目 次
「Y君の生活」
「白春行路」
「夜間飛行」
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「Y君の生活」
第一章
朝靄の中で
夜九時を過ぎた地下鉄の改札口で、すれちがい際に見詰められたような気がしたY君だったが、その人の顔に見覚えはなかった。
(誰だろう?誰だろう?誰だろう?)
さんざん考えた末、Y君は心地好い地下鉄の振動に身をゆだねながら眠ってしまった。
いつものように浅い眠りを数分間楽しんだ後、ガラガラの車内で目をさましたY君は、目の前のつり皮にぶらさがっているその人を相変わらず思い出せないままでいた。
「久し振りね、元気?どうしてる?」
満面に笑みを湛えたその人に、「どうしてる?」なんて親しげに言われて戸惑ったY君は、最近身につけたばかりの愛想笑いを浮べていた。
(へへへ……)
昔のことを懐かしそうに話すその人の思い出の中に自分が存在していることは間違いなかった。Y君は、曖昧な領きと相づちの中で、必死に記憶のがらくた箱をひっくり返し続けた。しかし、その人の記憶はどこを探しても見あたらなかった。犬に噛まれたことや蜂に刺されたことなど、同じ記憶をぐるぐると堂々巡りするばかりのY君に、車内アナウンスが下車駅の近づいていることを知らせていた。
(このまま次の駅で降りてしまえば、ニ度と会うこともないだろうから、この人が誰なのか、思い出そうが思出せまいが、どうでもいいことなのだが……それにしてもいったい誰なんだ、誰なんだ、誰なん…うわっ!)
「うわっ!」
相づちも頷きも忘れて、一人深い思索に入っていたY君を、その人は覗きこんでいた。
「次で降りるの?」
その人のふいを突いた質問に、地下鉄の縦揺れのあおりを受けたY君は、思い切り領いていた。(コックリ)
「あら、それじやあ、いっしょね」
Y君はまたしてもせいっぱいの愛想笑いを浮べていた。
(へへへ……)
飲み屋に誘ったY君の意図は、この人を酔払わせることにあった。
(酔払って口数が多くなり、昔のことなんかをぺらぺら喋ってくれればよいのだが……)
ところがこの人は、Y君の期待をよそに、酔うとひたすら無口になるのか、それとももの凄く酒が強いのか、とにかく無言でグラスを揺らし続けるのだった。予想外の事態にY君は動揺していた。今さら「ところで君は誰?」なんて聞けないし、「それじゃぁこの辺でお開きに……」なんて言える雰囲気ではなかった。Y君のグラスを空にするピッチは自然とあがっていった。飲みくらべのようになったこのおかしな酒の席で、焦りと苛立ちをグラスに溶かし続けたY君の方が、いつの間にか口が軽くなっていた。現住所、電話番号はもとより、昨日の夕御飯のおかずから、今日のパンツの色まで告白してしまった。ひょっとしてこいつは相手が酔い潰れるのを待って財布を抜取るスリなのではないのだろうか、と思ったりもしたが、財布の中身はこの店の払い分ぐらいしか入ってないし、免許証やカードの類いも持ちあわせていない。それによく来る店なので店員は顔見知りだし、滅多なことはないだろうと安心して、すっかり酔い潰れてしまった。
チュンチュンチュン…………
いつものようにスズメの鳴き声でY君は目覚めた。
(ここは……僕の部屋……だな……)
ひと安心したY君が、寝ぼけまなこで枕を捜していると、隣に若い女がすっ裸で眠っていた。
(……あぁ……すばらしい朝だ……が……どうせまた夢の続きなんだろう……)
Y君が美しい女の裸の夢を見るのは珍しいことではなかった。
(うぅ……それにもまして頭が痛い……)
Y君は一つ大きく伸びをした後、窓から遠くの山を眺めていた。ベランダに出て、もう一発伸びをして、「初秋の朝風がここちよい」、と独りごちた。(独言は一人暮らしの症候群だ……)とほくそ笑んでいると、これから出勤していくのであろう、マンションのゲートから出てきた女と目が合った、ような気がした。
(やぁ、お勤め御苦労様)
Y君はすがすがしく微笑み、少し気取って軽く手を上げた。すると、一瞬の沈黙の後、階下の女とY君の間に張詰めた真空状態が生じた。
(……はてな…………)
Y君には階下の女の顔がだんだん歪んでいくように思えた。そして間も無く、その真空状態は、女のつんざくような悲鳴で破裂した。
「キィ…………!」
女は顔をねじまげると、目を両手でふさぎながら、狂ったように駆出した。途中、ブロック塀に激突したり、ドブにはまったり、走るスピードには目を見張るものがあったが、方向性というものを欠いていた。
(なんだ、あれは……ははぁ、僕に気があるのだな……ふふ……)
幸せなY君は、ダッチロールしながら駆けていく女を手を振って見送った。朝風に吹かれ、髪の毛を軽くかきあげると、(むぅ、キザだったかな……)とちょっと照れてうつむいた。
「うわぁぁ……!」
うつむいたその途端、Y君もまた、さっきの階下の彼女に勝るとも劣らない悲鳴をあげていた。Y君のねぼけ眼にダイレクトに飛込んできたのは、他ならぬY君の、朝の隆起をほどこした男根だったのだ。反射的に前を押え、よろけるように部屋にダイビングしたY君は、勢い余ってテーブル・ワゴンに額をぶつけて出血した。そしてさらに部屋を隠すべく倒れたまま足でカーテンを引っばると小指がつった。
(くぅ……)
放心状態で座り込んだY君は、額から肌をつたっていく血の冷たさに、初めて自分がすっ裸であることを自覚した。血は胸からあばら骨へ、段になった腹に添って左折し、太腿から床に流れていった。
(なんてことだ……)
Y君の頭の中では、これから展開するであろう事態がめまぐるしく、しかも克明に映しだされいていた。
(さっき自分のすっぽんぽんを目撃した女はこのマンションの住人に違いない。あの悲鳴からして、かなりダメージを与えてしまったようだ。不幸中の幸いは見られたのが彼女だけであるということだ。だが、これから彼女はどういう行動に走るだろうか。嫌なものを見てしまった、と諦めるだろうか。いや、彼女は駆出していったのだ。あれは全力疾走に近かった。おそらくあの勢いのまま近所の交番に駆込むんだろう。そして言うのだ、助けて!変質者がいるんです!私に……得意そうに……見せたんです……あぁ……変質者!変質者!)
(へんしつしゃ?……)
変質者という言葉が、辛うじて残っていたY君のまともな判断力をぶちのめした。
(何故だ?何故に僕が変質者になるんだ?ただスッポンポンでベランダに出ただけじゃないか……ちょっと手を振って挨拶しただけじゃないか。え!どこが変質者なんだ!え!オラオラ、答えてみろよ!オーラオーラ!)
Y君は、おそらく答えが返ってこないであろう、棚上に置かれた羊のぬいぐるみに詰問していた。
同じ頃、Y君が立てた予想は見事に的中していた。近くの交番には、Y君と同じような錯乱状態の人間が三人程いた。おまわりさんの一人は状況が全く把握できずに、それでもなお、この朝一番のお客の話をなんとか理解しようと、コーヒーカップを持つ手に油汗をにじませていた。もう一人、夜動あけのおまわりさんは、駆込んできた女の方を「普通の人ではない」と早々に決めつけて、もしもの場合に備えて棍棒に手をかけながら応援の電話をかけていた。三人の中で最も錯乱していたのは、言うまでもなく駆込んできた女、Y君と同じマンションの住人であり、某大手銀行に勤務している女、金子信子だった。
憤怒の形相でたたみかける信子の説明は、およそ常人には理解しがたいものであった。彼女は交番に駆込むや否や、眠たそうな目でコーヒーをすするおまわりさんに向かって「助けてください!キーッ!」と叫んだのだ。おまわりさんが「どうしたんですか」というお決りの相の手を入れようとするのも許さず、「見たんです!見せたんです!奴です!私じゃありません!私が悪いんじゃありません!お天気がよくて気持ちのいい朝で空が青いから上を向いて歩いてたんです、ただそれだけなんです、それなのに奴が、奴が!二コッと笑って手を振るんです!どうして私だけがこんな目に……狙ってるんだわ、そうだったのね、前々から狙ってたんだわ、いやーっ!私を狙っている!いやーっ!(繰返す)」
おまわりさんが女の言う「奴」の正体を知るには正味三十分近くかかった。
おまわりさんが動き始めた頃にはもうY君は自室にいなかった。羊のぬいぐるみに詰問すること約十分、そのつぶらな瞳に映った見覚えのある顔にY君は我にかえった。すっぽんぽんのまま、額から血を流し、羊のぬいぐるみに詰問している自分の姿に気づくと、恥ずかしさのあまりおならが出た。
(誰にもこの醜態を見られなかったろうな)
カーテンが閉まっているのを確認し一安心したY君は、ペットに目をやった瞬間、思わず息を飲んだ。
(……いた!)
いたのだ、目撃者が。いや、正確に言うなら目撃者かもしれない人間が。ペットには相変わらず、肌をあらわにした女がひっそりと眠っていた。
(いや、たぬき寝いりかもしれないぞ。くすぐって起こして、見たのか、見なかったのか、と詰問しようか。いや、しかしもし「見なかった」と言っても本当かどうかはわからない。
「見た」……あっさりそう言われたら、どうしたらいいのだ。殺すか?いやまてよ、どうせ殺すなら見たかどうか、聞いても聞かなくても同じじゃないだろうか?いやいやまてよ、たかが羊のぬいぐるみと口論してるところを見られたぐらいで、人を一人殺すのはぱかぱかしい気もするな。くー、いったいどうしたらいいんだ!おい!答えろ!)
