靴底に鉛を仕込んだようなワークブーツを脱ぎ捨て玄関から廊下に上がると、壁面のスイッチを手探りし照明を点けた。
六週間ぶりの棲家は、妙につーんとしたかび臭さが鼻に付く。
短い廊下をのそのそと進み、居間に入る手前で、埃にまみれたナップザックを居間の床に放り投げた。ザックが床にドスンと落ちた拍子に、その回りでほんのりと塵埃が舞う。
桜井は、そのまま倒れこむように、ザックを枕に仰向けになった。
二ヶ月前、地獄の入口から戻されてからというもの、身体が妙に気だるくなり微熱が続いていたのである。その症状が、良くも悪くもならず続いている。
これは、やがて地獄に堕ちて行く者の前兆なのだろうか。
桜井は明日、明後日と休養し、その後しばらくは国内の仕事に就くことになっていた。三日後には、取材で長崎に発つ予定である。戻るのは、それから一週間後であった。
絵里は、桜井が長崎に発った後に日本に戻り、再び異国の地に発つことだろう。
すれ違いであった。だが、時として、このすれ違いに救われることがある。
だが、それも、ほんの一息の間に過ぎなかった。
桜井は、戦地で白昼夢を見、自分の身代わりが絵里と知ってからというもの、絵里が地獄に堕ちる悪夢を見るようになった。
地獄に堕ちた絵里の苦しみは、想像を絶するものであった。
身体を喰いちぎられ、たとえ頚一つとなっても生きながらえる地獄、死して後も、その魂は永遠に地獄を彷徨い続け安らぐことはない。
絵里を地獄に送るわけにはいかない、そう思いつつも、何の抵抗も敵わない無力な自分の不甲斐無さに居た堪れなくなる桜井であった。
二度と再び、絵里に見えることのない運命であればいい、本気で、そう思ったのである。
いっそのこと、このまま死ねれば気が楽なのだが、桜井はあと十ヶ月、どんなに自分を痛めつけても死ぬこともできないのである。地獄の使徒が、どうあっても生かすらしい。
戦地で、飛び交う弾丸の前に身を晒してもかすり傷一つ負わず、地雷原の上をどんなに歩いても地雷を踏むことはなかった。
桜井が何処にいようと、常に暗がりの向こうの赤色に光る目が監視し、危険が迫れば目に見えない力で、桜井を庇護するのである。
そうまでして生かすのは、この世で生の苦しみと死への恐怖を味合わせることで、生贄としての旨味が増すからであろう。
「俺は、恋人も護れないのか、死にたい時に死ぬこともできないのか……」
桜井は腹立ち紛れに言い、自分の運命を呪った。
絵里から連絡があったのは、午後十一時を過ぎた頃であった。イギリスからであった。絵里は、桜井が帰国する前日にイギリスに発ったのである。
桜井は、受話器を取りながらのそのそと起き上がり、気取られないように懸命に取り繕うのだった。
絵里は国際線の客室乗務員、二人は、桜井が最初に中東域に赴く際、飛行機の中で出会った。桜井の一目惚れだった。
傲慢にも、絵里の笑顔が全て自分に向けられているような気がしたのだが、その傲慢さが、桜井を殊更積極的にさせたのである。
恐れ多くも、桜井は、“下界”で絵里に再会を申し出たのであった。
絵里は、桜井のどこが気に入ったのか、笑顔を返しながらその場で承諾したのである。
縁は異なものとは言え、麗しき国際線の客室乗務員と無骨なカメラマンの取り合わせは、大いに不釣合いに見えたに違いない。
だが、二人の精神的絆の深さを知れば、ただただ羨むばかりであろう。その二人が、渋谷で最初のデートを交わしてから、もう六年になる。
二人は、職業柄すれ違う事が多く、互いに会えるのは月一回程度ではあった。
だが、それがいつまでも新鮮さを保ち、二人の関係が長続きしている秘訣なのかも知れない。
人の絆は、一緒にいる時間の長さや、いつでも逢える距離にいることで強まるわけではない。絆は、互いに思いやる気持ちの深さと、短くともどれほど濃密な時間を過ごせたかで、強くなっていくものである。
そうして六年を過ごしてきた二人は、ありきたりの恋愛関係を超越した関係にあった。
そうであっても、誰もが長い春を罪悪と悩み、早く長過ぎた春に終止符を打ちたいと思うように、桜井とて、何度も真剣に絵里と一緒になることを考えたのだった。
だが、桜井は、いつ戦地の藻屑と消えるかも知れない身を思うと、どうしても踏ん切りがつかなかったのである。
それは、偏に男として身勝手で都合の良い言い訳に過ぎなかったが、絵里は、そんな煮え切らない桜井に対して、小言一つ言うことはなかった。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「いや、なんでもない。少し、疲れているだけだ」
桜井は、絵里に初めて嘘をついた。
「そう……今度、会えるのはいつ?」
「分からない」
桜井は、感情を殺して言った。
絵里は三日後に帰国するといった。桜井は、三日後に長崎に発つと言った。
結局、いつ会うとも約さずに電話を切った。
絵里は、いつになくよそよそしい桜井の態度を不審に思ったに違いないが、桜井にとっては精一杯の演技であった。
今日は切り抜けたが、絵里に面と向かった時に言い逃れることが出来るか、桜井には自信がない。
恐らく、絵里は、即座に桜井の嘘を見抜き、問い詰めるに違いない。
「ふぅ」
桜井は身体を起こし、深い溜息をついた。
居間の壁面の仕掛け時計を見やれば、午前十二時を指そうとしている。あと一、二分で文字盤の中に仕掛けられたピエロ達が踊りだす。
転寝が少しは効果があったらしい。幾分、体力が回復している。
その所為か、今まで押さえ込んでいた飲兵衛の蟲達が一挙に噴出してくる。酒が、堪らなく欲しくなったのである。まさしく、禁断症状であった。
戦地では、平穏な一時に、現地の酒をちびりちびりと飲る程度であった。だが、その程度では精神安定剤の代わりにもならず、却ってストレスが増すばかりであった。
かといって、戦地で酔い潰れるほど酒を身体に取り込めるはずもない。それは死を意味するからである。
その反動で、戦地から帰還後は、酒を浴びるほど飲みストレスを発散するという、悪癖が続いていたのである。
運命に弄ばれる中でも酒を身体に取り込もうとするのは、アル中一歩手前の救いようのない飲兵衛の、卑しくも悲しい性と言うべきか。
いや、単に、十ヵ月後には地獄を彷徨う運命であると、自暴自棄になった愚か者なのだろう。
桜井は徐に立ち上がると、車のキーをデスクの抽斗から取り出し部屋を出た。
時代物のジープに乗り込みエンジンをスタートさせ、数キロ先の行き着けのコンビニまで車を走らせる。
