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第13章
<L>がロシアからイギリスに亡命したジャーナリスト、レオニード・クリフツォフから依頼されて調べていた事件は、メロからの報告でより輪郭のはっきりしたものとなった。
 死んだモデルのアマンダ・ソアレスがスイスの貸し金庫に隠していたタリウムという毒物……これは元FSBの工作指揮官、ヴァシリー・ソコロフスキーを殺害するために選ばれた、第一の毒物であった。ところがそれでは証拠がでるということで、当局が第二に提案したのがポロ二ウムという一般には聞き慣れない放射性物質である。そして結果として、この<ポロニウム210>という毒物を約3ギガレベル摂取したことにより、ソコロフスキーは亡くなったのである。
 ポロニウムはおそらく地球上でもっとも有毒な物質で、ごく微量で人の致死量となり、一グラムあればゆうに五十万人は殺せると言われている……ただし、吸いこむか飲みこむかしない限り、扱う者には害を及ぼさない。これまでの人類の歴史上、このポロ二ウムという物質を使って殺人が行われたことはなかったため、ソコロフスキーの死が一体何によって引き起こされたものなのか、最初は医師にも毒物学者にも警察の人間にもわからないままだったのである。
 だが、ソコロフスキーは当局が仕向けた暗殺者の思惑どおりにはならず、普通であれば即死していてまったくおかしくない量のポロニウムを摂取しながら、その後二週間も病院で生き延びた。彼を担当した医師は、ソコロフスキーが体内に取りこんだ放射能の量は、チェルノブイリの爆心地の二倍にも相当すると話していたという。
(連中は……いや、この場合は<総主教>か。彼は一体次に何をしようと企んでいるんだ?)
 Lは、ロシアの政治を影で操る人形使い――<総主教>の存在についてはよく知っていた。彼はカイン・ローライトが地上を治めるために選んだ人間のひとりであり、ロシア帝政末期から生きている彼はおそらく今、百二十歳を軽く越えた年齢だろう。だが、例の延命薬により、これからおそらく最低でも残り五十年は今の体で生きられるものと想像される……Lがアイスランドのリヴァイアサンの基地を根底から破壊したことで、もしかしたら<総主教>はこの地上の覇権を狙いはじめたのだろうかと、Lは想像する。
 今はもう彼が心から尊敬して従うべき、<神>であるカイン・ローライトが存在しない以上――その代理人たる地上の長は、<総主教>が従わなければならぬ人間ではないと考えてもおかしくはない。そして、その地上の長たる人物の地位をイギリスの上院議員であるウィリアム・オースティンが狙っていることも判明している……オースティンの賢いところは何より、自身がイギリスの大統領とはならず、自分の傀儡である人形(クローン人間)をその座に据えようとしていることだろうか。
 秘密結社リヴァイアサンのアイスランドにある基地を叩き潰すということは、Lにとっては私怨ゆえのことであった。だが、リヴァイアサンの総帥カイン・ローライトの死をその代理人がまったく隠さなかったことから、裏の世界における地上の覇権争いがすでにはじまろうとしているのである。
 ヴァシリー・ソコロフスキーの紅茶にポロニウムを入れたとされる容疑者は、すでにLの捜査によってふたりに絞りこまれていた。彼らは放射能をまき散らしながら移動しているので、その痕跡を追うのは実に容易いことだった……ただ、ソコロフスキーが摂取した毒物がポロニウムであるともしエリスがその道の研究者として見抜くことがなかったら――そもそも<放射能汚染の後を追う>という捜査の筋道自体、浮かぶことが決してなかったに違いない。