「おい!答えろ!」
Y君はまた羊のぬいぐみと向い合っていた。
「きさまだ!答えろ!答えろ!答えろ!」
その時遠くから、卒中で倒れた近所の婆さんを救うべくやってきた救急車のサイレンの音が聞こえてきた。 Y君は再び我に返った。
(あのサイレンは…………パトカーだ!きっとパトカーだ!警察だ!!僕を捕まえに来たんだ!容疑は?……わいせつ……わいせつ……わいせつぶつ公然陳列罪だ!……これは捕まったら社会復帰できない罪だ!……)
Y君は慌てて服を身にまとい、靴下もはかずにサンダルばきで外に飛出していた。
(逃げなくちゃ、逃げなくちゃ……)
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第二章
Y君、その後
失踪していたY君がマンションに戻ったのは三日後の朝だった。救急車のサイレンに慌てて部屋を飛出したY君は、その後、信頼のおける人物、だと思っていた知人宅に身を寄せていた。しかし、その信頼のおけるはずの知人が自分への疑惑の念を強め、なにやら探りを入れているらしいことを知り、脱出せざるをえなくなったのだった。
(あの真夜中の電話…………信頼していた僕が馬鹿だった……)
なんとなく怪しい、と思っていたY君が、知人の魂胆を知ったのは二日目の夜だった。
遠くに響いていたパトカーのサイレンにうなされて目を覚ましたY君は、電話口で囁かれるひそひそ声を聞いてしまったのだ。
「もしもし、あ、オレだよ。Yの奴が転がりこんできゃがってさぁ、なんか情報ない?殺人事件を起こしたとか、知らない?ちょっと様子がおかしいから……変にオドオドしてるし……晋段はスポーツ欄しか見ない新聞を、食入るように読んでるんだぜ、なんかヤバいことやったぜ、きっと……うんうん、そうなんだよ、犯罪者だとわかったら写真週間誌に売り飛ばそうかと思って……お前、何か情報持ってる?……ふんふん、え、それは匂うなぁ、それ、調べてみてよ……なに、まだあんの……ふんふん、ふん、ええっ、うそだろ、えぇーっ、それはヤバいよ、そういう奴だったのか……、あれ?ちょっと待って…………あっ!逃げたぞ!」
(まったく、なんて奴だ!まったく……はぁはぁ……ふぅ…)
失意のうちに暗闇に飛び出したY君は、方角もわからないまま、ただ、やるせなさに駆られて走り続けた。もうどれくらい走ったろうか、息の上がったY君は、だらりと腕を下げ、うつむいたまま、車の往来も跡絶えた通りに投げやりな足音を響かせていた。
(ここまで来ればもう大丈夫だ……)
街灯に照らされ墓標のようにポツリと立つバス停の前で歩みを止めたY君は、荒い息で膝に手をあてると傍らのべンチにどっぷりと腰をおろした。
「え……?」
Y君の黒目はオートフォーカスレンズのように急激に小さくなってしまった。ベンチが氷のように冷たかったのだ。かなり長い距離を走ったせいで体が火照っているということを差し引いても、その冷たさは晩秋の夜の冷え込みのせいばかりではなさそうだった。明らかに異常な温度をベンチは持っていた。数秒後、Y君の目は大きく見開かれた。尻がベンチが張りついたような錯覚に襲われたのだ。
(ぐぅ……!)
あまりの冷たさに立ち上がろうとしたY君の黒目は再び急激に小さくなってしまった。重くて立ち上がれなかったのだ。
(重いぞ……重い?何故だ?何がこんなに重いのだ?腰か?久しぶりに走ったせいでこんなに腰が重いのか?いや、そんなはずは…………まさか………………)
恐る恐るうしろを振り返りながら再び腰を宙に浮かそうとしたY君は驚愕のあまり白目を剥いていた。背もたれさえないその古ぼけた木製のベンチは、ガタン、という音と共にY君の尻に、間違いなくくっついていたのだ。
(うそだ!こんなことがあるはずがない……物理的に説明がつかないじゃないか…………)
(そうか!いたずらだ!誰かの悪質ないたずらだ!瞬間接着剤を塗りたくってあったんだ!だからこんなに冷たい………???なぜこんなに冷たいんだ?そうか!瞬間冷却接着剤か!空気中の水分を触媒として瞬時に超低温化して物体を接着するのか?)
それはあまりにも非現実的な話だった。こんな真夜中に、しかもこんな街中で、一体どこのいたずら好きな科学者が、そんな大げさなものをベンチに噴きかけるというのだ。第一、そんな接着方法が存在するのかどうかということ自体疑問だった。
(……駄目だ!こんな現象は認めるわけにはいかない!)
しかし、実際、ベンチは、冷凍庫の氷を素手で取り出した時のような、あの食いつくような感触で尻にへばりついていた。Y君は何かを振り払うように頭を大きく左右に振り、その反動で尻のベンチも左右に振れた。
(……変だぞ、このベンチは……変だぞ……)
「おまえは変だ!」
ベンチに向かってそう叫んだY君は、理解しがたい現実を前に、中腰のまま呆然としていた。しかしすぐに凍てつくような痛みが直接的に尻を襲ってきた。それはまさに何者かに尻を喰われているような痛みだった。Y君はそれに恐怖し、居ても立ってもいられなくなり、ついに泣き叫びながら走りだした。
「助けて!」
体をくの字に曲げ、尻にくっついたベンチを引っさげ、Y君は暗闇の中を泣き叫びながら猛スピードで曝走し始めた。
「助けて!」「助けて!」「助けて!」
バス通りを駆け抜け、途中、幾つかバス停を通過し、Y君は街の中心部へと向って曝走し続けていた。そして橋を渡り、どこかの商店街にさしかかった時、Y君の前方遥か彼方から猛スピードで自転車をこぎ接近してくる黒帽黒服の男が現われたのだった。
(おまわりさんだ!)
(助けて!)
Y君は自らの心の中で叫んでいた。態勢が態勢だけに声にならなかったのだ。そしておまわりさんの顔がはっきりと確認できる距離にまで接近した時、再びY君は懇身の力をこめて叫んだ。
「助けて!」
涙目で叫んだY君に、街灯の下に差し掛かったおまわりさんは叫び返した。
「止まれ!止まるんだ!」
無理な話だった。おまわりさんの制止命令などおかまいなしに、助けを求めるY君は益々スピードを上げておまわりさんめがけて突進してきていた。
「止まれ!止まれ!」
両者の距離が縮まっていく中、気丈にもおまわりさんは自転車上で両手を大きく広げ、Y君を阻止しようとしていた。
「止まれー!止まれー!?れーーー!??」
ドーン!
衝突。あぁ、まさにそのひとことに尽きる衝突だった。両手を大きく広げたおまわりさんは、疑問符だけを残し、かかしのように吹っ飛んでいった。
一方、Y君は点のように小さくなった黒目で、遥か前方だけを見つめていた。
(とっ、止まらない!)
コントロールのきかない程、加速度のついてしまったY君とベンチは、なおも路地を曝進していた。自分以外のなにか恐ろしい力を感じ出したY君は、恐怖のどん底にあった。叫びも涙も鼻水も、風圧で後方に吹き飛ばされながら、必死の形相で足を回転させ続けるY君は、尻のベンチで路地脇に飾られた植木鉢をなぎ倒しながらただひたすらに走り続けていた。走れば走る程加速度は増し、それとともにY君の足の回転数も上がり、ベンチの幅ギリギリの路地で、ブロック塀を削るようにしてなお進んでいた。
「もうこれ以上は無理だ!」
Y君が泣きながらそう叫んだ時、眼前にひときわ細い路地が現われた。それは人が一人、二人通るのがやっとの広さで、明らかに尻に横づけにされたベンチの侵入を拒むものだった。Y君は点になっていた黒目をより極小にして喚いた。
「突っ込む、つっこむぞー!」
ドーン!
これまた衝突だった。衝突という以外、形容のしようのない衝突だった。Y君は事故を起こした運転手のように一度は前方に、次に後方へ激しく揺さぶられ、ベリッ!という音を残してベンチから剥がれると、斜め後方に投げ出されていた。
後方の壁に激突したY君は、ごろごろと転がって、いまだ路上でバウンドしているベンチのあたりまで戻ってきた。奇蹟的に大怪我を免れたY君の尻はしかし、まるだしだった。最初は尻の皮がベンチもろとも剥げたのかと思ったY君は、慌ててベンチに駆け寄ったがしかし、ベンチにはきれいに尻型で破きとられたジーンズ、シャツ、パンツがピザパイのように残されていた。尻の皮は無事だったのだ。しかし、Y君には安堵したり神に感謝したりしている暇はなかった。ただならぬ物音に近隣の家々に明りが灯り、あちこちで人の気配がしだしたのだ。尻の穴付近のあらゆる衣服をくりぬかれた格好のY君は、再び荒い息で走り出した。そして、もつれる足と朦朧してきた意識の中でつぶやき続けていた。
(助けて!……もう疲れた……眠らせてくれ……)
Y君は空が明るくなり始めた頃、家にたどり着いた。途中、走り過ぎた疲れが出て、ところどころ眠りながら歩いた。三日ぶりに我家に帰ってきたY君の心には、昨日までの邪念は見当たらなかった。
(眠い……眠い……眠い……もう、どうでもいいから、寝かせてほしい……)
「ふぅ……」
ドアを開け、大きく溜息をついたY君の前に忽然と女が現れた。
「おかえり」
「ただいま」
眠くて思考回路が麻癖しているY君は、条件反射的に答えていた。
「おととい、警察が来たよ」
「へえ……」
「Y君いてますか?って聞くから、いてません、って答えた」
「ふーん……」
「ゆうべから帰ってません、って答えた」
「へえ……」
「あんた誰?って聞くから、留守を頼まれたものです、って答えた」
「ふーん……」
眠いY君は、一連の問答の間にペットに倒れこんでいた。
「紅茶、飲む?」
(いや、朝はコーヒーにしている)そう言おうとしたY君は、紅茶を飲みながらトースターをいじくっているこの女が誰なのかわからない、ということに気づいた。
(友達……などいなかったし、親類……でもないし……)
Y君は、睡眠不足で腫れぼったい目をこじ開けて女を凝視したが、霞んでよく見えなかった。勝手に眠りにつこうとしている思考回路をなんとか働かせて、今、自分が話している相手が誰なのか考えようとしたのだが、いかんせん、眠くて眠くて、頭はまたしても空回りをしていた。
(誰なんだ、誰なんだ、誰なんだ……)
Y君は眠い頭に鞭打って、前々からこの女に言いたかった言葉を、やっとの思いで絞り出した。
「……ところで、君は誰?」
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第三章
彼女の死
「……ところで、君は誰?」
そんな台詞を残して眠りこんでしまったY君が目を覚ましたのは、月がぽっかりと空に浮かぶ、夜十時過ぎであった。
「うーぅーん」
大きく伸びをしたY君の腕は、生暖かくも柔らかい物体に触れた。
(何だろう…………)
懐かしい温もりを感じながら触り続けていたY君の首に、その物体はからまりついてきた。目の前には、見覚えのある、美しく整った女の顔が笑っていた。
(はっ!夢ではないだろうか………?)