その店は、順礼街道と呼ばれる道沿いにあり、もともとは、個人経営の酒屋であった。
酒税法の改正で、今や大概の店が酒を扱っているが、その店は、扱う酒の種類が他になく豊富であった。何より、桜井の好む日本酒の種類が揃っていたのである。
目当ての店まで、あと五、六分という距離であった。
そこは、少しきついS字カーブ。最初の左カーブを過ぎようとする時だった、突如、強烈な光が桜井を襲った。
「うっ!」
桜井は反射的に目を固く瞑り、ブレーキを強く踏んだ。タイヤが悲鳴を上げて、車が停車する。
旧式のディーゼルエンジンの鼓動が、静まりかえった暗闇に反響している。幸いに、何処にも衝突せずに済んだらしい。
桜井は恐る恐る目を開けたが、強烈な光の残像が目の奥に残りよく見えない。
ただ、強烈な光を放つような光源を感じることはなく、ヘッドライトが照らす先にぼんやりと薄暗い赤色の影は見えたのである。
「何なんだ、……ったく」
桜井は吐き捨てるように言い、目頭を押さえた。
暫くすると、目の奥の光の残像が徐々に薄れ、視力が回復していく。桜井はフロントウインドウ越しに辺りを探ったが、強烈な光を放つ光源は見当たらない。
桜井が入り込んだのは、駐車場であった。正面の薄暗い赤色の光を発する影は、建物であった。それも、何かの店らしい。
ここは、何年か前に某企業の社宅が取り壊された後、長い間空き地だった。
今年に入って建築工事を着工し最近立ち上がったのだろうが、海外赴任の多い桜井は、ちょっとした町の変化にも気付かないのだろう。
桜井はエンジンを止め、車の重いドアを開けて駐車場に降り立った。
くすんだ赤色の地に黒い縁取りという看板の右上と右下に、ミミズが這ったような文字が浮き出ている。
「ヘル……マート……、酒……」
桜井は、想像力を働かせて浮き出た文字を読みとった。
赤色看板の明かりは薄暗い上に、看板の内側に大量の蝋燭が灯されているかのように、小刻みにちらちら揺れている。
店舗前面には看板と同じようなくすんだ赤色のガラスが張られ、その真ん中には黒く枠取りされた扉がある。
その面構えは、いかがわしい会員制クラブのような妖しく、薄気味悪い雰囲気を醸し出していた。
「酒屋なのか、ここは……」
桜井は、吸い込まれるように入口に向かって歩みを進めた。そして、扉を押し開けて、店内に足を踏み入れた、その刹那――
「なんだ、この店は」
桜井は、店内の異様な光景に我が眼を疑った。
六十坪くらいの広さのフロアには、全面、艶々のブラックのタイルが敷き詰められ、其処から、一重或いは二重の傘をもった白い茸が、幾つも幾つも生えているではないか。
壁面と天井は白一色。それも、茸の色とは微妙に違う、少しくすんだ白である。
それとなく戸口辺りの壁面を触ってみると、何か特殊な材質なのだろうか、妙につるつるとした感触がする。
桜井は、店内に入り込み右側へ、白い茸の合間を進んだ。
白い茸は、巧妙に作られた陳列什器であった。茸の傘の表面に触れてみると、低反発素材のような弾力性があり、それ自体が滑り止めになっている。
商品毎の陳列の量は、茸の傘に沿って二つか多くても三つ、寝かせていたり立たせていたり、はたまた斜めにしたりと、まるで子供が悪戯したように秩序が無い。
だが、その秩序の無さが妙に斬新に目に映るのである。
商品は国内産のポピュラー品もあるのだが、横文字の包材が多く、その中にはどの国のものなのか判別できない文字もある。
突き当たりの右壁面には、黒枠のリーチインケースが続いている。桜井は、引き寄せられるようにケースに近づいた。
高さ六尺、幅三尺のケースが十六本、そのうち十五本は酒類、あとの一本は、これも洋物の、多くは出生地不明のチーズ類で溢れている。
さらに、高さ一メートル半、直径一メートルくらいありそうな円錐形の塔の什器も使って、陳列してあるのだった。
この“塔”に陳列してあるのは、ワインらしい。桜井が知見のある銘柄のワインが何本かあった。
レジ脇の壁面の陳列棚には、様々な大きさ・形のグラス、プレート、ボール等の器の類が、陳列棚前方の茸形の什器には、栓抜き、スプーン、フォーク等が、茸の傘に沿って整然と陳列されている。
スプーン、フォークの類は見るからに銀製らしく、ステンレス製とはそもそも輝きが違っている。柄端はスネークヘッドのように広がり、そこにGの花文字の刻印があったのだが、メーカー名は分からない。かなりの年代物のように見える。
桜井と同様に、この奇妙な店に初めて足を踏み入れた二人の先客が、冷ケース前を右左に忙しく動き、好みの酒を物色中であった。この二人も、相当、酒好きのようである。
「すげえや、何でもあるぜ」
若い方の男が、感心しきりに言った。
「本当だ! 見ろよ、俺の好きな酒もあるぜ」
少し年上の男が、そう言いながらケースのガラス越しに“冷酒”を指差している。
「しかも、ディスカウントより安いぜ、二千円もしねぇ。おや? こんな酒、見たことねぇな。これも、あれも、それも、いったい、何語だありゃ、ラベルに何て書いてあるんだ?」
若い方の男は、目を輝かせて言った。
「んなこと、分かるわけねぇだろ。とにかく、適当に見繕って飲んでみようぜ」
「おぅ! ったく、酒の展覧会だぜ!」
若い方の男が手を叩いてはしゃいでいると、少し年上の男が何箇所かのケースの扉を開けて酒を取り出し始めた。
若い方の男が少し年上の男に倣い酒を数本取り出し抱えると、二人はいそいそとレジに持っていった。
桜井は、先客が去った後の空間を占有し、ケースの中にある酒類をよくよく観察した。
確かに、あの男のように、酒の展覧会と言ってもおこがましくない。
ここは焼酎、チューハイ、ここはビールのコーナー、そして冷酒、カクテル、シャンパンなどなど、今トレンドの酒類ということもあり、その多くが桜井も知っている銘柄であった。それでも、見たことが無い銘柄が何種類もある。
冷ケース前の茸形の什器には、世界各国のウィスキー、ウォッカ、ブランデー、バーボン、ハイボール、紹興酒、シェリー酒、果てはどぶろくと思われるものまで揃っている。
桜井が好む日本酒の銘柄も、しっかり陳列されてある。この日本酒は、作り酒屋のこだわりで、数量限定でしか醸造しない酒であった。
この日本酒は、この辺りでは、この先のコンビニでしか扱っていない代物だったのである。しかも、そのコンビニでさえ、時折置いていないことがあった。