 ロシアからやってきたふたりの暗殺者(FSB職員)は、モスクワへと帰国し、イギリスの捜査局からの召喚状を、スタニスラフ・プーチン大統領自身が拒んだ。ソコロフスキーはプーチンの悪事を暴くために、随分長い間レオニードに内部情報を流してきた人物であり、選挙の不正やチェチェン戦争開戦のための口実作りとしての内部工作など、まさしくプーチンのアキレス腱を切るための情報を数多くレオニードに横流ししていたのだ。
 そんなわけで、ソコロフスキーはある時身の危険を感じて、レオニードを頼ってイギリスへ亡命したのだが――そこでもまた、当局の魔の手は迫ってきてしまったのだ。
 ヴァシリー・ソコロフスキーの死は、言うなれば小さな核爆弾が個人に向けて投与された人類史上初めての例だとも言えるだろう。クレムリンはおそらく、これでもしポロニウムという毒物が死因となった物質として検出されなければ、同じ方法によってレオニード・クリフツォフのことをも殺すつもりでいたに違いない。
 そして何よりLにとって気になるのが、今回のソコロフスキーの死が、<何かより大掛かりな事件の起きる前の予行演習>――リハーサルのようなものだったのではないかと感じられることである。
(長い間、リヴァイアサンは影の組織として動いてきた……だが、カイン・ローライトの死後、その意義が失われてしまった今では、自分たちの力を表の世界で誇示しようとする動きがあってもなんら不思議ではない。アイスランドの次の核シェルター設置国として彼らが選んだのはタジキスタンだ。そしてタジキスタンは独立する前はソ連邦を構成する一国であり、裏の世界でその統治を任されているのは<総主教>その人……おそらく彼は、核を使ってこの世界の人間をふたつに分けるつもりなのではないだろうか?生きるべき価値のある人間と、滅ぶしかない人間とのふたつに……)
 キリスト教では、終わりの時にイエス・キリストが雲に乗って信者を救いに来るという終末論が信奉されているが、ひとつの説としてその<終わり時>というのは核戦争が起きる時のことではないかと推測されている。だがそれをロシアの政治の裏の黒幕である<総主教>が実際に起こした時――それだけの力が彼にはあるのである――<神>などというものが本当に地上に現れるのかどうか、甚だ疑問だとL自身は思う。
(来るか来ないかわからない神の助けなどを待つより)と、Lは無数のモニターが設置されている城の一室で考える。(向こうが何かを仕掛けてくる前に、その裏をかけるのが一番いいのだが。いかんせんカインを相手にしていた時よりも向こうの出方が掴みずらい以上……やはり何らかの<兆候>が表出するのをただ黙って見守るしかないのだろうか?)
 パリのエリゼ宮であったかつての毒殺事件は、言うなれば<L>に対して送られた宣戦布告宣言――挑戦状のようなものであった。
 だが、カイン・ローライトの代理人である地上の長は、Lがオースティンの企みを見抜くものと決めてかかっていたらしい。しかしながらLが思うに、ある部分彼(彼女である可能性もある)は、リヴァイアサンの最上級クラスの幹部とLが今後、地上を舞台にどういう攻防戦を繰り広げるのか、楽しんでいるような節があるように感じるのである。
 たとえば、この地上で核戦争が起きようと、ウイルス兵器で全人類の三分の一が死滅しようと――<彼はまったくべつに構わない>と感じているように思われること、それがLに嫌な予感を覚えさせるのであった。まるで、甘いお菓子の中に砂利が混じっていた時のように、Lは顔をしかめる……これからおそらく、そんな苦虫を噛み潰すような思いをLに味わわせるために、彼らは死力を尽くそうとするのではないかと、そんな予感がする。
 とりあえず差しあたってLは、ラケルの作ったチョコレートどらやきを食べて、顔をしかめていたのではあったのだけれど。
(てっきり餡が入っているものとばかり思っていたのに、どら焼きの間にチョコレートが挟まっているとは……これはフェイントです。第一、誰が許しても@ドラえもんが餡以外のものをどら焼きの間に挟めるのを許しはしません)