Y君は、その女がここにいるということにではなく、その女が自分のペットにいること、しかも裸であることに疑問を感じていた。
(これは夢だ…………ここのところ、とんとごぶさただからな…………性欲がこんな夢を見させているのだ………ええぃ、うっとおしい!このままでは……夢精してしまうじゃないか…………)
悪夢から解放されようとして布団の中にもぐりこみ、暗いシーツの中をモゾモゾと前進したY君は、微かに漂う怪しい香りを嗅いだ。
(この野性的な香り…………忘れかけていたこの香りは……)
Y君は掛け布団をふっとばした。すると真白なシーツの上に、すらりと伸びた足や、緩やかな丘のようなヒップが、月明りに照らされて怪しげな光を放っていた。しばし見とれるY君を挑発するかのごとく、その起伏線はゆっくりとくねり、やがて完全にこちらを向くと、草深い逆三角形の谷間をあらわにした。
(こ、これは…………)
Y君は季節の変り目に起ころ慢性鼻炎のせいで鼻から降りてきた鼻水を飲込んだ。
「ごっくん……」
(呼んでいる…………おいで、おいで、と呼んでいる………)
「むぅ!」
己の股間にうめきを聞いたY君は、本能の導くまま、密林の奥深くへと吸込まれていった。
(魔性の女だ…………)
オアシスを求め、果てしない砂漠を漂うラクダのように、Y君の動きはゆっくりと、しかし、どこにもゴールのないことを知らないのだろう、途絶えることは、無かった。
彼女はその日のうちに死んでしまった。
デパートの昆虫売場で買ってきたカブト虫のように…………
およそ人間の性交とはかけはなれた異常なプレイが、ようやくその終演を迎えたのは、夜明け間近の空がうっすらと白み始めた頃だった。ブラインドから微かな光が差込んでくると、まるで魔法が解けたようにY君は力を失った。と同時に、突然、疲れと眠気が襲ってきた。重たくのしかかってくる眠気をこらえきれず遂にオートロックされたまぶたの裏で、Y君は恐怖とも歓喜とも呼べない得体の知れぬ感情に囚われていた。不可解な動力でもって道路工事の削岩機のごとく動き続けた下半身は、Y君が眠りについてなお、自身の意思とはほとんど無関係にその動きを止めないのだった。
Y君が再び目を覚ましたのは、部屋に物憂げな西日が差込む夕暮れ時だった。
「うーぅーん」
いつも通り大きく伸びをしたY君の手は、柔らかくも冷たい物体に触れていた。
(なんだろう……)
そう思っていじくってみると、それは彼女の二の腕だった。うっすらと生えたうぶ毛が西日に光っている。彼女の腕はY君に金属製の手すりを連想させた。彼女のその冷たい皮膚に触れていると、自分の手が異常に熱いもののように思えてくるのだった。何の抵抗もないつるつるとした彼女の、まるで突き放すように冷たい肌の上を、Y君の手は滑りだした。そーっとそーっと、二の腕から肘、肘から手首へとどんどん細くなっていくラインを滑り落ちていったY君の手は、人さし指と親指で軽々と楓めてしまうほど細い手首で止まった。
(脈が、無い………)
Y君の手から離れた彼女の腕は、音もなく白いシーツに落ちた。
「おい!」「おい!」「おい!」
いくら呼びかけても、揺すっても、彼女の前髪がはらはらと乱れるだけだった。
(死んでる……死んでる……死んでる……)
「死んでる!」
開け放った西向きの窓から、Y君の叫びは夕暮れの街に拡散していった。
「死んでる!」
いまだ痛む腰をさすりながら夕方の退屈なパトロールをしていたおまわりさんの耳に、Y君の叫びの断片が潜りこんだ。
(死んでる!……確かにそう聞こえた……)
何でも疑う癖がついてしまっているおまわりさんは、自分の耳に確認を求めた。自転車を止めて耳をふさぐと、耳穴の中でさっきの言葉がエコーしていた。
(死んでる!死んでる!死んでる!死んでる!死んでる!死んでる!死んでる!)
「うぅむ、確かだ!」
大袈裟にうなずいたおまわりさんは、喜びのあまり大声をだしていた。両耳を押えていたせいだろう、その声はいつにも増して大きかった。
(どこだ……?)
見回すと目の前に見覚えのあるマンションの表札。
(確かここは……いつぞやストリップ騒ぎで来たことがある……あの時は確か三階の…………………あっ!)
おまわりさんの目は、西日にくっきりと照らされ、上半身裸でクルクルと踊り回る男の姿を捕えた。
(奴だ……)
間違いなかった。それは一昨夜、ベンチを後方にかかえ猛スピードで街中を暴走し、自分を吹っ飛ばしたあの男だった。おまわりさんは小躍りすると、自転車を蹴っ飛ばし、まっしぐらに三階端の部屋に向かって走りだした。
その頃、Y君は回転していた。彼女の死体を目の当りにして、あまりに気が動転したためだろうか、体も平衡感覚を失い、くるくると回り続けた。まさかそれをおまわりさんが見ていたなんて、Y君が知るはずもなかった。
ひとしきり回転した後、Y君はいつもの羊のぬいぐるみと向かいあっていた。
(なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜ彼女は死んだのだ?答えろ!知っているのだろう?おまえが殺したのか、どうなんだ!えっ!えっ!)
Y君が羊の首を締め始めた時、チャイムが鳴った。
ピンポーン!
「おおきに!お届け物でーす!」
「うるさい!今それどころじゃないんだ!」
ピンポン!ピンポン!ピンポン!
「いらっしゃるんでしょう?開けてください」
「うるさいと言ってるだろう!邪魔するな!」
ピンポン!ピンポン!ピンポン!ピンポン!
「きさま!締め上げてやる!!」
鳴りやまぬチャイムに怒りを爆発させたY君は、羊のぬいぐるみをふりかざしながら玄関へ猛進した。Y君は、自分がすっ裸であることも忘れて、ロックをはずすと思いきりドアを蹴り開けた。
「きさま!しめあげてやる!」
そう叫んだY君の前には、悲鳴を上げるおまわりさんが立っていた。
「うわっ!」
(羊のぬいぐるみを抱えたすっぽんぽんの青年……これは私がいままで見た中で最も怖い風景のうちの一つだ……)
おまわりさんは最近学び始めた英語の直訳調で、驚きを一人噛みしめていた。
(はっ!このおまわりさんは、あの夜の……)
一気に黒目が小さくなっていくY君に、得意満面のおまわりさんは切り出した。
「断わっておくが、宅配屋ではない。警察だ。警察だと言ったらドアを開けないだろうと思って、宅配屋を装ったのだ」
Y君は、その場に直立不動していた。
「ど、どうして警察が……」
「どうでもいいが、とりあえずその格好をなんとかしてくれ」
「うわーっ!」
露骨に差されたおまわりさんの太く毛深い指の先には、むき出しになったY君の下半身があった。
「こ、これは……どういうことなんだ?」
「そんなことは知らん、とにかく早く……隠してくれ」
見るのもおぞましい、という感じで、おまわりさんは目線を玄関の床に落した。だが、そこへ力無くしゃがみこんだY君の下半身が再び進入してきた。
「ぐわっ……どうした?」
「…………………………」
「黙っていてはわからん、どうしたんだ?」
「ないんです……」
「……なにが、ないんだ?」
「パンツがないんです……」
「パンツがないくらいで、そんなに絶望することはないだろう……これからあんたは独房の中で、いやというほど絶望を嘗めることになるのだからな、はははは!知らないとはいわせんぞ!以前報告を受けたこのマンションでのストリップ騒ぎ、そして一昨夜の公務執行妨害に器物破損!見ろ!この傷を!きさまのおかげで私の太腿はこのありさまだ!」
おまわりさんは頼みもしないのにわざわざパンツを降ろして、ひどく痣になった腿を見せた。
「どうだ!心が痛むか!」
「…………ない、僕のパンツが…………」
「人の話を聞け!」
「…………ない…………」
「くどい!パンツが無かったら無いでズボンを直にはいてしまえ!」
「いいんですか、そんなことして?」
「当然だ。直にズボンをはいてはいけないという法律は無い。警官の私が補償する」
「では、失礼して……」
「手短に頼む」
「うわーっ!」
「な、なんだ!今度はどうした?」
「痛い!うわ一っ!痛い!うわ一っ!」
「うわーっ!ではわからん!一体どうしたんだ?」
「はさまった!チャックに……ファスナーに……皮が……ふぐりの……ぐうぅ……」
「うわっ!これは痛い!……あーぁ、こりや駄目だ、完壁にはさまっている。ファスナーを下ろすしかないね。これは痛いぞ……ばちがあたったんだ!はははは!」
「笑い事じやない!あんたが直にズボンをはけなんていうからこんなことに……うぅ……あんたのせいだろうが!なんとかしてくれ!」
「なんとかしてくれと言われても、ファスナーを下ろすしか手はないのだ」
「そんな…………」
「そんなもこんなも無い!ひと思いにやってしまえ!」
「嫌だ!痛いのはごめんだ!」
「きさまにそんことを言う資格はない!見ろ!この痣を!どれほど痛かったことか!きさまも地獄の苦しみを味わいやがれ!やれ!早く!時間稼ぎをしてなんとか逃げ出そうとしても無駄だぞ!ええぃ、じれったい奴め!きさまが出来ないのなら私が代わりにやってやる!貸せ!」
「や、やめてくれ!」
「どうかなさったんですか?……キーッ!」
(この叫び声は………)
Y君とおまわりさんが振向くとそこには、なんという偶然だろう、金子信子が立っていた。
(これは……悪魔のたくらみか……)
そう心の中でつぶやいたのはY君か、はたまたおまわりさんか……
「ち、違うんです!誤解ですよ!これには深い訳が……」