桜井は、酒類を観察しながら、次第に興奮を覚えてきた。酒に関しては、誰より詳しいものと自負してきた桜井であった。
とりわけ、中東地域で飲まれている酒に関しては、相当の見識があると自負していた。
しかし、ここにある、出自が中東と思われる数十種類の酒の中で、桜井の知っている銘柄のものは七つか八つしかない。あとは、ほとんど見聞きしたことのない銘柄であった。
「こ、これは」 桜井は、舌を巻いた。
と、その時――
「君、レジをやってくれぬか。そっちは、後で私が始末する」 背後から、命令口調の声が聞こえた。何とも、いがらっぽい声である。
スウィングドアの向こうから、穴倉にでもいるようなくぐもった声で『はーい』という若い女の声がしたかと思うと、その声が価格を読み上げ始めた。
「ここにある酒は、世界中から集めよったものです」
唐突に、背後からあのいがらっぽい声が聞こえた。イントネーションが、少し耳障りであった。
「えっ?」
桜井は、怪訝な顔を声の主の方に向けた。
そのオーナーと思しきは、六十年配の色黒の顔面に白髪というコントラストが妙で、鷲鼻で眼がギロリとした独特の風貌をしている。
「そうですか、世界中から。それにしても、見事ですね。これだけの酒を集めるとは。いったい、どうやって?」
「うふふっ、さすがに、お目が高いですな。こう見えても、彼方此方にいろいろ伝がありましてな」
「なるほど、伝ですか」
桜井はケースに向き直り、頷きながら感心を表にした。
「で、中東周辺の酒に、興味がおありで?」
「えぇ、まぁ。仕事の関係で、少しばかり知っているだけですが」
「へぇ―、お仕事の関係で。よくあちらに行きなさるので?」
「年に数回は。つい先ほど、イラクから帰宅したばかりです」
「そりゃ、まぁ! 実は、私は以前、中東周辺に住んどったことがありましてな」
「ほう、どの辺りに?」
「イラク、クェート、イラン、アブダビ、アフガニスタン、それにイスラエルを転々としとりました」
「やっぱり、仕事で、ですか?」
「いやいや。ひょんなことで若い時分に向こうに渡って以来、住みつくようになりましてな。向こうの水が性にあったのでしょうな、きっと。
とはいうものの、もう歳も歳ですし、さすがに故郷が恋しくなりまして。半年前に戻り、向こうで稼いだ金を元手に、この店を開いたというわけです」
そう言うと、オーナーはニタリとした。
「向こうの水が性に合う、ですか……私も、ここ六年、一年のうちの半分は中東周辺で暮らしていますから、考えてみると、向こうの生活が性に合っているのかも知れませんね」
「なるほど、そちらとは、ご縁がありそうですな」
オーナーは、桜井が聞き取れないほどの囁き声で言った。
「ところで……」
と前置きし、桜井はオーナーの顔色を伺いながら続けた。
「へル・マートとは、どういう意味なのですか」
「うふふっ」
と、オーナーはまた鼻で笑う。
「 “ヘル”は、英語のハローの略語、でしてな」
「つまり、 “こんにちは”ですか」
「さようです」
それだったら、ハロー・マートと命名すりゃいいのに、紛らわしい。
「しかし、個性的に造られたお店ですね。驚きました」
桜井は、慣れない世辞を言った。
「これはこれは、またまた、お褒めに預かりまして」
「それに、酒好きには、たまらない店でしょうね」
「そうでしょうとも! ここに無い“水”がご所望でしたら、お申しつけください。すぐに、手配いたしますよ」
「オーナー、バックルームにあれが……」
若い女の店員が、レジを打ちながら言った。
「おぅ、そうだったな。今、すぐ始末する。お客さん、ちょっと、お待ちいただけますかな」
そう言うと、オーナーは、桜井の返事を待たずに、レジの背後にあるスイングドアからバックルームに姿を消した。
スイングドアの向こうから、何かをずるずると引き摺るような奇妙な音が聞こえてきたが、桜井は在庫品のチェックでもしているのだろうと、さして気にも留めなかった。
しばらくすると、オーナーがスイングドアを開けて戻ってきた。
「やれやれ、オーナーといっても雑用係と同じでしてな」
と言いながら、オーナーは着衣を直す。
「ところで……これも何かのご縁、どうですかな、新しい水が入ったので試しに飲まれてみては」
「試飲、ですか……」
と、桜井は考え込む素振りを見せた。
「きっと、満足いただけますよ。さぁ、どうぞ」
オーナーは、平手で入口を指し示し誘った。
「……折角ですから、ご相伴に預かりますか」
桜井に断る理由はない。
オーナーはニヤリとして桜井を見やると、すーっと扉の向こうに消えた。桜井は慌てて、オーナーの後を追う。
意外に重いスイング式の扉を押して入ると、中は薄暗く、別世界のようにひんやりとしている。まるで、四方を氷の壁で囲まれているかのようであった。
桜井は思わず、上着の両襟を窄めた。
「なんだ、この寒さは」
ふと足元を見れば、其処は、一辺が二メートルほどの五角形の踊り場であった。
正面には、階段が下へと続いている。左方は壁である。
右方は、踊り場より少しばかり広そうな部屋が続いている。其処は倉庫のようで、幾つかの在庫品と思しきダンボール箱が収めてある。
天井には薄暗いオレンジ色の照明が吊るされていて、それが一メートル程の等間隔で倉庫の部屋、そして階段へと続いている。
「こちらですよ」
姿は見えないが、階段の下方から押し出されるように、くぐもった、いがらっぽい声が聞こえてきた。
桜井は、誘われるままに階段を降り始めた。オーナーは、下方の踊り場らしきに立ち、降りてくる桜井を見上げている。その距離は、階段にして三十段ほどであろうか。
桜井は、オーナーのいる踊り場に降り立つと、階段を見上げた。
「随分、下に降りるんですね」
「このくらいの深さがないと、“水”の品質が保てませんでな。さぁて……」
と言って、オーナーは左方の壁の正面に立った。
「此処ですよ」
オーナーが五角形の一辺の壁に手を翳すと、扉がスルスルと左から右に開く。
桜井は一瞬怯んだ。目の前には真っ暗な闇。暗闇が、見知らぬ者の侵入を拒否しているかのようである。
「なぁに、壁に埋め込まれたセンサーが感応して、扉が開き照明が点灯するという簡単な仕掛けでしてな」
と、オーナーは注釈をつけ、躊躇うことなく暗闇の中に入っていく。だが、桜井は暗闇に気圧され、足が前に進まない。
「さぁ、中へ」
暗闇の中で、オーナーの呼び声がした。
