたのだろう、家来の額には肌寒い気温の中だと言うのに汗が浮かんでいた。
不意に、家来は主がその腕に抱えている「モノ」に気付いた。
少女が主に抱えられて眠っている。
「あの、主様。その少女は、一体…?」
問いかけるに家来に高岑は事も無げに答える。
「ああ、この子は今日から私の妹だよ。それより、急速に此処から離れよう。この山には鬼が住んでいる。」
鬼と言う単語に反応し、家来達は帰りを急がせる。
牛車の中、高岑は泣きつかれて眠ってしまった少女を抱え、その頭を撫でる。
帰ったら先ず母上に報告して、この少女と会わせよう。きっと、喜ぶ。
妹が亡くなってから塞ぐことが多くなったが、また元気になってくれるだろう。
父とてこの少女を可愛がるに違いない。子供が好きだから。
「君に家族を与えよう。」
高岑のその目は本当の家族に向けるが如く優しかった。
高岑の予想どおり、両親は少女を家族として迎える事を喜んで承知してくれた。
少女は酷く戸惑っていたが、そのうち慣れるだろうと高岑は思う。
今日は急の事だったから、部屋も取り敢えず用意したものだが明日には色々取り寄せなければ。そう、思いながら自分の室へと向かっていた時だった。
足元でチリンと音がした。
見れば、高岑の母が飼っている猫が高岑の直ぐ後ろにいた。
いつもはこんな所に来たりしないはずなのだが、と高岑が訝った途端だった。
『そなた、何のつもりだ。』
猫がそう言ったのは。
「なっ。」
驚き、目を見張る高岑に猫は続ける。
『そんなに驚く事か。そなたが厄介なもので邸を覆っているので、この様なものに乗り移るしかなかったのだ。』
辛うじて、高岑が口を開く。
「そなた…鬼か。」
『いかにも。』
じっと、猫に乗り移った鬼が高岑を見据える。
『まだ、我が問いに答えていないぞ。あの娘を連れ去って、どうする気だ。』
高岑も相手を見据えて、キッパリと答える。
「私の妹とする。」
『妹?そなたの、か…?』
「そうだ。」
『フ、クククク、ハハハハハ。』
急に鬼が笑い出した。まるで、嘲るかのように。
「何が、可笑しい。」
途端、鬼が笑いを納め、高岑を鋭くねめつけた。
『そなたは貴族。―あの娘を、醜い貴族達の争いの道具とする気か。』
「そんなつもりなど、無い。」
強く高岑が言う。だが、鬼の言葉は止まない。
『つもりなど無くとも何れは…。』
「失せよ。」
袖から御札を出す。それを鬼は忌々しそうに見やる。
『今は去る。だが、…。』
全てを言う前に鬼は去った。
乗り移られていた猫は何事も無かったように去っていき、あとには高岑のみが残された。
月だけが全てを見ていた。何も示してはくれなかったが。
それから、数年が経った。
邸に来てしばらくは、戸惑いと寂しさから夜に泣き出すこともあった。が、やがてそんな事も無くなり、高岑を含む、高岑の家族に可愛がられてスクスクと成長していった。
やがて、少女は都でも評判の姫となった。
求婚の文がひっきりなしに来るようになったが、そのどれにも姫は応じなかった。また、如何なる縁談にも首を縦に振ることはなかった。それは、頑なな程に。
だが、それは何時までも持つものではなかった。
「…側室に?私の妹を、ですか?」
「そうだ。」
高岑の目の前に居る男は鷹揚に頷いた。此の男は有力貴族の子息で、女好きと評判があった。性格もお世辞にも良いとは言えない。
ただ、親の身分は高い。それこそ高岑の家などよりもよほど。断れば、唯ではすまないだろう。
辛うじて、高岑は声を絞り出す。
「一応、妹に意思を尋ねておきます。」
すると、男は不満そうな表情を浮かべたが口には出さなかった。
大方、意思の確認など必要無いと思っているのだろう。そういう男だ。
だが、高岑は、妹を有無を言わせず男の側室にするつもりなど無かった。例え、他の貴族がどうであろうとも、だ。
「では、私はこれで。」
高岑は踵を返し、歩き出す。その顔には、例えようもない苦渋が浮かんでいた。
緩やかに暮れゆく日を、姫は眺めていた。
この邸に連れられて幾年経ただろうか。昔の生活からは到底考えられない程、贅沢な品々に囲まれやたくさんの人に傅かれて生活している。
家族は無償の愛情を惜しみ無く注いでくれていて、自分は恐ろしく恵まれている。
そう思う。そう、思うのだが…。
「……。」
彼女の小さな呟きは、誰の耳に届く事無く夕暮れの中に消えていった。
そして耳に届く、己を呼ぶ邸の女房の声。
夕日をもう一度眺めてから、姫は声の聞こえる方へと静かに歩みよっていった。
何用かと思えば、兄の訪問であった。
兄である高岑が自分の屋を訪れる。それは別段、珍しいことではない。
昔から兄は、事あるごとに自分の室を訪れては様々な話をしていく。
それは、庭の梅が咲いたといった身近なことから、内裏での行事のことなど本当に様々だった。そして、自分はそういった話を聞くのが大好きで、よく『もっと話して』とせがんだものだ。数年前からそんな事はしなくなったが。
一体、どうしたのであろうか。
「兄様、どうなさったのですか?」
そう尋ねると兄はさらにつらそうな顔になった。本当にどうしたのだろう。
「兄様、この私に出来ることなら何でも言ってください。」
そう言った時兄が顔を上げ、こちらを見た。
「何でも…か?」