おまわりさんは必死に弁解しようとしたが信子は聞く耳持たずだった。
「現職の警官が……若い男のズボンのチャックを無理やり下ろそうとしているわ……そして自らのズボンも下ろして……白昼堂々と……あなたたちは……仲間だったのね!」
「違うんだ!話を聞いてくれ!」
「近寄らないで!……来ないでぇ!キーッ!」
「ま、待ってくれ!」
「来ないでえ!キーッ!」
凄まじい叫び声を残して金子は駆出していった。その後を追ったおまわりさんは、下ろしたズボンに足をとられ、激しく転んでいたが、すぐに立ちあがるとズボンをたくしあげながら、追走して行ってしまった。
残されたY君はあまりの痛さに耐えかねて、受話器に手をかけていた。
「もしもし、救急車をお願いします、場所は…………」
Y君は頭の切れる人間だった。取乱すと世の中の常識をないがしろにする傾向はあったが、それに目をつぶれば、閃いたことを理論を以てして、階段をのぼるがごとく進展させていく能力には非凡なものがあった。今回も結果的にその閃きが効をそうしたと言えよう。
119番に電話をして一息ついたY君は、とっ散らかっている状況の整理整頓から始めることにした。
(まずは今、自分が置かれている状況の把握から始めねばなるまい。ここに立っているのは僕……、そこに死んでいるのは彼女……今去っていったのは警官といつぞやの女……それからここに来るのは救急車……さしあたって、去ってしまった警官と女は切捨てて、これからのことを考えよう。第一に私のファスナーにはさまってしまった物についてだが……よく考えてみると、これは救急車を呼ぶほどのことではない。救急車というのは瀕死の重傷を負った人々が乗るものであって、僕の場合、それに該当しない。ということは、僕は用もないのに救急車を呼んでしまったことになる。これは、まずい。何か呼んだ理由をでっち上げなければならん。となると……そうか、ここで彼女が使えるわけだ……幸いにして彼女は死んでいる。突然倒れた彼女のために救急車を呼んだ、ということにすれば良いのだ。しかし、死因を聞かれたらなんと言えば良いのだろう……まさか、やり過ぎて死にました、などとは言えないし……そんなことを言ったら僕が殺したことになってしまう……しかし、主導権を握っていたのはた彼女だ。彼女にこそ責任があるのだ。そうだとも……でも、これが明るみになったら週間誌が書きたてるぞ……)
Y君の頭に、ケバケバしい見出しが浮かんでは消えていった。
『淫乱青年、非情のセックス』
『狂気の夜!死の性交』
『哀れ!セックス地獄、性欲のえじき』
しまいにはニュースの模様までちらついてきた。
「今日午後五時頃、京都市中京区のマンション、アーバンたこ薬師の302号室で全裸の女性の死体が発見されました。警察では、Y君と名乗るその部屋の住人から事情を聞いていますが、昨晩、Y君はその女性に十七時間にも及ぶ性交を強要した末、衰弱死させたもようです……警察では、近年希にみる異例の性犯罪としてさらに詳しく追及していく方針だということです。では次のニュース……」
「うわーつ!」
Y君は頭をかさむしった。
(どうしよう……どうしよう……どうしよう……)
手のひらに残った毛を眺めていたY君は、最善の打開策を思いついた。
(そうだ……黙っていればわからないことではないか……この髪の毛のように……)
わけがわからないようだが、一応の筋は通っていた。つまり、髪の毛が教本抜けようとも、黙っていれば誰にもわからないのと同様に、今回の場合も「死人に口無し」、彼女が死んでしまった以上、Y君さえ黙っていればわからないはずだ、ということである
(……ということは、問題はすべて解決したのだ。僕はこのファスナーをおろしさえすれば良いのだ。うふふふ………)
Y君は身辺をきれいに片づけると、その勢いでファスナーを降ろしにかかった。
「いくぞ!」
しかし、かけ声とはうらはらに、Y君の指は動かなかった。
(いざとなると決心が鈍るものだ。しかし、ここは思い切りが肝腎だ。バンドエイドを剥がす時のことを考えて見ろ、一気に剥がしてしまえば、どうということもないものだ……それに往生際が悪いのは端から見ていて見苦しいものだ。よく、プールの高い飛込み台の上で、いくぞいくぞ、と言っておきながら、なかなか飛込まないやからがいるが、あれは見苦しい……ここは一気に……)
「いくぞ!」
Y君の説明など何も聞いていなかったのか、指は全然動かなかった。
(……出来ない……やはり痛いのは嫌だ……待てよ、物は考えようだ。熟練した釣り人は、釣り糸がからまった時には、焦らずジワジワとほどいていくものだ。一気にできないのなら選択の余地は無い……ここは一つ、僕も釣り人にあやかってジワジワといくとしよう)
「ジワジワ……ジワジワと……」
ゆっくりゆっくり指を動かしているY君をせきたてるように救急車のサイレンが近づいてきた。
(まずい、こんな時に……)
救急車のサイレンはマンションの前で止まったようだった。
(いかん、もう一刻の猶予もならん!いくぞ!)
Y君はせっぱ詰まらないと行動を起こせない人間でもあった。
「いくぞ!」
「いくぞ!」
「いくぞ!」
何回目かのかけ声に、ようやく臆病な指は従った。
「ぐおぉ…………」
もの凄い痛みがY君の下半身を襲うと、一旦は引いていった血が、押返されるようにその一点に集まってくるのだった。しかしY君には傷ついた下を慈しんでいる余裕はなかった。もう、すぐそこに救急車の隊員が迫っているのだから……
Y君は、ニ度と過ちを起こさぬよう、慎重にズボンをはいていた。痛みを堪え、薄手のセーターをかぶると、ちょうど救急車の隊員が部屋に駆けこんできた。
「患者さんはどこですか!」
「あそこです!」
Y君は突刺すように指をペットに向けた。
すると救急車の隊員も、床に突刺さったように立ちすくんだ。その奇怪な振舞いにY君が改めてペットを見ると、そこには物言わぬ羊のぬいぐるみが、つぶらな瞳でこちらをじっと見詰めて座っているのだった。
「ば、馬鹿な!いつの間に…………きさま!どういうことだ!いったいどういうつもりだ!」
ペットに駆寄り、羊の前にへなへなと座りこんだY君の背後から、隊員達の冷たい囁き声が響いた。
「患者は……この人なんじゃないの?……」
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第四章
雨の植物園
不可解な出来事の連続に打ちのめされたY君は、何者かに取り憑かれたかのように街中を徘徊していた。自分の中で絶対的だった常識が音をたてて崩れさっていくのがはっきりと感じられ、焦りと不安に押し潰されそうで、とても一所にじっとしてはいられなかったのだった。行く先もないまま、もう四時間ちかくも夢遊病に近い状態で歩き続けていたY君には、自分がどこをどう歩いてきたのか、今どこにいるのかもわからなくなってしまっていた。
突然、雨滴がひときわ激しく傘を叩く音に足を止めたY君は、頭上に覆いかぶさるように広がった大木の枝が風に揺れ、その滴が落ちては煙のように拡散していくのを見た。
そこは、Y君が好んでよく訪れていた植物園の中央広場だった。
土曜日の午後とはいえ、冷たい雨の降りしきる植物園にひとけはなかった。Y君は自分が入園券を買ったのかどうかさえ覚えていない始末で、ただ朦朧とした頭を時々左右に振るばかりだった。そして Y君の耳中には、何か無方向性を感じさせるような、いままで聞いたこともないような方角から、奇妙な呼び声が響いていた。
「ぉーぃ…………」「ぉーぃ…………」
繰り返し繰り返し響いてくるその声は確かに聞き覚えがあったが、その声の源が何処なのかはどうしてもわからないのだった。自分の頭の芯から響いてくるようでもあるし、また、地底深くから響いてくるようでもあった。Y君は目を梅干しのようにつぶり、耳を両手で強く抑えて激しく頭を振り続けた。しかし、それでもどこか遠くからその声は響き続けてくるのだった。
「やぁーめぇーろぉー!!!」
堪え切れくなったY君が、腕をぐるぐると振り回しながら目を大きく見開くと、風に飛ばされた木の葉が、スーッと何かに引っぱられるように灰色の空へと登っていくのが見えた。そして人影のない園内に、震えるような声が確かに響いた。
「ぉーぃ…………」
「だ、誰だ?」
「ここよ、ここ…………」
「お、おまえは……」
広場の中央にひときわ高くそそり立つ巨木に寄りかかるようにして立っていたのは、まぎれもなく彼女だった。
「ど、どうして?」
駆け寄ろうとするY君を制止するかのように突然巨木が葉を揺らし、細かい滴が彼女をベールのように包んだ。しばらく霞むような目でそれを見ていたY君の前に、幕があくように開けた視界の中に忽然と現われた彼女は、一糸まとわぬ姿で巨木の幹にからみついていた。
(はっ!……)
苔むした巨木の緑に、透き通るような白い肌を紅潮させたその姿は、たとえようもなくエロチックで、息を呑むY君の股間を直撃した。そしてその白い肌が幹上に怪しげな起伏でうねりだすと、Y君の欲情は蒸気機関のように激しく動き出すのだった。
(幻覚だ……幻覚なんだ……)
そう言ってY君は、必死に自分の体を抑えつけようとした。しかし、彼女の腰が激しく巨木の幹を打ちつけるように動きだし、乱れた髪の間からうつろな目で見つめられると、もう体はY君の言うことを聞かなかった。
(呼んでいる……おいでおいでと呼んでいる!)