すると、それが合図のように、手前から例の薄暗いオレンジ色の照明が徐々に点灯し始め、広い空間が浮かび上がったのである。
「ここは、いったい……」
桜井は、呆気にとられその場に立ちすくんだ。
この部屋も五角形であった。しかも、一辺が七、八メートルはある。床から天井までは、少なくとも十メートルはあるだろう。
床は、石炭を敷き詰めたようにごつごつとし、天井も、床と同じような態をなしているように見えた。
床の中央には、巨木の幹を切り出したような大きく円いテーブルと、その周りに枯れ枝で組まれたような椅子が数脚置いてある。
このテーブルと椅子も石炭のように黒く、その脚は、ごつごつとした床に埋め込まれているかのようである。
圧巻は、全壁面にびっしりと、人腕の太さほどの赤黒い蔦が網の目のように張りつき、その蔦の間に間に、抱え込まれたように収められている色とりどりの様々な形をした瓶であった。蔦は瓶のラックの用を果たし、挟まれている瓶の本数も、二百や三百ではきくまい。
「さぁ、中へ、お入りなさい」
オーナーは、慇懃な口調で言った。桜井は、何かに引かれるように、二三歩中に入り込む。扉が、スーと音もなく閉じられた。
「どうです、素晴らしいでしょう」
オーナーは大袈裟に大手を広げて言った。
「世界広しと言えども、これだけのコレクションはないでしょうな」
オーナーは、舐めるような声音で言った。
「信じ、られない……」
「何しろ、此処にある水は、この世に一本しかない代物ですからな」
「この世に、一本しか、ない……」
「さよう。それに……売り物でも、ありませんでな」
「売り物、じゃない? と、言うと?」
「取って置きのお客様にだけ、振舞うのですよ」
と言って、オーナーは、蔦の間に挟まれた鮮やかなグリーンの一升瓶を取り、テーブルに置いた。
そして、テーブルの下を何やらもぞもぞとすると、グラスを取り出し一升瓶の脇に置いた。一升瓶の栓を抜き、白っぽい液体をグラスになみなみと注ぐ。
「取って置きの、お客様……」
桜井は、呟くように言った。
「そう、あなたのようなね。さぁ、こちらの水です。きっと、ご満足いただけますよ」
オーナーはグラスを手指し、桜井に促した。
「これは、なんという、酒で?」
桜井は訝しげに問いながら、グラスを持った。
「これですか、これは、ですな……」
と言って、オーナーは思わせぶりに、桜井に視線を向けた。
「 “命の水”と言いましてな。なかなか美味ですよ」
「い、命の、水?」
その言葉を聞いた直後だった。おぞましい記憶が次々と呼び覚まされ、桜井の表情はみるみる恐怖の色に変わっていく。気が付くと、手がぶるぶると震えだしていた。
「どうか、されましたかな?」
オーナーは、そう言いつつも、獲物が怯える様子を面白がっているかのようであった。
「こ、ここは……」
桜井は、震えるグラスを無造作にテーブルに置いた。その弾みに、グラスから水が零れ落ちる。
「……入口なのか、地獄の」
「くっくくく、ようやく、分かったようだな」
オーナーは豹変して不敵に笑うと、両掌を後ろで組んだ。
「そ、そうか、貴様は、あの時の……」
桜井は怯えた表情をすると、後じさりを始めた。
「二度も会えるとは、これも縁というものだろうよ」
オーナーは詰め寄った。桜井は足を縺れさせながら、さらにじりじりと後じさる。
そのまま、向壁の蔦が背中に突き当たると、崩れ落ちるように尻餅をついた。桜井の顔は、すでに血の気を失っている。
桜井の狼狽えぶりを愉しむように、オーナーは薄笑いを浮かべている。その眼は、もはや獲物を捕らえた獣の眼であった。
オーナーは、やおら一升瓶を手に取りグラスに水を注ぎ足す。水は、今にも溢れんばかりである。
「俺に、飲めと言うのか、その水を」
桜井は、唇を痙攣させている。オーナーは、無言のまま桜井を睨みつけている。
「……馬鹿な、二人とも水を飲まなければ、地獄に落ちるのは俺だけだ。だったら、俺が、水を飲むわけがないじゃないか」
桜井は、声を張り上げた。
「さぁて、それはどうかな」
オーナーは、ニタリとした。
「なに? どういう事だ、それは」
「あんたの良い人の名は、絵里といったかな。なかなか恋人思いの女性だな」
「何だと、どうして、絵里を知っているんだ」
オーナーは、無言で桜井を睨み付ける。
「も、もしや、絵里は、此処に来たのか」
桜井が言うと、オーナーは頷いた。桜井は、よろよろと立ち上がる。
「ま、まさか……、絵里は、の、飲んだのか、この水を」
「そうだよ、この入口でな」
と、オーナーは醜悪な表情をみせる。
「そんな、ばかな……」
桜井は、愕然として頭を抱えた。
「……絵里は、どうやって、此処に来たんだ」
桜井は、空間をよたよたと歩き回る。
「七日前のことだ。あんたの恋人を、此処に導いてやったのだよ。そして、教えてやった。地獄をな、あんたの身代わりということを、あんたを助けるためには、水を飲まなければならないことをな。あんたの恋人は、とっても素直だったよ」
オーナーは卑屈に笑った。
「そうか……貴様、何も知らない絵里を此処に誘い入れ、騙して水を飲ませたんだな」
桜井は、怒りに任せて、今にもオーナーに掴みかかろうとする気配であった。異変が起きたのは、その時だった――
「わぁっ!」
低い悲鳴とともに、桜井の身体は宙を舞っていた。何か得体の知れない強い力が働き、向壁まで跳ね飛ばされたのである。
だが、密集した蔦がクッションの役割を果たし、桜井は軽い打撲程度でかすり傷一つ負わずに済んだ。
蔦に支えられるように床にずり落ちた桜井は、背中を打った拍子に少し息を詰まらせてふらついてはいるが、その場に立ち上がった。
「く、くそっ!」
桜井は、息を荒げて言った。
「あまり、じたばたしないことだな。あんたがこの水を飲まなければ、二人とも地獄に行くことになるのだからな」
オーナーは、宣告するように言った。
「それにしても、騙したとは心外だな。良いことを教えてやろう。入口を望んだのはあんたの恋人なのだよ」
「なに、絵里が、入口を望んだだと? 嘘を言え!」
桜井は、大声を張り上げる。
「これも、趣向の一つでな。身代わりが望めば、入口は現れるのだよ」
「趣向の一つだと……」
「あんたの恋人は、あんたを助けるために入口が現れることを望み、此処で水を飲んだということだ。わしは、その手助けをしただけのことだよ。
それにもう一つ。水は二人同時に飲まなければ効き目がないように思っているようだが、二人が同時に飲む必要はないのだよ。但し、二人が水を飲む間隔はあまり空けてはならんがな」