 そう思ってLは、ラケルに抗議するためにリヴィングへ向かった。そこではルーとメロが、ボーのことを間に挟んで、何やら恋愛の話をしている様子である。
「でね、僕……ロレッタ・ノワディスにこう言ったの。べつに僕、君の友達で全然構わないんだって。ただ、一生君のことが好きだから、ロレッタがいつどこで何をしていても、永遠に応援するって、そう告白したんだ」
「へえ。ボーもやるな」と、メロが例のチョコレートどらやきを食べながら隣のボーのことを突つく。「そこまでボーが惚れたからには、そのロレッタって女は、大した女なんだろうな」
「うん。ロレッタはとっても歌が上手なの。この間僕がラダメス役で『アイーダ』に出た時、彼女はメゾソプラノでアムネリスの役をやったんだけど――主人公のアイーダよりも、彼女がやったアムネリスのほうがよっぽど凄かったの。僕、感動のあまり鳥肌が立って、魂がぞくぞくっとしたくらいだったんだ」
「いつかきっと彼女にも、ボーの気持ちは届くわよ。音楽院を卒業するまでにはあと三年もあるんだし……辛抱強く待っていたら、ロレッタもボーの良さに気づいて、きっと絶対振り向いてくれるに違いないわ」
 他の人間であれば、おそらくボーの太った体型を見て――「偽善的な気休めを言うのはよせよ」と、ルーに対して思ったかもしれない。けれど、彼女は本気でそう思って言っているのだった。そしてこの時ルーの頭の中には、メロに対する過去の自分の気持ちのことなど、少しも思いだされてはいなかったのである。
 ラスはパリでミミ・ライセツコヴァとの撮影があったため、一月二日にはウィンチェスターの城館を後にしていたが、それは何もルーとメロと自分の三人でいる場所に長くいるのが苦痛だというわけではまったくなかった。三人の間にはかつてあった気まずさは解消されており、今ではまったく対等な友人関係を回復させていたのである。
 そしてボーはこれから十年後に、確かにルーが言ったとおりソプラノ歌手ロレッタ・ノワディスとの愛を実らせることになる――ボーは彼女の友人、そして一ファンとして、世界中の劇場へ彼女の歌を聞くために出向いていき、その度に楽屋に大きな花束を届けた。ボーにとっては彼女に恋人がいることなどはまるで関係なく、ただひたすら一途にロレッタのことを思い続けた。そしてロレッタのほうでも、誕生日やクリスマスのたびに毎年欠かさずプレゼントをくれるボーに対して――恋人との婚約が破局に終わった時に、ようやく心を動かされることになるのであった。
「ラケル、このドラ焼き、中身が餡じゃないのは何故ですか?いえ、ふたつ目に食べたものにはレアチーズが入っていましたし、苺クリームが入っていたり、色々なバリエーションがあるのは楽しいのですが、何故唯一スタンダードな餡の入ったものがひとつもないのでしょう?」
「あら、そうだった?」と、メロのためにキッチンでハンバーガーを作りつつ、ラケルは言った。「わたしもドラ焼きには餡を入れるのが王道とは思ってるんだけど――メロちゃんのために、チョコレート入りのものをいっぱい作ったから、それで忘れちゃったのかもしれないわね。そしたらルーが他にもカスタードクリームとか色々なフルーツを挟んでみるのはどうかって言ったから、面白そうだな~なんて思って作ってるうちに、餡入りのを作るのを忘れてしまったのかも……」
「それにしても、あなたはメロに甘いですよね」
 よっこらしょと、ダイニングにある椅子に腰かけつつ、Lはボソリと呟くように言う。
「野菜も食べないと健康がどうこう言いながらも、メロがいる時には彼の好物ばかり作って……わたしのスイーツのことをおろそかにするんです。べつにいいですけどね、べつに」
 べつに、と言いながらも、Lの口調にはどこか、拗ねたようないじけた響きがあった。
「だってあの子、またすぐにオーストラリアのサーキットで走りこむためにここから出ていくっていうんだもの。それにLだって何かの事件でメロちゃんのことをこき使ったんでしょ。だったら、このくらいの報酬は当然よ」