Y君はビニール傘を放り出すや否や、驚くべき速さでズボンとパンツを一緒に脱ぎ捨てた。そして猛スピードで駆け寄ると、あっというま彼女に飛びかかり、押し倒した。
ドシーン!!
もの凄い音がした。地響きすら感じたY君だった。
(なんの音だ……今のは?)
「耳鳴りよ……」
吸い込まれるような瞳で彼女が囁いていた。
「そ、そうか…………ハァハァハァ……」
「きっとそうよ」
「ハァハァハァハァハァ…………」
「……人が……見てるわ……」
「ハァハァ……かまわん……ハァハァ……」
どこからともなく聞こえる彼女の囁きに答えながら、Y君は一心不乱に彼女を抱いていた。
「人が見てるわ…」と彼女が言ったのは本当だった。Y君の理解不能な行動の一部始終を、遠巻きに見つめる一人の女がいた。
ほかならぬ金子信子だった。
Y君同様、ここのところの一連の怪事件に一人悩んでいた信子も、運命の導くまま、この植物園にやってきていた。
「ドシーン!」
(ひっ!……)
信子は、かって見たことのない異様な光景を目の当りにして息を飲んだ。見覚えのある男が、雨の降りしきるひと気のない植物園の広場で、ずぶ濡れになりながら、広場の真中にそそり立つ巨木を押し倒したのだった。しかも、男はズボン、パンツを膝まで下ろしている。時々、垣間見える陰毛には、折からの秋雨が雫を湛えている。それだけではない。男は腰を上下左右に激しく揺り動かしているではないか。よく見ると、木にくくりつけられた小鳥の巣箱の穴をターゲットにしているようだ。
「ハァハァハァハァハァ……」
男の荒い息が聞こえてくる。
「ハァハァ……かまわん……ハァハァ……」
(きょ、狂気の沙汰だわ……一人で木を相手に……やっぱり、あの男は変態だったのね……許せない……許せないわ!公共の、いえ、天下の植物園で、こんな行為がまかり通るなんて……)
花を誉で、樹木を愛する孤独な銀行員、金子信子にしてみれば、樹齢二百年の巨木を押し倒しただけでも許しがたいところなのに、子供たちが作った愛の巣箱に、こともあろうに、ぶちこむとは……怒りを越えた何かが、信子を恥ずかしさから解放っていた。そこにいる信子は、いままでの信子ではなかった。
(管理人を呼んでこなくちゃ……現場を押えればこっちのものだわ……この前みたいなことにならないように、木を倒している人がいます、と簡潔に言おう)
信子はY君の放り投げた傘をまたぐと、そーっと、しかし大急ぎの、競歩の足運びで管理人詰め所に向かった。
「もしもし……何をしてはんねや?」
Y君はつくづくラッキーだった。信子が管理人を連れてくる前に、第ニの発見者が現れたのだった。しかもそれが、雨中、傘もささずに散歩にやってきた近所のボケ老人だったのだから、話ができすぎている。
「……ハァハァハァ……」
「……もしもし……何をしてはんねや?」
Y君は三度目の呼びかけにして、初めて老婆の姿を認めた。
「……ハァハァ、ハァ?…………ハッ!……うわっ!……うわーっ!しまった!!」
(見られていた!!)
しかしよく考えれば当然だった。いかにひとけのない雨の植物園とはいえ、誰かがやって来る確率は、来ない確率よりも遥かに高かった。Y君には、こんな人目につくところでパンツを降ろしてしまった自分自身というものがとうてい信じられなかった。
(僕はいったい何をしているんだ?…………)
老婆と目線を交えながらY君は何をどう言えばいいのかわからなかった。
「……もしもし……何をしてはんねや?」
老婆の度重なる問いかけにY君は答える言葉も見つからなかった。
「………………何をしてるって………………御覧の通りで………………」
「御覧の通り?」
以外にも老婆はいぶかしげな表情でY君を見返していた。わけがわからいまま、体を交えている彼女の顔に目を落としたY君の目は、いつものように黒点と化していた。
「ゲェッ!」
Y君がそれまで彼女だと信じて疑わなかったものは、まちがいなく樹齢二百年の巨木だったのだ。
(……こんな馬鹿な!……)
しかもY君は巣箱とおぼしき物体と完璧に合体していた。
(なぜ?なぜ、こんなものに……)
Y君はじたんだ踏んでくやしがろうとしたが、それすらできなかった。
(ぬ、抜けん……!)
幼稚な文字で「ことりさんへ」と書かれた巣箱に突刺さったY君の男根は、数分間の激しい上下運動で充血して腫れあがり、押しても引いても、細かく左右にふるってみても、うんでもなければすんでもなかった。
(……これはピンチだ……我が人生最大級の大ピンチだ……)
「もしもし……何をしてはんねや?」
壊れたレコードのように老婆は同じ問いをY君に浴びせ続けるのだった。
Y君は焦った。
(もはや、どんな言訳も通用しまい……)
一旦は完全に観念したY君だったが、思い直して一応、言訳をした。
「いやはや、参りました。たたりなんです、たたり。なんでもこの木は樹齢二百年だそうでして、本当は二十年ぐらいなのをさばよんでいるんだろう、嘘つき、と私が申しましたところ、それがこの木の精霊の怒りに触れまして、パンツを脱がされ……ははっ、このザマです、いやはや、お恥ずかしい……」
(なんという非現実的な言訳だろう……我ながら恥ずかしい……この二十年来、言訳をし続けてきたが、こんな馬鹿げたのは初めてだ……)
Y君は紅糊させた皮膚の下で、恥ずかしさに赤面していた。
「そりゃぁ、難儀なことやなぁ……たたり……恐ろしいことやなぁ……そうでっか、そうでっか……すんませんねえ……わたしゃ、少しボケてますよってに……家族のもんが帰ってきたらよく説明してやって下さい……そうでっか……ところで、あんた、なにしてはんねや?」
老婆の言動は明らかにおかしかった。
(しめた!このバァさんはボケている!)
絶対絶命のピンチに、通るはずもない言訳が通ってしまったのだ。Y君は腰にぶらさげた巣箱を揺らして喜んだ。
(ここは一気にたたみかけるしかない!)
「おバァちやん、お手数ですが、その巣箱を木にくくりつけている針金をはずしてもらえませんか?」
「……………………」
ところがどうしたことか、バァさん、ヨロヨロと歩を進め、今まさに去ろうとしているのだった。
「おバァちやん!」
Y君は絶叫した。
「おバァちゃん!ここで行ってしまったら、おバァちゃんにもたたりがきますよ!たたりですよ、た!た!り!」
「たたり……」
バァさんの歩みが止まった。
「そうですよ、たたられますよ!極楽浄土へ行けなくなりますよ!」
「極楽……」
バァさん踵を返す。
「ほんまどすか?そりや、えらいことや……どうしたらええんどすか?」
「その、その針金をほどくんです!早く!」
「……これでっか?」
「早く!早くしないとたたりが来ますよ、化けものが襲ってきますよ!」
「たたり?……ばけもの?……ふーっ!ふっ!ふっ!、むん!」
バァさんは針金を素手でひきちぎった。老人とは思えぬパワーだった。
(信じられん……)
あっけにとられるY君をよそに、バァさんは怪しげな念仏を唱えながら、地べたに座りこんでいた。
(罪なことをしてしまった……これもすべて彼女のせいだ!……あれっ、いない……)
植物園の広場には、Y君とバァさんが雨に打たれているだけだった。
(それにしても、どうしたもんだろう……やっかいなものをくっつけてしまった……)
Y君の男根は、依然としてかたくなな態度を崩していなかった。
(とりあえず逃げよう。なにしろ樹齢二百年の巨木を押し倒してしまったのだからな……これは立派な犯罪だ。幸いこの婆さん以外には誰にも見られなかったようだし…………)
信子に目撃されていたことを知らないY君は少し落着きを取り戻していた。
「ここで見たことは、決して誰にも喋っちゃいけませんよ。喋るとたたられますよ。たたりですよ、た・た・り!孫の代までたたられますよ、いいですね」
バァさんへの口止めもぬかりなく済ませたY君は、依然腫れている男根の鈍痛をこらえつつ、パンツとズボンを股下まで上げた。今まで気がつかなかったのだが、Y君は下半身を露出したまま、バァさんに口止めしていたのだった。ケツを丸だしにし、陰部に巣箱をぶらさげて、「た・た・り!」などと力説していた自分を思うと、再び恥ずかしさがこみあげてきて、いてもたってもいられなくなった。ズボンがズリ落ちてくるのを手で食止めなければならなかったY君は、巣箱の揺れを最少限に押えるため、ピッチ走法で広場を去っていった。
バァさんは相変わらず雨に打たれながら念仏を唱えていた。
「木を倒している人がいます」
信子の報告で駆けつけた管理人は、中央広場に横たわる巨木と、その傍らに鎮座する老婆を見た。
(こ、これは…………)
管理人は言葉を失っていた。
信子も又、予想外の光景に言葉を失っていた。
(こ、これは…………)
数秒の沈黙の後、管理人が口を開いた。
「こ、これは……ひょっとして、お婆さんが倒したんですか?」
(何を馬鹿な……)
信子は管理人の非常識な質問に舌打ちした。
「このお婆さんに、そんなパワーがあるわけないでしょう……」
「しかし、このお婆さん以外には犯人と思われる者は見当たりませんが……」
「違います、男の人が倒したんです!このお婆さんにはこの木を倒す力はありません!」
「それじやぁ伺いますがね、あなたが見た男というのは何者なんです?確かに、このお婆さんには、巨木を倒す力は無いかもしれません。しかしですね、あなたの見たという男が人間なら、その男にもこの巨木を倒すことは不可能です。当植物園で最も古い樹齢二百年のこの巨木を、根こそぎ引っこ抜くなんて真似は、キングコングにだって出来やしません!」