「それは、どういうことなんだ」
「飲まなかった時と同じ運命が待っている、ということだよ。二人とも地獄行きということだ」
「まったく、どこまで都合よく、出来ているんだ」
「これは、言うなれば、我等の感謝の気持ちというものだよ。我等の生贄たる人間へのな。くっくくく……」
オーナーはえげつなく笑った。
「何が感謝の気持ちだ、ふざけたことを言いやがって。この外道めが」
桜井は口汚く罵ると、オーナーを憎憎しく睨み付けた。
「外道、ときたか。流石に怒ったようだな。だが、あまり上っ面なきれいごとは言わんことだ。なんと言おうと、あんたは、これを飲んで生き延びるのだろうからな」
オーナーは平然として言い、続ける。
「しかし、やっぱり、人間は実に興味深い存在だな。
愛する者のために、自らを犠牲にする事を厭わんのだからな。ぞくぞくするほど刺激的というものだよ。
それに、その愛情とやらが深ければ深いほど、生贄としての価値も高まるというものだしな」 そう言い終えると、マスターは至福の時を迎えたように悦に入った。
「畜生、なんて奴だ」
桜井は力なく言いながら、崩れるように床に座り込んだ。
オーナーは、桜井を見下し下種しく笑っている。その貌が、一瞬、おそろしい形相に変幻したのは、その時だった。
「き、貴様は、一体……」
五
絵里が水を飲んだ以上、桜井は水を飲むしかない。自明の理だった。
そうすれば、桜井の寿命は戻り、絵里はこの世であと一年の寿命となる。その後は、絵里の身代わりを探し出し、水を飲ませるしかない。
こうして、桜井は、心ならずも未来永劫続く連鎖の片棒を担ぐのである。
オーナー、いや、入口の番人は円卓の椅子に座り、桜井を睨み付けながら凶悪な相を見せている。
「さぁ、お飲み。愛しい恋人のためだよ」
番人の声の調子だけは、おどけている。いつの間にか入口が閉ざされ、蔦がびっしりと張り付いている。
そればかりではない。血管のように張りめぐられた蔦が、ミシミシ、ヒュルヒュルという音を発しながら、蔦の間に間に挟み込まれた瓶を覆い始めているのだった。
蔦は、異常な成長速度をもった不気味は生き物のようであった。
「何なんだ、これは」
「 “血脈”が瓶を覆いつくす前に、この水を飲むのだよ」
と、番人はしきりに誘い水を掛ける。
「血脈……」
桜井は、蔦が瓶を覆い尽くして行く様を呆然として見ていた。
蔦が瓶を覆う速度は、次第に速くなっている。桜井は、時間が迫っていることを知った。
このまま何もせずにいれば、程なくしてこの空間は地獄に呑み込まれる。まず桜井を呑み込み、次には絵里をも呑み込んでしまう。
しかも、現空間にある絵里は、異空間に引きずりこまれる際に生ずる歪力で、無残にも身体をバラバラに引きちぎられ、そのまま地獄に落とされることになるのだ。
こうしている僅かな間にも、四方八方にある瓶が、あれよあれよという間に蔦に覆われていく。
蔦が瓶を覆いつくしながら発する、ミシミシ、ヒュルヒュルという異様な音が不協和音のように部屋中に響く。
桜井はのろのろと立ち上がった。円卓になみなみと注がれたグラスを睨み付けると、円卓に近づいていく。
「さぁ、飲め」
番人は、グラスを円卓の端に寄せた。桜井は、テーブルの手前で止まった。グラスは、すぐ手に届く距離にある。
ミシミシ、ヒュルヒュルという音が、耳を劈く。
桜井は、一瞬、耳を覆いたくなる衝動に駆られた。だが、一度耳を覆ってしまえば、リミットまでに水は飲めなくなる。
耳を覆いたくなる衝動を抑えながら、桜井はグラスを手に持ち水を啜り始めた。
ゆっくり、ゆっくり喉に流し込み、最後の一滴まで飲み干すと、グラスをテーブルに置いた。妙な甘ったるさが舌に残る。
「くっくくく、どうだったかな、お味の方は。なかなかのものだろう」
「そんな事は、どうでもいい。もういいだろう、俺を、此処から出せ」
「そう、慌てないことだ。これからが、本番だからな」
と言って、番人は桜井の飲んだグラスを掴み取った。
「これからが、本番?」
「そうだよ。あんたには、最後まで見届けてもらわなきゃならんのだよ」
番人は言い終えると、グラスを持った腕を振り上げ、蔦に向かって勢いよく投げた。
グラスは、蔦に覆われる寸前の瓶に命中し、瓶もろとも砕け散った。割れた瓶から、ライトグリーンの得体の知れない液体が流れ出し、床に広がっていく。
「何をするんだ!」
桜井は、声高に言った。
すでに耳を劈くような音は潜まり、空間は不気味な静寂に包まれている。瓶の全てが、血脈に覆いつくされていた。
番人は桜井を誘うように、天井に目を馳せた。見れば、五角形の天井が、ゆらゆらと波打ち始めている。
「一体、何が起こるんだ、これから」
桜井は、天井を見上げながら、慄いた。
その直後であった。
波打つ天井の中心部が、ゆっくりと右に渦巻き始めたのである。桜井は、嘗て迷い込んだ入口での恐ろしい体験を想起していた。
渦の回転は秒単位で速くなっていく、そして、大きくなっていく。渦は、瞬く間に五角形の内輪一杯に広がった。
突然、渦は狂ったように回転を始めたかと思いきや、急停止のように止まる。
それを何度か繰り返すと、渦は狂回転の余韻を残すように、ゆらゆらと、大きく、波打ち始めた。
それも束の間、上から吸い上げられるように、ぽっかりと、大きな穴が開いたのである。穴の向こうは、無限に続く暗黒の空間である。
奇妙なことに、床に流れ出したライトグリーンの液体が、すーっと一筋の糸となって穴に吸い込まれていく。
糸筋は、液体の溜りから連続的に頭を擡げ、徐々に、徐々に吸い込まれていく。桜井は、口をあんぐりと開けて、糸筋を目で追う。
最後の一筋が、吸い込まれた瞬間だった――
突如、轟音を発し、部屋の大気が、凄まじい勢いで穴から放出され始めたのである。
「うぁっ!」
桜井は、咄嗟に円卓の下に平伏し脚にしがみ付いた。番人は薄笑いを浮かべ、悠然として天井を見上げている。
轟音に混じって、地の底から湧き上がるような呻き声が聞こえてきたのは、その時だった。
同時に、何かが剥ぎ取られようとしているような、めりめりという音が四方八方から聞こえてきたのである。
その音は、すぐさま、ばり、ばりという音に変わっていく。張り付いた蔦が次々と壁から剥ぎ取られ、穴に呑み込まれていたのであった。
最後の蔦の塊が、挑発するように穴の手前でぐるぐると廻っている。だが、直後一瞬にして穴から噴出され、闇の世界に消えていった。
