私、中宮真琴は、正直荷物をまとめるという作業は、あまり得意じゃない。
ダンボールの中に部屋の荷物を詰め込んでいる合間にも、私の集中力は、片付けとは別の方向に流れていく。
私が手に取ったのは、一枚の写真。
「まだ、片付かないの?」
私の背後から、この部屋の持ち主、金城雄介が声をかけてきた。段ボール箱と向かい合う私の肩越しから、手元をのぞいてくる。
「考えると爪を噛む癖、いい加減に直せよ」
親指の爪を噛みながら、苦々しい気分になる。
「別にいいじゃない。今日には出て行くんだし」
「そうだけどな…」
爪を噛むのを止めて、私が強い口調で文句を言うと、彼はとたんに語尾を濁した。
考えると爪を噛む癖は、子供のころからずっと続いてきたものだ。
無意識のうちに、私は親指の爪を噛んでしまう。考え込んだとき、暇なとき、テレビを見ているとき。気がつくと私は親指の爪を噛んでいる。上あごの前歯と下あごの前歯で挟み込んで、爪の硬質な感触を味わっている。味のないガムをかんでいるような感覚。でもガムよりはずっと硬くて、それでいて壊れにくい。例えれば、プラスチックを噛んでいるような食感に似ている。
いや、味わっているというのは語弊がある。私は決して爪が好物なのではない。
言うなれば、タバコと同じなのだ。吸っていないと、どうしても吸いたくなってしまう。口寂しくなってきて、口にタバコをくわえたくなってくる。いつの間にか手にはライターが握られていて、慣れた作業で火をつける。
弁解のように聞こえるかもしれないが、私にとって爪を噛むという癖は、それぐらい常習的な行為なのだ。雄介がタバコを吸い続けるように。
「あと、これ。歯ブラシ、シャンプー、ボディソープ」
右手一本で、その三つを器用に持ってきた雄介。左手はタバコ専用で、いつも空手だ。私と話している合間にも、左手は口元にくわえたタバコの灰を落とす、一連の動作に使用されている。
「…ありがと。でも、歯ブラシはいらないわ。捨てて。他のは持って行くから」
「わかった」
ダンボールの横にシャンプーとボディソープを置いて、私に背中を向ける。
「雄介はいい加減、タバコ止めたら?」
「…お前が爪を噛むのを止めたら止める」
「雄介がタバコを止めたら、私だって爪を噛むの止めるわよ」
雲行きが怪しくなってくる。胸中に立ち込める暗雲。私はそれを払いのけたくて仕方がない衝動を何とか押さえ込むと、再びダンボールに向かい合う。
一枚の写真は、まだ私の手の中にある。
付き合い始めてからすぐに撮った写真。
雄介の誕生日に贈ったデジタルカメラで撮影したもので、不慣れなせいでタイマー機能が使いこなせず、撮るのに苦戦した思い出がある。時間設定をどうやって変更するかが出来ずに、たった五秒間で撮らなければならなかったから、慌ててフレームの中に入ってくる雄介に押されて、私は前のめりになったり、フレームアウトしてしまったり。
結局十枚以上撮り直し、満足がいかないままプリントアウトした結果、出来上がった写真。
最近のデジタルカメラの画素数は良すぎて、細かい肌のきめまで写真として出てしまうのが厄介だった。
それ以来、私をデジタルカメラで撮ることは禁止している。
…でも、雄介と別れることが決定的、絶対的となった今では、カメラで撮るも撮られるも、どうでもいいことだ。
「また、爪噛んでるぞ」
右手に生理用品と、コップ、目覚まし時計をまとめて持ってきた雄介が、無意識のうちに爪を噛んでしまっていた私の上げ足を取る。
左手はやはり空手。タバコの煙を吸い込んでは、左手でタバコのフィルタ部分を持ち、煙を吐きだす。
左手は、タバコ専用。タバコ以外の何物にも優先させない。
「…ふざけないでよ」
雄介のデリカシーのなさは、もはや愛嬌ではなくなっている。
付き合い始めた当初こそ、野性的とか、前向きな方向で考えられたけど、同棲し始めた直後には、それはただの悪所にしか見えなくなった。