「キングコングだったら出来ると思います!」
「……あなた……そんな……人の言葉尻をとらえなくても……」
「キングコングだったら、こんな木の一本や二本」
「こ、こんな木とはなんです!失礼な!これは当植物園で最も古いといわれる樹齢二百年の御神木で……」
「わかってます!それはもう何度も聞きました」
「だったら、どうして私の言うことをわかってくれないのですか?」
(これは駄目だ……使えない……)
信子は目を閉じた。
(ここはひとまず引いて、話をもとに戻さなくては……いつまでたってもラチが開かない……)
「わかりました、私がまちがっていました。キングコングでもキンタクンテでも無理でしょう……」
「結構。わかってもらえて嬉しいです。……ところで、どういういきさつで倒れたんでしょうねぇ?」
「このお婆さんがすべてを語ってくれるはずです」
信子は雨に打たれる老婆の肩にやさしく手をあて、語りかけた。
「お婆さん、お婆さん、なにがあったのか話してちょうだい……見たままを話せばいいんですよ……」
バァさんは遠くを見詰めながら、ゆっくりと語り始めた。
「……たたり……」
信子と管理人はかたずを飲んで、老婆の皺だらけの口元を見詰めていた。これから語られるであろう恐るべき真実……
しかし、老婆の口元はいっこうに動く気配をみせなかった。
「……それだけですか?」
「なぁーんだ」
管理人は失望したように言った。
「なぁーんだ、じゃないでしょ!こんな馬鹿でかい木が倒されたんですよ!それを、たたり、の一言で片付けてしまっていいんですか!」
「……そう言われてみると……」
「そうでしょう!さあ、お婆さん、その続きを話してちょうだい!」
「……たたり……」
「お婆さん!」
信子は左手一本で老婆を持ち上げた。
「こ、興奮しないで!……ひょっとしてあなたが犯人では?」
「何を言うんです!」
「だって、片手でお婆さんを持ち上げたじゃないですか!」
「こんなこと、誰にだって出来ます!やってごらんなさい」
「……重い……とても出来ん……」
「あなたそれでも男なの?」
「あんたが異常なんだ!」
「なんですって!」
「うるさい!」
突然、老婆が叫んだ。
「まだ続きがあるんどす……黙って聞きなはれ」
「……すみませんでした」
ずぶ濡れた老婆の態度には威厳があった。どういう威厳かよくわからないが、その異様さに押された信子と管理人は、同時に頭を垂れていた。
老婆は再び遠くを見詰める目になった。
「……この木は樹齢二百年を誇る当植物園きっての古木……である…………この木はシイの木科に属する……マテバシイ……で……晩秋には……たわわに実をつける…………この巨木はもともと……東山の中腹に根を張っていたものだが……昭和に入ってから……この地に移されたもの……である……京都の名木百選に……も……挙げられており……」
「そ、その通りです!お婆さん、どうしてそんなにこの木のことをよく知っているのですか?」
管理人は感動のあまり震えていた。
それを無視した老婆は、何かに憑かれたかれたように喋り続けていた。
「……訪れる人々に歴史の重みと……自然の力を感じさせるだろう……ただし春先には……毛虫がひどくて……近寄るべからず……」
(おかしい……この話、どこかで聞いたことがある)
信子と管理人は目を合せた。そして、時折身を乗り出すようにしながら語り続ける老婆の、その目線を追っていくと、広場の右隅に立てられた「御霊木・二百年の歴史」という解説看板にたどり着いた。なんのことはない、このバァさん、解説文を棒読みしていたのだった。
「……ひっぱたいてやる!」
信子は挙を振り上げた。
「まあまぁ、落ち着いて……それにしてもお婆さん、目がいいんですねえ」
「関心している場合ですか!このバァさんは駄目だ!ボケている!」
「ボケてなどおらん!……今のは冗談どす。あははは……」
「……この!」
信子は傘を振りあげた。
「おやめなさい!……あなた、暴力的ですね……やっぱり、あなたが犯人では……?」
「なに……!」
「ほら、また……カッとなると何をしでかすかわからないタイプですね、あなた……まぁ、傘を降ろして。もうすぐすべてがはっきりしますって。冗談はあっちにほっぽり投げておいて、本当のところを、さぁ、お婆さん、どうぞ!」
管理人はのど自慢の司会者みたいな口調でバァさんを促した。
「へえ……ほんなら、話しましょか……私がこの木に、樹齢二百年だとか言ってはるけど本当は二十年ぐらいなんと違うか?さば読んでるのんと違うか?、言いましたところ、それがこの木の霊の怒りに触れたらしく、突然私に向かって倒れてきはったんどす…………たたり……たたり……」
「なるほどね……そういうことだったんですか」
「……ちょっと、管理人さん、まさか……納得なさったんですか?」
「ええ」
「ええ、って……こんな非現実的な話を信用なさるんですか?」
「非現実的?なにをおっしゃいます。充分ありうるお話しです。この木はもともと東山の中腹にある毒海亀神社の御神木だったものなんです。そういう恐れおおい木ですから、無礼な振舞いをしたのなら、災いが降りかかっても、なんら不思議はありません」
「……あなたではお話になりません。どなたか現代科学に深い造詣と幅広い知識を持った方を連れてきてください。あなたのおっしゃる超常規象が科学的に証明できるか、ぜひともお聞きしたいわ」
「馬鹿にしてますね?私の言っていることを信用していませんね?」
「当り前です!あなたのおっしやることが本当なら今、ここで私がこの樹齢二百年の御神木の悪口を言ったら、私にもあなたのおっしゃる災いとやらが降りかかるはずですわよね?試しにやってみましょうか?」
「おやめなさい……」
管理人を制して老婆が久々に喋った。
「いいえ、やってやるわ!これでも私は大学の一般教養で生物学をとっていたのよ、現代科学の名のもとに、たたりとやらに立向かうわ!」
唾きを飛ばして宣言する信子。沈黙を守る老婆。互いに一歩も譲らぬこの二人には、もう、衝突以外に道はなかった。
「知らないぞ、知らないぞ……恐ろしいことになるぞ……私は知らない、関係ない!」
恐れをなした管理人は、水しぶきをあげて逃げていってしまった。
(こうなったら、もう、後には引けないわ……)
信子は慎重に言葉を選んだ。木を馬鹿にする言葉の選択はかなり難しかった。
(何か木を使った軽蔑語があったはずだわ………………思い出せない……こんな時「広辞苑」があれば…………「うすらとんかち」……じやなくて……「馬鹿の大足」……じゃないし……それにこれは「まぬけの小足」と切返されるに決まってるわ……とりあえずでかいから「でくのぽう」でいこうかしら……あっ!そうだわ!「とうへん木」だわ!そうよ、そうだわ!よぅーし……)
「この、とぉうへぇんぼぉくぅ!!」
信子は満身の力を込めて張り裂けんばかりの声で叫んだ。そしてその声が雨に濡れた木々に吸い消されると同時に、それまで座りこんでいた老婆がいきなり立ちあがり、樹齢二百年の巨木を軽々と持ち上げたのだった。驚愕のあまり顎をはずした信子の目前で、老婆は巨木を二、三回頭上で振回した後、もとの場所に突き刺した。
(あばばばば……)
呆然自失のまま虚空を見つめる信子の眼中には、ピントのずれた巨木は何ごともなかったように大地に根をおろして雨に濡れていた。いつの間に登ったのか、老婆が木の枝にぶらさがって高笑いをしていた。
「あははは……」
「はっ、きーっ!」
信子は両耳を押えて転げ回り、泥だらけになった後、さっきの管理人と同じように、水しぶきをあげて去っていった。
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第五章
病院へ行こう
Y君は心の静寂を求めて近所の寺の境内にいた。草木繁り鳥集う名刹は、町中にあっても静かな空気を保っていた。
植物園での出来事は、Y君を数日間悩ませた。無論、良心の阿責にさいなまれたのではない。幸いにしてY君は、もともと良心などというものを持ちあわせていなかったのだ。
Y君を悩ませたのは、倒したはずの巨木を世の中が無視したことだった。牛が牛舎で糞をしたとでもいうように、なんの騒ぎにもならなかったのだ。テレビ、新聞、ラジオなどのマスコミは勿論、近所のおばさんたちの世間話のうちにさえ、巨木のきょの字も見出せなかった。
(魔物なのだ……彼女は人間の知らない力を持つ魔物なのだ……あの植物園での出来事も幻覚だったに違いない。以前、ペットにあった彼女の死体だってそうだ。その証拠に、救急隊員と一緒に見た時は羊のぬいぐるみになっていたじやないか。あの寒い夜、尻にくっついて離れなかったベンチもだ。今度の巨木だって、僕が去った後は、もとどうりに根を張っているに違いない。そうだ、確めに行こう。……いや、やめたほうがいい。騒ぎにならないということは、倒れていないということだ。便りがないのがよい便りと言うじゃないか。それに火曜サスペンス劇場の中で刑事が言っていたぞ、「犯人は必ず犯行現場に戻ってくる」って。ひょっとしたら、それが狙いで事件が報道されないのかもしれない。いや、まてよ、見に行って例の巨木が倒れてなければ、あの雨中の出来事が幻覚だったことがはっきりして、気分もすっきりするんだ。いやいや、行ってはいかん、私が行けば刑事が張込んでいて、私が行かなければ刑事は張込んでいない……そんな気がする)