あとに残ったのは、また、あの不気味な静寂。
穴は、未だぽっかりと開き、周辺はゆらゆらと波打っている。
桜井は、よろよろと身体を起こし、円卓に手を掛けた。目をぎょろ付かせ、辺りの様子を伺う。
番人は腕を組み、面白がるような視線を桜井に向け、円卓の向こうに立っている。
蔦がすっかり剥がされた壁面は、床と同様に、石炭を敷き詰めたようにごつごつしている。
桜井は、おどおどしながら立ち上がった。
すると、次には、天井のうねりが、砂浜に打ち寄せる波のように床に向かって壁を伝播し始めたのである。
「今度は、何だ」
桜井は、悲痛に叫んだ。
ゆらゆらと壁を伝わり、程なくして床にぶつかると、自らを緩衝させるように裾を歪ませた。
その拍子に、うねりは床にも伝播し、桜井の足元に迫る。桜井は、思わず後じさった。
だが、背後は揺らぐ壁。
桜井が躊躇していると、うねりは桜井の踝から下を浸して通過し、背後の壁面のうねりにぶつかり融合した。この空間全体が、これから恐ろしい事態が惹起する事を暗示するかのようにゆらゆらとうねる。
次第に、うねりに同化するように石炭を敷き詰めたようなごつごつとした肌が透き通り始め、目の前に、徐々に黄濁とした空間が広がって行った。
桜井は目を凝らした。一見、濁った黄色の霧が立ち込めているだけの空間のようだが、
霧の中に、何やら蠢く物の気配がした。
いや、確かに、何かがいる。桜井は、正面の壁の向こうの空間の一点を凝視した。薄っすらとした黒い影は、右に左に素早く動いている。
「あれは、いったい……」
桜井は、素早く動く影を目で追いながら言った。
その時である。おぞましい貌が、透き通った壁に映し出されたのだ。
その貌は、薄汚い灰黒色、眼は黒目ばかりで大きく見開き、唇は下卑にめくり上がり、鼻が崩れかけた化け物だった。
化け物は口をぱくぱくさせ、白目のない眼を忙しなくぎょろ付かせている。
桜井はぎょっとし、身構えた。はっとして、天井を見上げる。天井には、いまだにぽっかりと穴が開いている。その隙に、化け物は苦悶の表情を見せ、霧の中に消えた。
「な、何なんだ、あの、化け物は」
「あれか? くっくくく……あれはな、今はあんな姿だが、もとは人間だよ。生贄の成れの果てだ」
「あの化け物が、人間……生贄の、成れの果てだと……」
桜井の表情が、恐怖に満たされる。
「想像を絶する地獄の恐怖の中で、何十年も逃げ回っていれば、人間は、みんな、ああなる」
「な、なに、向こうは、地獄だというのか……」
「あぁ、そうだよ。地獄の餌場、だがな」
「地獄の、餌場……」
「地獄に棲む魔物の餌場だよ。生贄は、ここで奴らの餌になる運命なのだよ」
「餌になる、運命……」
あの化け物が、再び、壁に醜い貌をへばり付けてきた。
今度は、怯えた表情を見せながら、桜井に視線を向ける。桜井には、救いを求めているように 見えた。だがその表情は、すぐさま苦悶に変わり、また霧の中に消えた。
「哀れだな。あいつはいずれ奴らに捕まり、頭から足の先まで全て喰い尽くされる。
その魂は、終焉の地獄といわれるおぞましい空間に追いやられるのだ。そして、永久に苦しむことになるのだからな。
それにしても、生贄が地獄の餌場で今まで逃げ果せているとは、運の良いことだ」
そう言うと、番人は嗤った。
「酷、すぎる……」
桜井の目には、化け物の苦悶の表情が焼きついている。
「奴らは、人間が何に執着するかよく心得ていてな。そのために、様々な趣向を凝らすのだよ。特に、餌がどうしたら美味くなるのか、感心するほど知っていてな」
番人は、酷薄な表情をして言った。
「貴様らは、どこまで下劣なんだ、どこまで人間を食い物にすれば、気が済むんだ」
桜井は、やり場のない怒りで打ち震えていた。
そうしている間に、霧が幕を引くように、すーっと退いていく。そこには、暗闇の世界が広がった。
桜井は、怯えるような目で天井を見上げた。穴は大きな空気孔のように、相変わらずぽっかりと開いている。
「心配はいらん。此処は、まだ現世に通じる空間なのだよ。このうねりは、地獄と現世とを隔絶している安全壁でな。奴らは、ここには入っては来れん。
腐り毒された大気の中で生きている奴らは、現世の澄んだ大気の中では生きられないのだよ。奴らが現世の大気に触れれば、蝋のように蕩けて消えて無くなる運命なのだ。
……さぁて、プロローグは終わっていよいよだな。よく見ておくんだな、地獄の一景を」
そう言うと、番人はいやらしく相好を崩した。
六
桜井は一心に瞳に光を集めようとし、次第に、その目が暗闇の世界に慣れてくる。
しばらくすると、暗闇の世界が赤黒い薄明かりに照らし出され、怪しく烟る。
遠く向こうに、小高い丘のようなものがいくつも見える。手前の地表では、何かがかすかに蠢いてるようなのだが、識別できない。
ぽっとんという、深井戸に石塊が落ちたような音が響いた時だった。何処からともなく、影が幾つも現れ出した。
大岩のように厳ついその影は、自らの存在を誇示するかのように、辺りをふらつく。
彼奴等は、両手に何かを掴んでいる、何物かを引き摺っている。
地中からは、幾つもの巨躯が土蜘蛛のように這い出してくる。そいつらも、辺りをふらふらと徘徊し始めた。
時折、身体を折り曲げ地上の何物かを掴み上げると、口に運んでいる。
そのままその場に坐り込んで、何物かに手を伸ばし引き寄せ、むしゃむしゃとほうばる輩もある。
突然、子供の拳骨ほどの幾つもの赤い塊が、縦横無尽に飛び交い始めた。
赤い塊は、尾の筋を残しながら、上へ下へ、右へ左へ、果たして斜に、そして弧を描き、凡そ三次元の空間では有り得ない、トリッキーな動きを見せている。
赤い塊の一つが、坐り込んでいる巨躯の頭部と思しきに衝突した時であった。
それは爆雷のように破裂し、周辺に鮮やかに光を放つ血色の液体が迸った。
一瞬にして巨躯の全身が血色の液体に覆われ、グロテスクな容姿が顕わになった。
彼奴は、全身に毬栗のようなみにくい疣のある一眼の魔物であった。
人間のように、二の腕二の足はあるものの、四足の巨獣が立ち上がったような体躯をしている。
鼻梁はなく顔面の真中に歪な穴が二つ、口は人の頭を丸呑みできるほど大きく広がり、口中には鮫の歯のような鋭利な歯が密集している。
赤い塊は、次々と魔物目掛けて衝突していった。
その度に、爆雷のように破裂し、辺りに血色の液体がばら撒かれ、この空間の正体を暴いていくのであった。
