今までの私、これからの私。
幾重にも重なる着物はずしりと肩にのしかかって、少し重い。
似合わないカツラと角隠しに違和感を覚えた途端、なぜ神前式を選んだのか……ふと後悔がもたげる。
着物の裾を取り、母のかさばった手をそっとつかむ。さんさんと降り注ぐ夏の日差しにクラリと目が眩んだその時、親族席ではない一般席で、笑う父の姿を見つけた。
なんで、いるの。
声には出さずにパクパクと口を動かす。父は目尻に涙を溜めながら、にこにこと微笑んでいるだけだった。
母の顔を見る。父がいることを知っているのか、それとも。
慣れない着物に顔をこわばらせ、ゆっくりと進む母からは、何の感情も読み取れない。
式の最中に疑問を口にすることなど出来ず、私は父の視線を一身に浴びながらも、雅やかな笛の音と宮司の低い声に聞き入るふりをした。
どうして、なんで。
疑問と苛立ちが隠しきれず、カツラの重苦しさにうなり声を上げたくなる。
なぜ、なぜ。父がここに?
私と正樹の結婚が決まった時、母は「私のようにはならないで、二人で幸せになるのよ」と涙ながらに語った。
父と母は私が高校一年生の時に離婚した。
きっかけは父がリストラされたことだったけど、それが無かったとしても折り合いのよくなかった二人がこういう末路を迎えるのは、当然の成り行きのように思えた。
父はとにかく優柔不断で頼りなく、仕事も出来ないダメ人間だった。パチンコが好きだし煙草は吸うし、何をしてもうまくいかない。その分、異常なほどに優しく気弱で、情けないほど温和な人だった。
挙式、披露宴を終えた私は二次会に参加するためのドレスに着替えた。時間は押しているけれど、挨拶を交わす親族の間をすり抜けて、父の姿を探した。
父を式にも披露宴にも呼んでいない。
だから、もう帰ってしまったかもしれないけど、いつもうじうじと後ろから私の様子を伺う父が早々と帰るとは思えず、なんで式に来たのか問いただしてやろうと、探してみることにしたのだ。
父は言いたいことを言えない人で、私が高校受験で机にかじりつき勉強をしていた時なんかは、いつも半開きのドアから私の部屋を覗き込み、話しかけなければ三十分以上もじっとしていた。「何の用か」と尋ねれば「桃、食べるか」とかどうでもいいことを聞いてくる。そんな父に対して、私は幼い頃から嫌悪感しか抱いていなかった。
正直、母が父を選んだ理由がわからないし、もし選ばなかったら、ただのストーカーにでもなってたんじゃないのかと、我が父ながら気持ち悪いと思っていた。
父が嫌いだった。それは、きっと今もだ。
広い結婚式場の隅にあるチャペルが目に留まり、足を止めた。モザイク模様になったレンガ造りの外観はヨーロッパの教会のように荘厳で、威圧的でさえあった。
なんとなく近寄って古びた木の扉に手をかける。ギシギシと軋んだ音をたて、扉はゆっくりと開いてしまった。鍵がかかっていなかったことに驚きつつ、足を一歩踏み入れる。
禿げ上がった頭がちょこんとベンチの上に生えていた。
「お父さん」
振り返る父は、高一で別れたあの時とあまり変わっていなかった。若くしてはげてしまった父は歳よりもずっと老けて見えたから、やっと年齢と外見が一致したのかもしれない。
「おう、由理」
軽々しい声にイラッとくる。
「呼んでないのに、なんで式に来たのよ」
「やー、一人娘の結婚式なんだからさー。いてもたってもいられずにね」
無精ひげが黒と白のまだら模様になっていて、だらしない。こんなんだから、母に引導を渡されるのだ。
「信じらんない。スーツもよれよれだし、髭もそってないし、はげてるし! そんなんでよくのこのこ来る気になったね!」
「ハゲはおいとこうよ、ハゲは」
「恥ずかしいんだよ! 私は!」
「でも、誰もお父さんのこと見てなかったよ?」
のん気に笑う父が憎たらしい。ぽりぽりと頭を掻いたら、ふわふわ落ちるフケが日の光に当たって見えた。……何年たとうが、だらしなく汚らしい雰囲気は変わらないんだ。
「ていうか、今までずっと姿も見せなかったくせに、なんでこういう大事な時にだけふらっと現れるわけ? 私のことなんかどうでもいいから、ずっと顔見せなかったんでしょ!? それなのに今更現れてさ。そういうの、迷惑だよ!」
「いやあ、だって、やっぱり見たいじゃないか。由理の晴れ姿!」
パンパンと手を叩き、わざとらしく拝んでくる。
何年もほったらかしにしておいて、なぜこんなにも能天気なのか、殴ってやりたい衝動を抑えて唇をかんだ。
「由理がさ、お父さんのこと呼んでる気がしてさあ。でも、道がわからなくて、迷子になっちゃってさあ。大変だったんだぞう」
「迷子って、どこの子猫ちゃんよ! 大体、呼んでないし!」
「いやあ、呼んでたよ」
細い目をさらに細めて、嬉しそうに笑う。どうしてこの人はこうなんだろう。何言われたってニコニコニコニコ。そんなんだから、社会から落ちこぼれていったんじゃないか。
「由理さあ、ちっちゃい頃から、結婚する時はチャペルでって言ってたよなあ。いとこの舞ちゃんの式見て、憧れてさあ。覚えてるかい?」