すべて見通されている、そしてすべて仕組まれている、そう思うと身の周りのものすべてが、彼女のさしむけた刺客のように思えてくるのだった。
ぼんやりとベンチに腰掛けるY君の足下にはたくさんのハトが集まってきていた。しかしなにかがおかしかった。ハトの表情がどこか不自然なのだ。Y君は相変わらず足もとにまとわりついてくるハトに顔を近づけた。
「どうされました?」
いつのまにかY君の背後に、和尚らしき人物が立っていた。
「いえ、ハトが笑っているように思えて……」
「ハトが?笑っている……そんなことはない……」
再びY君はハトに近づきじっと凝視した。
「フフフ……」
疑う余地はどこにもなかった。今、まさにY君の目前で、ハトはフフフと笑ったのだ。
「……ハトが…フフフと……」
「フフフとねぇ……そういうハトもいるかもしれませんなぁ……」
坊主の無責任な発言に、小さな黒点と化したY君の目は、やがて遥か伽藍の向こうに見える、青空の果てを追い始めた。
(そういうハトもいるかもしれない……、そう言われてしまえばお終いだ、オウムやセキセイインコは、コンチハ、とか、オハヨウ、とか言うんだからな。同じ鳥だ、フフフくらい出来ても不思議は無い。しかし、この間題の真理は、そこには無いのだ。笑うハトがいようといまいと、そんなことはどうでもいいのだ。そいつがなにゆえ僕の前にわざわざやって来て笑うのかが問題なんだ。もう僕にはわかっている。僕がどんなに力を尽くしても、このハトがやって来るのを防ぐことは出来なかったはずだ。このハトは僕の前でフフフと笑う、そういうハトなのだ。そういうことなのだろう、どうしょうもないことなのだろう……)
沈黙が訪れていた。柔らかな陽が降りてくる静かな境内には、ただカサカサとハトの足音が聞こえるばかりだった。気がつくと立ちすくむY君の周りを無数のハトが取り囲んでいた。そしてそのハト達が一斉に「フフフ」「フフフ」と笑い始めたのだった。
「わぁぁぁ!!!」
Y君は両耳をふさぎながら絶叫し走り出した。境内のじゃりに足をとられ、転がりながら逃げ続けた。竹林の中を走り、墓石を倒し、枯山水の庭の白砂を蹴ったY君が、疲れ果ててうずくまったのは本堂の前だった。薄暗い本堂の中は線香の匂いと煙で満ちており、その奥にはなにやら巨大な尊像が安置されているようだった。日頃、神仏など信じたこともないY君だったが、今は仏でもキリストでもアッラーでも、なんでも良かった。
(なんでもかんでもみんな崇め奉るから、誰か、なんとかしてくれ……)
ポケットから五円玉を取出すと、それを潰さんばかりに握りしめ、ヨロヨロとさい銭箱に近づき、暗がりの中に立っている仏様にお祈りを始めた。
(どうにかしてください……)
全く抽象的なお祈りの言葉だったが、Y君の率直な、嘘のない祈りだった。
「苦しい時の神頼み……」
どこからともなく声がした。Y君の急所を適確についた、重くえぐるような声だった。
「誰だ!」
怒鳴るY君に、ここだ、と言わんばかりに薯銭箱の前に歩み出た本尊が、大きく手を振っていた。
「あーあーあー!」
尻餅をついているY君の前に、本尊はさらに大股で一歩進み出た。
「なんだこれは!こんな時だけ仏を頼り、さい銭五円とは言語道断!押し潰してくれる!」
はりさけんばかりの声でそう言うと、大の字になって倒れてきた。
「いや、これは、御緑がありますようにという意味で……うわーっ!」
反射的に言い訳を口にしたY君だったが、逃げて助かる間合いではなかった。
(やられる!)
Y君は頭を抱え、身を丸めてうずくまった。
静かな時間がただ流れていた。
巨大な木像に押し潰されたはずのY君が抱えていた頭を上げると、そこには平穏な境内の午後があった。本尊も暗い堂内になにごともなかったかのように立っていた。境内にはうずくまるY君と、その突然の奇行に午睡を妨げられ、呆然と立ち尽くす近所の老人たちの姿があるだけだった。
Y君は沸き上がる不安に震えていた。一度は立ち上がったものの、がくがくと足はひとりでに踊りだし、崩れるようにしゃがみこんだ。恐ろしさのあまり、そのまま三回程後転したY君は、じゃりを敷きつめた参道を犬のように四足で走り、さらに石段をゴロゴロと転げ落ちた。
ちょうど寺から放り出された格好で転がり出てきたY君は、勢いあまって道路脇のドブに落ちた。腰を強打したY君は、ドブにすっぽりはまったまま動けなくなっていた。コンクリートの地面すれすれの見慣れない視界とすぐ脇を走り去っていく軽トラックの排ガスがY君を一層不安にさせた。必死にもがくY君の目に、遥か彼方から、序々にこちらに近づいてくる、太ったネコが映っていた。Y君は瞬時にそのネコを恐れた。そのネコが自分に危害を加えようとしているような気がしたからだ。
「くるな!くるな!」
ネコが近づくにつれ、その不安は大きなっていった。
(奴は僕が動けないのをいいことに、ひっかいたり、ぶったり、蹴ったりしようとしているに違いない。よせ……くるな……よせ……よせ!やめろ!くるな!)
ネコはもう、数メートル先まで接近してきていた。
「くぅーるぅーなぁー!」
Y君は最後の力を振絞りって絶叫した。
しかし、ネコはなにくわぬ顔をして、Y君の横をすーっと通り過ぎていった。
おしりを振り振り去っていくネコを見送るY君は、堅く握っていた挙を開くと、顔を覆ってつぶやいた。
「もう駄目だ…………病院へ行こう……」
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第六章
こぱかぱーな
Y君は遂に病院の門を叩いた。
精神科を訪ねたY君は、待合室で思いもよらぬ人に再会した。
「……あら…………」
金子信子だった。
「……どうも…………」
精も根も尽き果てたといった感の二人に、争う気力は残っていないようだった。
そしてお互い、まじまじと目の下の隈を見詰めあった後、同じことを思っていた。
(もう疲れた……)
静かな時間が待合室に流れた。
「金子さん、金子信子さん、どうぞ……」
看護婦の呼ぶ声がした。
(金子信子、という名前だったのか……)
Y君は、金子信子という名前を、今ここにおいて初めて知ったのだった。よくよく考えてみれば、金子に会ったのはこれが三度目だった。
「はい……」
低く返事をした信子は、Y君のほうに冷たい視線を力なくむけると診察室に消えていった。
「どうなされました?」
診察室で待ちかまえていた医者は、カルテに目を落としていた。
「はい、それが……」
重々しい口調で話し始めた信子に、医者は親しげな声をかけた。
「あら、おひさしぶりね」
(ひーっ!)
顔を上げた医者に信子は目をむいた。それは忘れもしない、植物園で出会った、あの老婆だったのだ。
「キーッ!」
信子は看護婦の制止を振切って、診察室を転がりながら飛出した。
(どうしたんだ?)
Y君はびっくりして信子のオシリを目で追った。ハイヒールの高い靴音を響かせて、信子が階段のほうへ消えていくのが見えた。
Y君が診察室の方を振返ると、ドアの隙間から医者が顔を出していた。
「うーっ!」
Y君は後方に飛退き、皮膚科の壁に激突した。白衣に身を包んだその医者は、紛れもなく彼女だったのだ。
「うーー……ぶるぶる…うー…」
手を振り、頭を振り、上目使いに彼女を睨んでいたY君も、やがて信子のあとを追うようにして、長い廊下を駆けたり転がったりしていった。
同じような足音を残して……
(もう死のう……)
Y君は精神科から逃出したその足で、病院の屋上に来ていた。
(このままでは、いかん。どこにいてもあの忌わしい幻覚に追いかけられる。魔物に呪われているんだ。死んでしまえば立場は同等だ……)
屋上を吹き抜けていく秋風は心地好く冷たかった。お天気は快晴、見晴らし抜群。
(この季節に、この天気。そしてこの見晴らしの良さ。こういうロケーションで死ねるのは、幸せと思わねばなるまい……)
フェンスを飛び越えたY君の心に迷いは無かった。自分を悲劇のヒーローに仕立てあげると、ムードに酔った勢いで、最後の台詞をキメた。
「幕ひきだぜ……あばよ」
Y君の体がさわやかな秋の空に舞った。
(話が達うじやないか!)
空中をまっさかさまに落ちていくY君は、激しく憤っていた。聞いたところによると、飛降り自殺は途中で意識を失い、地面にぶつかる時には何もわからない、痛みのない死に方のはずだった。それが、どうだ、全然意識を失わないまま地面が近づいてくるじやないか。
「うわーっ!」
(もうアカン!)
Y君は死後のことを考えて一応合掌し、万全をきすため、アーメンとも言った。
ところが、いつまでたっても地面に激突した気がしない。落下している実感もない。
(もう、終わったのかな?)
不安になったY君が恐る恐る目を開くと、そこには地面があった。それは落下予定地である病院の裏庭に違いなかった。雑草はびこる乾いた土の上に、無造作に置かれた犬の糞…………その糞にたかるハエが油つぽい羽を七色に光らせ手を擦り足を擦りしている…………それが目と鼻の先に見えた。背景には空に向かってそびえる白く巨大な病棟もあった。
(はて?)
確かにY君は落下したはずだった。飛び降りた高さからして、地面に直撃して無事でいられるはずはなかった。
(地球上のあらゆる物体には、鉛直方向に向けて重力が働いているのだ。物体が自由落下運動した場合、重力加速度はその物体の質量に関係なく一定なんだ。そうだとも、これが真理だ。途中で停止したり減速することは、無い、断じて無い!)