「まあ、確かにそれはそうですけどね」
 Lは諦めたように溜息を着き、ミッシェル・スラッダートがロジャーのテストにパスしたこと、またレオニードに彼を会わせて、ロシアの裏の政治にまつわる隠れた工作話を本として出版する予定を進めていることなどを――昼食の席でメロに話した。
「ふうん。ロシアの大統領っていうのも、案外バカだよな。ソコロフスキーだけじゃなく、自分の汚い裏の部分を摘発しようとしたり告発しようとした人間には全員、死の鉄槌を加えてまわっていたら、政治的な報復劇だと誰もが思うに違いないのに――それでいて表面的には「我々は潔白だ」的なことを声を枯らさんばかりに叫ぶんだからな。これじゃソビエト時代に逆戻りしたようなもんだ」
「まあ、アメリカの民主主義とロシアのそれの違いは、一目瞭然ですよ。サイラス・ブッシュ大統領のことを、ある映画監督がアカデミー賞の授賞式で『ブッシュよ、恥を知れ!!』と非難したことがあったと思いますが――言論の自由が許されているアメリカでは、ある日突然その監督が凶弾に倒れたり、毒物を盛られて心臓発作を起こしたりすることはありませんからね。ところがロシアでは違う。スタニスラフ・プーチン大統領に都合の悪いことを言ったりしようとしたりした人物には、すべからく死が待っているんです。政府はTV局を買いとって、自分たちを非難したりしないように情報統制をとっていますし、レオニード・クリフツォフのようにそれでも<真実>を明るみにだそうとするジャーナリストは、国内にいられなくなる運命にあるんですよ」
「で、Lはミッシェルから<あの方>とやらの情報は得ることが出来たのか?」
 メロは特大のハンバーガーにかぶりつきながらそう聞く。三層のハンバーガーにチョコレートドリンク……大抵の人ならたぶん、胸が悪くなったというような顔をして目を背けるに違いないが、ルーなどはまだ彼に対する恋心が残っているのかどうか、そんな彼を素敵だと思って見ている様子だった。そしてボーはといえば、おそらくメロの十倍以上の食欲で、ラケルの作ったご馳走の数々をただ黙々と平らげている。
「ええ。彼からはなかなか有益な情報を得ることが出来ました。そのことはメロのお手柄ですので、あらためてこの場でお礼を言いたいと思います……それと、ミッシェル、いえ正確にはユーリ・オネーギンですか。彼はエリスの助手ということに収まりそうですよ。エリスにしては珍しく、第一印象で彼のことを気に入ったそうです」
「まあ、あいつは口がうまいからな。特に女に対しては」と、メロは今度はフライドチキンに手を伸ばし、バーベキューソースにそれをつけながら食べている。「ラスをスーパーモデルにまで押しあげたあいつの手腕を見ていて、ひとつ感心したことがある。ミッシェルはたぶんモデルのマネージャーでもなんでも、仮にどんな道に進んでいたとしても成功したに違いないってな。だが俺にはいまだにひとつだけよくわからないことがある……ロシアの政治を裏で操る<総主教>とやらは、何故あいつの本来の能力をまったく活かせないような道に野放しにしておいたんだ?原子物理学研究所の博士にでもしておけば、あいつはきっとノーベル物理学賞かなんかをとったんじゃないかと思うがな」
「そこですよ。<総主教>はロシアだけじゃなく、ヨーロッパをも支配したいと考えているのだろうとわたしは推測しています。もちろん今定められている国境というものは、よほどのことでもなければ動くということは決してないでしょう。でもそれはあくまで表面上のことなんです……<総主教>の息のかかったユーリ・オネーギンのような人間を、フランスやドイツやスペインやイタリア、そうしたヨーロッパ諸国に派遣しておいて、政府のトップクラスの人間に紛れこませ、すべてをロシアにとって有利なように進ませる。これが<総主教>の考えている新しい裏のロシア支配のシナリオなんですよ」