「お父さんがいないから、チャペルの式あきらめたんじゃん! よくそんなこと言えるね」
ずっと憧れていた。十字架に向かって父と手を取り歩く。その先に待つ新郎の元へ。ステンドグラスの赤や黄色や青の光で揺らぐその先に、真っ白な百合が咲いて、私を祝福する。
父の手から、新郎の手へ。今までのすべてに感謝しながら、これからのすべてを夢見る。
――いとこの結婚式を見た幼い私が、ずっと憧れ続けた瞬間だった。
父のいない私は、父と歩くヴァージンロードではなく、母の手に引かれる神前式を選んだ。
父がいなければ、ヴァージンロードを歩くことに、何の意味も無いと……そう思ったから。
「ほんとに悪かったと思ってるよ」
「じゃあ、なんで!?」
「後悔先に立たずってやつだよなあ」
またのん気に笑ったけど、前歯の横の歯が欠けた笑顔は間抜けで、どこか寂しそうだった。
「歩いてみるかい?」
すっと立ち上がった父が、私に向かって手を差し出す。しわがれたカサカサの手。爪に詰まった汚れが、その苦労を思わせた。
「白いドレスを着ているし」
二次会用のシフォン素材の膝丈スカートでは、私の憧れとは程遠かったけれど、白には変わりない。
この場には少し不釣合いなドレスだけど……。
「由理の白無垢も綺麗だったけど、ドレスも似合うよなあ」
「馬子にも衣装だよ」
「そんなことないよ。世界で一番、いや、宇宙で一番綺麗だ」
歯の浮くようなセリフをさらりと言える、キザな父。母がこんな情けない人を選んだのは、もしかしたらこういう素直なところが愛おしかったのかもしれない。
「お父さんな、後悔してるんだよ」
父の手を取り、一歩進む。
「お前を置いていってしまったこと」
一歩。
「だから、どうしてもお前の晴れ姿は見ておきたかったんだ」
進むごとに光は降り注いで、白く染める。
一歩。
一歩。
「……ごめんなあ」
父と母は、私が高一の時、離婚した。その後しばらくして、父は行方がわからなくなり、捜索願いが出された。
「人生はさあ、嫌になる瞬間は死ぬほどあるけど、こうやって、最高の瞬間もあることをお父さんは忘れていたんだよなあ」
私は、いわゆる見える人で、「もしかしたら」といつも父の姿を探していた。どこかに父の姿が見えてしまうのではないか。生きていない父の姿を見つけてしまうのではないか。不安に駆られながら、たくさんの亡霊の中に父の姿がないのを確認し、安堵してきた。
片足がもげたまま歩く男の人。子供を抱きながら血まみれでベンチに座る女の人。モンペを履いた幼い少女――。毎日毎日必ず見える、私達が生きる世界とは別の世界。その世界に父が踏み入れてやしないか、おびえていた。
「お父さん、富士の樹海にいるから」
あそこはほんと道に迷うよ、噂どおりだよなあ、と父はまた笑う。
馬鹿じゃないの、と罵ってやる。なのに父は嬉しそうに目を細める。
「由理には、幸せになってほしいなあ」
「なるに決まってるじゃん」
大きな十字架が、私達の前に聳える。花の形をかたどるステンドグラスを透かす光に、私は涙ぐみながら、父の手をぎゅっと握りしめた。
いや、握りしめたつもりになっただけだ。父にはもう、触れることは出来ない。
「いい人を、見つけたんだよな」
「当然でしょ」
無精ひげをザラリとなで、禿げ上がった頭に手を置く。ヤニで黄ばんだ歯は、何度見ても汚い。
「由理は、世界一かわいいから、幸せになれるな」
親バカ。照れもせず、よくそんなセリフが言える。恥ずかしい人だ。
父の手が離れていく。
私を育ててくれた人から離れ、私は、私を愛してくれる人のところへ行く。今までのすべてに感謝しながら、これからのすべてを夢見て。
「由理! こんなところにいた!」
後ろからの声にはっとして振り返ると、正樹が立っていた。似合わないスーツ姿と似合わない整えた髪。だらしないこの人の正装は、浮いて見えて滑稽だ。
「早く二次会の会場に行くぞ。時間、過ぎてる」
「ごめん」
正樹のいる扉まで走り、一度父がいた場所に目をやる。もうそこには誰もいない。父はどこに行ってしまったのだろう。
ちゃんと行くべきところに行っていることを願いながら、私は正樹の手を取った。
「お父さん、来てたみたい」
「ほんと?」
「うん」
正樹は何も言わず、ただにこやかに微笑んだ。
「行こうか」
歩き出した正樹に手を引かれながら、私は「幸せになるからね」と繰り返す。
父に届くといい。この思いが、天にまで昇るといい。そうして、父が安心して眠れることを願う。
「ねえ、由理。出口、どっちだっけ」
困ったようにあたりを伺う正樹の姿を見て、私はがくりと肩を落とした。
ねえ、お父さん。
よく言うじゃない?
女の子は父親に似た人と結婚するって。
「お父さん。私が選んだ人、お父さんにそっくりなんだよ。私、バカだよね」
憧れのヴァージンロードはまっすぐに父と私をつないでいる。
ずっと。ずっと。
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