しかしY君はゆっくりとゆっくりと落下した。そしてポトリと地面に落ちた。それは力尽きた秋の蚊の、その落ち方に似ていた。
無言のままヨロヨロと地上をヨロめいていたY君の、その歪んだ口元を占拠したのは、頭の芯からやってくる、いわれなき笑いだけだった。
遠近感を失った目を上に向ければ、遥か屋上に立つ女の顔に、写し鏡のような笑いがうごめいていた。
「ふふふ……」
「へへへ……」
Y君は呼応するように笑いながら、どうしようもないやりきれなさに、心の中で繰返し繰り返し、独りごちていた。
(仕方がないんだ、諦めろ……これは、ただの運命だ……)
「仕方がないんだ、諦めろ……これは、ただの運命だ……」
立ちすくんだままのY君が、何十回目かの独言を、わめくようにつぶやいた時、それは突然落ちてきた。
上方からのただならぬ気配にY君が天を仰ぐと、モモンガのように洋服を脹らませた金子信子が「はーっ」と言いながら、Y君めがけて落下してくるところだった。不思議なことに、近づいてくるにつれ落下速度が遅くなり、信子の泣いているのか笑っているのか、よくわからない表情がはっきりと読取れた。口からヨダレ、鼻からハナミズ、目から涙、それぞれが糸を引いて天に伸びる様までもが確認された。
「はーっ!」
信子はしかし、確実に落下してきていた。
「うわーっ!」
Y君は、逃げようとしていた。が、逃げられなかった。どうしても足が動かないのだった。
「足が、足が、足が……ああぁ!」
とうとう信子は落ちてきた。ふわり、とした感触の後、突然、Y君は目の前が真っ暗になった。
(ああ、ぶつかったんだ。そして今あの世に沈んでいくところなんだ……地獄だ!地獄へおちてるんだ。きっとそうだ、嫌だ!助けて!)
「助けて!」
先程、屋上から自らの意志で落下した人間とは思えぬようなことをY君は叫んでいた。
「助けて!助けて!助けて!」
もがき苦しんでいたY君の目に今度は強烈な光が飛び込んできた。おもわず閉じたまぶたの裏が真っ赤になっていくのをY君は見ていた。
(熱い……熱い、熱い、確かに熱い。真っ赤な血の海に溺れ、灼熱に焼かれ、針の山に刺される……じごく…………)
「地獄だ!」
Y君は目をひん剥いて叫んだ。
(火炎地獄か、灼熱地獄か)
しかし、開いた眼が、その明るさに慣れるにしたがって、目に映ったものは、火炎地獄でも灼熱地獄でもなかった。
それは楽しげなカーニバルだった。輝く太陽、軽やかなサンバのりズム、ほとんど裸で派手に踊り狂う群衆……目もくらむほど明るい光景だった。
Y君は暫くぼんやりしていたが、そのうち羨ましくなり、悲しくなり、やがて楽しくなってきた。
(そうだ!天国だ!そうだ!僕は祝福されたんだ!!!)
「サンバ!サンバ!」
踊りながら近くに寄ってきた彫りの深いブラジル人が大声で叫ぶと、続いてY君も叫び、そして踊り出した。
「ぼるさりーの!」
それは、ほぼ意味もなく、ブラジル語でもなかった。踊りも「阿波踊り」に近かった。
でも、Y君は満足していた。
「まらどーな!」
「ちょちょりーな!」
すっかり調子に乗ったY君は、もう止まらなかった。上着を脱ぎ捨てると両手を頭上にもってゆき、ヒラヒラヒラヒラ、リズムにあわせて揺らし、腰を激しく振り始めた。
「こばかぱーな!」
「こばかぱーな!」
先程来、屋上にあって、一部始終を見ていた金子信子は、熱狂乱舞するY君を前に、呆然として膝を折った。
(なぜなの……?)
信子もまたY君と同じ目的で屋上にやってきたのだった。
診察室を飛出した信子は、屋上へと続く階段を登っていた。すると階下から、なにかがもの凄い勢いで駆け上がってくる気配がしたのだ。それは信子が幼い頃、田舎でよく見かけたに猪を連想させた。逃げるように階段を登る信子のすぐ横を、猛然と駆け登っていったのは、Y君だった。無論、信子はY君を呼びとめた。が、Y君には、取りつくしまもなかった。信子が「ちょっと!」と叫んだ時には、もう、そこにはいなかった。一陣の風を残して通過していったY君が、どこへ向かっていたのか、また、何をしようとしていたのか、信子にはわからなかった。
(私を追ってきたのかしら…………止めても無駄よ……こんな呪われた人生、もうたくさんだわ!……私は、終止符を打つのよ、ジ・エンドなのよ!)
信子が屋上に着いた時、Y君はもう飛降りた後だった。そんなこととは露知らず、靴をそろえた信子は、黒いコートを脱ぎ捨てると、「なむ〜」と念仏を唱えた後手すりをまたいだ。
天気は快晴、見晴らし抜群。心地好い秋風が信子の髪を揺らしていた。
(素晴らしいわ……不幸な私は祝福されるのね……もうじきあの世でしあわせになれるのよ……)
しかし信子は飛降りるには至らなかった。飛降りようとした先に、もう飛降りている人がいたのだ。
Y君だった。Y君はヨタつきながらこちらを見上げ、なにやら笑ってみせるのだった。それは明らかに普通でない笑い顔で、恐ろしさのあまり、信子は顔が歪んでいくのを感じていた。思わず手すりづたいに後ずさりした金子の足もとから脱ぎすてた黒いコートが風にとばされてふわりと宙に舞うと、どうしたことか、地上のY君は俄に怯え出した。そしてそれは計ったようにすっぽりとY君の頭上にかぶさってしまうと、「助けて!」「地獄だ!」と大袈裟に騒ぎだした。そして騒いでいるうちに、自然と頭からコートが滑り落ちると、今度は突然「ぼるさりーの!」だ「ちょちょりーな!」だなどと叫びつつ、シャツを脱ぎ、両手を上げ、腰を振り振り踊り始めたのだった。
(なぜなの……?)
一連のY君の行動は、信子には全く理解し難いものだった。救いを求めてやって来た病院で、カウンターパンチを食った信子は、もう立上がれなかった。
今もなお、Y君は裸踊りを続けている。そしてそれは悦に入ったらしく、いっそう激しさを増しつつあった。
「ぱねとーね!」
Y君を見詰めていた信子の瞳孔が完全に開いた。ついにY君は、パンツも脱いでしまったのだ。信子の表情は再び歪んでいった。
(なぜなの……?)
腹のぜい肉を波打たせたり、高々と尻をあげて左右に振るY君の動きに、信子は何の必要性も、意味も、価値も見出せなかった。
「なぼりてーぬ!」
悦楽の表情を浮べ踊り狂っていたY君が、開脚前転した後、逆立ちして行進しだすと、開きっぱなしになっていた信子の瞳孔は、いっそう大きく開かれた。
「これは……喜劇なのね……人生は……喜劇なのね……」
そう言残した信子は、臼目を剥いて気絶してしまった。
「なぼりてーぬ!……?」
狂喜乱舞していたY君も、さすがにその異変には気がついていた。急激に空気が動き出し、カーニバルの群衆もサンバのりズムも輝く太陽も、遠ざかり始めていたのだ。
「どうしたんだ?待ってくれ!おい!待ってくれ!」
そこにあったすべての存在が、Y君を一人残して、空間ごと移動していた。
「……あぁ…………」
強烈な陽射しは、しだいに薄れていった。サンバのりズムも、もう聞こえない。そして誰もいなくなった。
Y君が立っているのは、まちがいなく病院の裏庭だった。そこには、弱々しい秋の光と建築工事の微かな地響きと、冷え冷えとした空気があった。
(寒い……)
Y君は、ぶるっ!と身震いした。それもそのはずだった。我身を見れば、いつの間にか生れたままの姿に戻っていた。
「これは……しまった!さっきのカーニバルに参加した時に……」
悔恨に打ち震え、恥辱に身を焦がしたY君は、のたうち回って苦しんだ。地面を拳で叩き、頭を打ちつけ、両足で強く踏んだ。そして踏んだまま、動かなくなった。
Y君の左足は、落下する時に見つけた、あの犬の糞を踏みしめていたのだ。
「犬の糞を……ふんだ……」
絶望したY君の、消え入りそうな声が聞こえた。続いてどこからともなくあざけるよう声が……
「その糞はついたら最後、一生臭いのとれない糞なのよ」
「そ、そんな!一生とれないなんて、よせ!よせ!」
Y君は必死で足の裏を枯れた芝生に擦りつけた。そして足を鼻のあたりにもっていくと再び深く絶望して肩を落とした。
「ついたら最後、一生臭いのとれない翼なのよ」
聞き覚えのある声に、信子は正気を取り戻した。
(一生臭いのとれない糞ですって?)
フラフラと立ちあがった信子が裏庭を見おるすと、相変わらず裸のY君が、足の裏を地面に擦りつけていた。
「そ、そんな!一生とれないなんて、よせ!よせ!」
Y君が悲痛な叫びをあげている。
(今度は、なんなの?またなにか、常識が砕け散るようなことが、起こっているのね)
手すりの間から見えるY君は、足の裏の匂いをかいで、悲しんでいるようだった。
(ははぁ、その、ついたら一生臭いのとれない糞とやらを踏んだのね、あははは…………はっ!)
手すりを握る信子の手に、がぜん、力が入った。落ちていた金子のコートを見つけたY君がそれに近づき、足の裏の糞をなすりつけようとしていたのだ。
(冗談じゃないわ、あのコートは高かったのよ……張り倒してやる!)
危うく屋上の手すりを越えて裏庭に飛降りそうになった信子は、寸前のところで踏み止まるとクルリと向きを変え、屋上を滑るように横切っていった。そして出入口のドアを勢いよく開けると、そのまま薄暗い病院の中へつぶてのごとく消えていった。
(完)
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あとがき
墨染堂先生は寡黙でストイックな人だった。その手の性格の持ち主にありがちなことだが、彼もまた精神を病んでいた。ただ小説を書き、絵を描く、それが彼の人生そのものだった。享年34才で自らの命を絶ち、今は静かに壷中の人となって眠っている。彼の人生に捧ぐつもりでここに作品を掲載することにした。尚、掲載文字数の制限により他の作品「白春行路」と「夜間飛行」を割愛せざるをえなかった。残念な限りである。残筆分は「続・壷中の人」で公開したいと思う。
平成十九年 盛夏
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