「はい。何でも、微力ながら私の力及ぶ限り。」
兄は何かを振り切るように一度、眼を閉じそして。
「とある方が、お前を側室に迎えたいと仰っている。」
嗚呼。心の中でそれだけを呟く。
兄がつらそうな顔をしていた理由が分かった。
「その方自身のご身分はまだそこまでではないが、ご実家は相当なものだ。お前も今より贅沢ができるぞ。」
無理に明るく振る舞おうとする、その様が痛々しい。
やはり兄は優しい。過ぎる程に。普通、貴族にとって女は道具でしかないというのに。兄は私を一人の人として見て、そして意思を尊重さえしてくださる。
もし、私がどうしても嫌だと拒めば、兄は持てる全てを使ってでも叶えてくれるだろう。
だが、その時はきっとこの家はただではすまない。
だからこそ、私は。
「分かりました。そのお方の元へ、私は嫁します。」
私は笑って受け入れましょう。
その瞬間、兄の顔が泣きそうに歪んだ。
兄が去った後、脇息に凭れぼんやりと外を眺める。
あの言葉に二心は無い。私はこの邸の人たちの恩に報いたい。その思いは確かなのだけれど…。
つらつらと物思いに沈む内に、結構な時刻になってしまったらしい。
月が随分と高い位置にある。
不意に、誰かの足音が聞こえた。女房では無い。彼女たちの足音はこんな音はしない。
兄でも無い。兄は、こんな時間に訪れることはしない。訪れるとしても先ず、女房を介してからだろう。一体、誰が、このような時刻に…。
緊張に身体を硬くさせた。
足音は室の前で止まり、中の様子を伺っている。
動くことは出来なかった。
おもむろに御簾がめくり上げられ、几帳も退けられてしまう。
立っていたのは、見知らぬ男。着てるもなどからならず者の類ではないと分かったが、それは何の救いにもならなかった。
男は薄っすらと笑みを浮かべて歩み寄ってくる。そして、目の前まできて顔を覗きこんできた。
「ほう、噂どおり美しい姫だ。私の側室に相応しい。」
その言葉で男が何者なのかやっと理解した。この男が兄の言っていた…。
急に男が覆い被さってきた。咄嗟に逃げようとして、しかし適わず押し倒される。
「そう、恐がらずとも、たっぷり可愛がってさしあげよう。」
恐い。心の中が恐怖で埋まる。
一度は決心した。嫁すというものはこういうことであるという事も理解している。
けれども、でも、この恐怖だけは如何しようもない。
「雅雪様…。」
小さな呟きと共に姫の目から涙が一筋零れた。
途端、身体の上から男が消え、代わりに力強い腕にふわりと抱き上げられた。
その腕の主は。
「美しくなったな、藍花。」
酷く大きな音が聞こえた。
音源に向かい、高岑は刀を持って急いだ。一体何が起きたのだろうか?
音がしたのは、姫のいる対屋からだった。女房たちがおびえた顔でこちらに駆けて来る。
その中の一人を捕まえ、何が起こったのか尋ねた。
すると、その女房は。
「鬼が…姫の部屋に…。」
とそう告げた。
高岑は姫の部屋へと駆け込む。
そこにいたのは。
髪は血の様に紅く長く。両の額からは角を生やし、瞳は憎しみを表すかのごとく金に輝き、手に鋭い爪を持った、彼の鬼。鬼は、姫を抱え立っていた。その足元には、姫を側室に、と望んだあの男の姿がある。少々距離があるため分かりづらいが、どうやら生きてはいるようだ。胸が規則的に上下しているのを見止める。
鬼は、高岑の姿を認めるとクツリと笑った。
「やはり、私の言った通りになっただろう?所詮、貴族とはそういうものよ。」
言って、姫の髪を、そっと愛おしそうに梳く。
「この子は連れて帰る。」
「待て。」
言いながら、高岑は太刀を抜いて構える。
「そなた、どうやってこの邸の中に入ったのだ。この邸には御札による結界が張ってあるはずだ。貴様のようなものは通れぬはず。一体、どうやって。」
鬼は高岑をつまらなそうに見やる。
「簡単なこと。この子が私を呼んだ。だから参った。それだけのことよ。」
「姫…?」
呆然と高岑は鬼の腕に抱かれている姫を見る。
姫は辛そうに顔を歪め、そして。
「私は…、この方をお慕いしております。ずっと、ずっと昔から。だから…」
姫ははらはらと涙をこぼし、それでも、言い募のる。鬼はそんな姫をなだめるかのように優しく背を撫でた。
「私もお前だけをずっと想っていたよ。お前と同じようにずっと…。」
その光景を、高岑は信じられないような面持ちで見ていた。高岑には、二人が現をものとは思えなかった。この世のものではない、美しい物。
世俗に置いておくことは憚れる。
だから、高岑は笑いかけた。姫に。
「そうか。…ならば私は何も言う事は無い。姫、どうか幸せに。」
兄として最後の言葉を送る。
ふわりと鬼と姫の二人を風が包み込む。そして。
「兄様…。ごめんなさい。育ててもらった恩、何一つ返すことが出来なくて。ごめんなさい。」
姫のその言葉を最後に、大きな風が吹き、高岑が目を閉じた一瞬に二人の姿は消えていた。
「謝らなくて良い、姫。幸せに。」
高岑はそう呟いた。
『愛しき者へ』の愛しき者は、恋人だけじゃなく家族や友人も含まれます。愛おしく、大切な人たちへ感謝を。少し位、直接相手に伝えられたらなぁ。そう思う今日この頃です。
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