ばら撒かれた血色の液体がヒカリ苔のように発光し、周辺の地表をうっすらと照らし出したのである。
「あぁぁぁ……なんという、ことだ……」
桜井は衝撃のあまり絶叫し、くず折れそうになった。
なんという、おぞましい情景であろう。地表で蠢いていたのは、引きちぎられた人間の手足、 胴体、頚であった。それらが、そこらじゅうにごろごろとしている。
頸は恨めしそうに白目を剥き、大きく口を開けて喘いでいる。失った胴体、手足を探しているかのようにも見える。
彼奴等は、人間を喰らっていた。だが、一口喰らっては放り投げ、決して全て食いつくそうとはしない。
「此処では、たとえ肉一片になっても生き続けるのだよ。それにな、ここの腐った大気に晒されるほど、肉の旨味が増すというものでな。ほれ、あれは、つい昨日堕ちてきた餌だよ」
番人は、地表を這い蹲る物体を指差した。その物体は、坐り込んでいる魔物の膝元を、もぞもぞと進んでいる。
と、魔物が物体を鷲づかみし軽々と持ち上げた。それは、両足のない哀れな人間であった。
魔物は餌の右腕にかぶりつくと、顎をぐいと捻り引きちぎった。
そして、胴体をそこいらへぽいと捨てる。
胴体は、片側の三本の足をもがれた昆虫のように、左腕をバタつかせながらのた打ち回っている。
今度は、別の魔物が、のた打ち回る胴体をひょいと持ち上げ左腕を引きちぎり、小高い丘に向かって放り投げた。頸の付いた胴体は、無重力の空間を飛ぶように流れていく。
そうしているうちに、ヒカリ苔の光度は弱まり、光の範囲が萎んでいった。
桜井は、その様子を見ている間に、おぞましい疑念が脳裏に浮かんだ。
向こうに幾つもある小高い丘は、人間の骸の山なのか……。
おぞましい情景から目をそむけようとしてもそむけられず、桜井の疑念は確信へと変わっていく。
何万、何十万という生贄の肉叢は、この広大な地獄の餌場を覆いつくし、狂おしいまでの腐臭を漂わせ――、
この、邪念と怨念で埋め尽くされた空間は、一瞬にして人間の理性や感情の全てを奪うほど毒されているのだった。
桜井は、気が狂いそうになった。やっとの思いで持ち堪えていた。この、何とも筆舌に尽くし難いほど恐ろしく惨たらしい所に、絵里を、来させるわけにはいかない。
「こんな所に、来させて、たまるか……」
桜井は、ようやく、声を絞り出した。その表情は、殺気立っている。
「余程、恋人のことが気になるようだな。だが、安心するがいい。此処に来るまで、何があっても死にはせんからな」
番人は、あらぬ皮肉を言った。
「黙れ……身代わりは、必ず、探し出してみせる」
「ほう! 身代わりを探し出すというのか。まっ、運よく、見つけられることを祈るとしよう」
と言うと、番人はじろりと地獄の空間に視線を向けた。
すると、辺りをふらついていた魔物が、桜井のいる空間に向かって次から次に謂集してくる。小高い丘の向こうからも次々と集まり、空間を取り囲んでいく。
「な、なんだ、奴等は、どうして、此処に、集まってくるんだ。何を、しようってんだ」
「わしの思った通りだ。あんたは気に入られたようだな」
番人は、そう言いながら満足したように頷く。だが、桜井には聞こえない。
瞬く間に、地獄の入口を無数の魔物が取り囲んだ。
空間が、少しずつ萎縮していく。うねりの壁が、魔物のおぞましい貌が、次第に近づいてくる。桜井は、その場に立ち竦む以外になかった。
このまま壁が近づいてくれば、桜井は、おぞましい魔物どもに圧殺されてしまう。
「や、やめろ……早く、俺を、戻してくれ……た、頼む……」
桜井の顔が、みるみる恐怖に歪む。
「何も怖がることはない。ただの、お見送りじゃないか。しばしのお別れだからな。名残惜しいのだよ、奴らは。くっくくく……、はっははは……」
番人の哄笑が響いた。魔物の貌がどんどん近づいてくる。桜井のいる空間は、今まさに、地獄に呑み込まれようとしていた。
「た、たすけてくれ……」
魔物の貌が桜井に迫る。その吐く息があたる程に近づいてくる。
「うぅぅぅ……」
桜井は、呻き声を上げて腰砕けた。そして、ついに精魂尽き果てたように気を失ったのである。
時計は、午後三時を指している。
二ヶ月前は、ベットの上で目覚めた。今日はソファーの上だった。桜井は、重大なことでも思い出したように、ハッと目を見開いた。辺りを見ると、此処は見慣れた自分の部屋であった。
「戻ったのか……」
桜井は地獄の入口から、戻されたのである。
二ヶ月前と違っていることは、身体を一度バラバラにされ接がれたような痛みはなく、記憶は刻みつけられている事だった。
不思議なことに、あれ程おぞましく恐ろしい体験をしたにも関わらず、三日間飲まず食わずで彷徨していたかのような疲労感と空腹感があるだけであった。
桜井は、思いの外冷静な自分自身が、末恐ろしく思う。何物かに、操られているかのような奇妙な感覚すらする。
気になるのは、絵里の身代わりであった。だが、それはいずれ分かる、そう思いなおし、桜井はゆっくりと体を起こした。テーブルの上の車のキーを掴み取り、駐車場へ向かう。
時代物のジープの重いドアを開け乗り込み、エンジンをスタートさせる。昨夜と同じである。車が何故そこにあるのか、桜井は疑問にも思わない。
桜井は、あの酒屋に向かった。地獄の入口を、もう一度確かめるために。
S字カーブから、駐車スペースに入り込もうとした時だった。
桜井は、急ブレーキを踏んだ。駐車場への入口は、立ち入り禁止の表示をぶら下げたバリケードで塞がれていたのである。
「どういうことだ、これは」
駐車場の真中には二tクレーン車が陣取り、その周辺で何人もの工事関係者が忙しく作業していた。
数人の職人が足場の最上段に上がり、クレーンで吊られた色彩豊かな看板を据え付けている最中であった。その看板は、町で良く見かけるコンビニエンスストアの看板であった。
桜井は、車をバリケードぎりぎりに寄せて降りた。呆然として、工事の様子を眺める。
すると、突風が吹き、クレーンで吊っていた看板が揺れた。
「おーい、気をつけてくれよ」
バリケードの向こうにいるヘルメットを被った髭面の男が、声を張り上げた。どうやら、この男が現場監督らしい。
現場監督は桜井に気が付くと、愛想笑いを浮かべて軽く会釈し、こう言った。
「開店は二週間後の予定ですよ。もうしばらく、待ってください」
建築中の店が地域の話題となり、好奇心旺盛な近所の住人や通行人によく聞かれるのであろう。