雄介の癖に我慢できなくなった私は、それを口に出すようになり、最初は優しく諭すようだったのが、年月を経て乱暴な言葉となり、最後には喧嘩腰になった。
それは雄介も同様だった。
爪を噛む癖を黙認してきた雄介も、段階を追って喧嘩腰になった。爪を噛むときに発生する、歯と歯のかち合う音が気になって仕方がないらしい。
そんなことを言ったら、お風呂に入りながら歯磨きをするのも雄介には止めて欲しい。
足の爪を切るとき、切った爪をテーブルの上に集めるのも止めて欲しい。鑑賞会じゃないんだから。
トイレだってそうだ。便座はきちんと下ろしてからトイレを出て欲しい。次の人のためを考えて欲しい。汚したら、きちんと拭くのだってそう。なんで、私が雄介のトイレの後始末をしなければならないのか。トイレットペーパーで拭き取ればすむだけのことなのに。他人のトイレの後始末をしている自分自身を思うと、私は空しくなってくる。仕方ないな、と思って拭いてあげたのは最初だけ。
外から帰ってきて、所かまわず靴下を脱ぎっぱなしにするのも止めて欲しい。洗濯籠に入れてと何度も言った。でも、雄介はそれを聞いてくれない。テレビを見ながら背後に放り投げ、私は顔面に雄介の靴下を当てられた。
それが、私の長年の怒りを爆発させた。
――こんな男とは、別れてやる。
「…真琴、茶碗と箸」
私に差し出す。タバコは吸い終わったのか、口にはくわえていなかった。
「真琴? …泣いてるのか?」
「泣いてなんかないわよ」
七年…七年間だ。青春を捧げたといっていい七年間。それがもうすぐ終わろうとしている。がさつで、ずぼらな雄介に振り回された七年間だ。何度尻拭いをしただろう、嫌な思いをさせられただろう。同棲の甘さなんて、三ヶ月で消え去った。それからは、ただの嫌悪との戦いだ。
相手の悪いところばかりがクローズアップされて。
一度気にすると、頭から離れなくなって。
それは雄介も同じで。私の悪いところばかりを指摘して。
付き合い始める前後は、あんなにお互いを褒め合ったのに、称え合ったのに。
「…悪かったよ。俺が悪かった」
タバコ専用の左手で私の涙を拭う。
「止めてよ、優しくしないで。タバコの臭いは好きじゃないって、いつも言ってるじゃない!」
「…そうかよ」
優しくする必要なんかない。
私たちはもう恋人ではないのだから。友達から恋人へ。恋人からは他人にしかなれない。だから、私たちは、もう馴れ合う必要なんてない。
「夕方には戻るから、それまでには出て行ってくれ。それと、合鍵は、鍵をかけたらポストにでも入れておいて」
雄介は背中を向けて外へ出て行ってしまった。ドアの閉まる大きな音が、雄介の怒りを露にした。
大量の荷物を車に積み込んだ私は、バックを抱えて、今、雄介のアパートのドアの前にいる。鍵を閉めて、ポストに合鍵を入れれば、七年間の同棲生活は終わり。缶ジュースでも買うかのような単純さで、物事は終わってしまう。淡白すぎる気もするが、逆に淡白なほうがいいような気もした。
「…きっと、この七年間は私の身になってる」
誰かのために尽くした七年間。自分の悪所を思う存分指摘された七年間。馴れ合いの七年間。
物事はたいてい一人でこなせるようになったし、誰かの世話だって、十分に出来るだけの力もついた。
なにより、雄介に散々指摘された悪い所を直す機会を得たと思えば、このうえのない転機に思える。
「雄介、私…行くね」
鍵を閉めて、ポストに合鍵を投入すると、私は通いなれた雄介のアパートを後にする。
足取りは決して軽くない。
でも、私はそれを引きずってでも歩かなければならない。
重りを背負って、引きずって。
それが私の足腰を、心を強くする。
やがて、その重りが軽く思えるときが来て、そして、最後に重さを感じなくなったとき。
そのときこそ、新しい私の始まりなんだ。
「ん…ん〜」
太陽の真下で伸びをする。燦燦と照らす太陽は、私の体を暖かくしてくれる。固まった筋肉をほぐしてくれて、体を動きやすくしてくれる。
「絶好の引越し日和」
私の新生活は、こうして始まった。
|