だが、その杓子定規な言い回しが、それ以上の問いかけを拒絶するかのようであった。桜井は、口から出掛かった質問を呑み込んだ。
現場監督は、駆け寄ってきた職人に一言二言耳打ちされると、連れ立って建物の中に入って行った。
桜井は、狐につままれたようであった。少なくとも、一昨日の夜、昨夜は、此処はあのいかがわしい酒屋であったはずだ。しかも、この世と地獄を繋ぐ入口である。
工事中のコンビニを借りて、真夜中に開く酒屋。このコンビニは魔法に掛けられ、真夜中に酒屋に扮装し営業しているというのか。
いや、それはありえない。
と、すると――
真夜中、深々と鎮まりかえった工事現場には、クレーン車が巨獣のように構えているだけであろう。きっと、心無い侵入者さえも寄せ付けないほど薄気味悪く、ひっそりとした闇を形成しているに違いない。役目を終えた地獄の入口は、すでに閉じられたのである。
桜井は、全てを悟ると工事現場を後にした。
その夜、イギリスの地にいる絵里から二度目の連絡が入った。
かつて、渡航中に、絵里から二度も連絡が入ったことはない。絵里の変化を敏感に察知した桜井は、早速核心に触れた。
「どうやって、あそこに行ったんだ」
「……やっぱり、あなたも、あそこに行ったのね」
絵里は電話口で息を呑んだ。
「やっぱり? 君は、俺が、あそこに行くということを知っていたのか」
「いずれあなたも此処に来る、あの番人はそう言っていたわ」
「番人が、そんなことを……全てを聞いたんだな、あの番人から」
「そうよ、何もかも」
絵里は、声を震わせると口を噤んだ。しばらくの間、二人を静寂が包みこむ。
「……俺は、自分に降りかかった災いは、自分で片をつけるつもりでいたんだ」
桜井は吐露した。
「分かってるわ。でも、これは、あたし達に降りかかった災いなのよ。あなただけでは、片は付けられないわ」
「どうして分かるんだ、そんなことが」
「あなたから、あの入口が閉じられたと聞かされた時、あたしは、無意識に別の入口を望んでいたわ。そして、あそこにいざなわれた。これは、偶然ではないわ。私たちは、すでにその罠中に入っていたのよ。
あの人たちは、あなたを助けるためにあたしが入口を望むことを知って、はじめから仕掛けていたのだわ」
絵里は、唇を噛み締めた。
「たとえそうだろうと、君には済まないと思っている。君を護れないばかりか、結局、君に過酷な運命を背負わせることになってしまったんだ」
桜井は、自分の不甲斐無さに俯く。
「気にする事はないわ。あたしが望んだことだし、後悔していない。それに、心配いらないわ。きっと、身代わりを探し出して生き延びてみせる」
絵里は、気丈に言った。
「君の覚悟はわかっている。だが、俺の言いたいことはそういうことじゃない。
俺だって身代わりが誰か分かれば、そいつを半殺しにしてでも、入口を聞きだしてやる。
そのくらいの覚悟はある」
「いったい、何が言いたいの?」
「一度連鎖の罠に落ちた人間は、遅かれ早かれ地獄に堕ちる運命だということだ」
桜井は表情を曇らせた。
「それは……どういうこと?」
「地獄の生贄は免れても、寿命が尽きれば地獄に堕ちるということなんだ」
「何ですって、折角生き延びても、死んだら地獄に堕ちるなんて、ひどすぎるわ……
どうしても、逃れられないの?」
絵里は、声を詰まらせた。
「今は、逃れる術は無い……だが、生きていれば、逃れられる方法が見つかるかもしれない。そのために生き延びるんだ。できるだけ、長く」
「できるだけ、長く、生き延びる……」
絵里は、そのまま、黙りこんでしまった。
桜井は、罠から逃れる方法があると考えていた。その鍵を握るのは、あの番人である。
番人は、この世と地獄を結ぶための全ての情報を熟知している。その情報の中に、逃れる方法があるかも知れない。
番人に人間の感情の欠片がまだ残っていれば、逃れ得るヒントくらいは聞き出せるかもしれない。番人には、是非とも、もう一度相見える必要がある。
そのために、地獄の入口を早く見つけなければならない。
先ずは、絵里の身代わりが誰かを知る必要がある。桜井は、電話口の絵里の息遣いを聞きながら、頃合をみて切り出した。
「そろそろ、言ってくれないか……身代わりは、誰なんだ」
桜井は固唾を呑み、絵里の返事を待った。絵里はようやく重い口を開く。
「な、何だって……」
桜井は、驚きを隠せない。桜井は、しばらく呆然自失としていたが、我に返ると絵里と話し始めた。
「入口は、俺が見つける……あぁ、大丈夫だ。あいつを捕まえて、入口を必ず聞き出してやる……君はそこで、水を飲めばいいんだ……だが、その前に、君にやって欲しいことがある」
「何をすれば、いいの?」
絵里が聞き返すと、桜井は一通り伝えて因果を含めた。
「分かったわ」
絵里は小声で返事すると、明日の夜帰国すると言って電話を切った。
桜井は、受話器を静かに置いた。
「何が起こってるんだ、いったい……」
外道どもは、また新しい趣向をしつらえたというのか。
一度ならず二度までも身代わりになるとは……連鎖の罠に落ちた人間は、この世に生ある間も逃れられない運命なのか。死して後も、地獄に堕ちる運命だというのに。
人間を弄び不条理な喜悦に浸る彼奴等の貌が、桜井の目に浮かんだ。桜井は怒りに打ち震えたが、為す術はない。
なにより、この世で生き延びるために、すべき事は一つ――
牟田をつかまえて入口を聞き出し、そこで、絵里に水を飲ませるのだ。そうすれば、牟田も水を飲まざるを得なくなる。
あの時は、牟田に欺かれ地獄の入口に誘い込まれた。今度は、牟田を欺き、入口の在りかを聞き出さなければならない。
牟田は警戒心が強く、用心深い。必ずや、牟田は、桜井が再び近づいてきたことに疑念を持つに違いない。
一筋縄ではいかないかも知れないが、是が非でもやり遂げなければ。
だが、どうするか――
自分が絵里の身代わりということを知れば、牟田は入口を決して教えない。そうなれば、絵里は地獄に堕ちることになる。
「そうは、させるものか」
そう呟いた桜井の表情は、知らぬ間に悪心に満ちていた。
壁一枚隔てた地獄の空間で、彼奴等はほくそ笑む。桜井は、また一歩、地獄の手先に近づいたのである。
桜井の身辺で、新たな連鎖が始まろうとしていた。だが、桜井は気付いていない。
ただ、遠いイギリスの空の下にいる絵里を想うだけであった。
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