「マジか」と、メロはまるで緊張感のない声と顔とで言った。「やれやれ。アイスランドの基地がせっかくなくなったってのに、なんだかもっとややこしい事態がこの地上では起きてきそうだな」
「ええ……わたしもそれを懸念し、用心しているところです。ユーリ・オネーギンはただの一介のモデルエージェンシーに属するスカウトマンというわけではなかったんですよ。彼には彼にとって<総主教>の意を叶えるための重要な任務が数多くあったんです。権力を手にした人間が欲しがるのは、さらなる権力と金、そして女性です。そしてこの女性という部分に弱い男性は多いですからね。しかも、政府のトップクラスの人間ということになると、当然妻子がいて愛人を持つことは手痛いスキャンダルとなる……ユーリ・オネーギンはそうした各国の政府高官に美しい女性を紹介し、それを表のマスコミ沙汰にしないだけの力がありました。有能な自分の手駒を失ったことで、<総主教>が今ごろ歯噛みして悔しがっているのはまず間違いないでしょう」
「そうか。だがまあ人間、誰でも自由に生きるのが一番だからな」
 ――この二日後、メロは「また何か仕事があったら呼んでくれ」とLに言い残して、オーストラリアへと旅立っていった。この時メロにはひとつ、心に決めていることがあった。ドイツの最弱小レーシングチームと言われる<フェデラー>でメロがF1のプロドライバーになることを決めたのは、何も彼にそれだけの実力しかなかったからというわけではない。誰もが憧れるメルセデスやフェラーリなどで華々しくプロデビューすることも、おそらくメロには不可能なことではなかっただろう……だが彼は、あえて無名に等しいレーシングチームからのデビューを決めた。何故といえば、そうしたどん底ともいえる場所から這い上がってこそ勝利に意味があると思ったからに他ならない。けれど、ラスがスーパーモデルとして、世界中に知らぬ者のほとんどいないような有名人となった今では……。
(早くこの場所からのし上がって、あいつに相応しい地位を得ないとな)
 メロはそう思い、オースラリアのサーキットで走りこんだ。この年、最年少ポールポジション・最年少優勝・最年少表彰台・最年少ポール・トゥ・ウィンなど、メロはF1の歴史上初の快挙を次々と成し遂げるという伝説を打ち立てる。そして彼がスーパーモデルのラスとつきあっているということは、パパラッチたちの格好の美味しいネタでもあったわけだが――『今年こそは結婚ゴールインか!?』との報道が何度もなされる中で、ふたりは結局生涯に渡って正式に<結婚>という形をとることはなかった。
 ただラスにはメロとの間に女の子がひとり生まれ、<七海>と名づけられることになる。名づけ親はラケルで、彼女は自分にもし女の子が生まれたら、「七つの海にあふれるほどの愛をこめて」その名前をつけるつもりでいた。けれど、シオンを難産の末に出産した後、子供が出来にくい体であると医師に告げられたため――ラケルはその名前を、ラスとメロの子供に与えることにしたのである。
 普段はナナとだけ呼ばれることになるこの女の子は、ラスにも似ていたし、メロにも似ていた。そしてチョコレートが大好きなパパを喜ばせるために、「将来はショコラティエになるの」と小さな頃から口癖のように言っていたけれど……彼女が「大きくなったら二アおじちゃんのお嫁さんになってもいい?」とメロに聞いた時――まだ七つの娘を相手にメロが気も狂わんばかりに説得したというのは、ラスだけが知っている重要な事実である。


       エピローグ

 スーパーモデルのラスは、モデルとしてデビューした一年後、突如として世間から姿を消すことになる。
 ラスがCMに出演したリーヴァイスのジーンズは飛ぶように売れたし、彼女がイメージモデルとして起用された香水の<クレオパトラ>はシャネルの5番に継ぐ売上を誇るようにもなった……さらには、ハリウッドの大物映画監督から是非にと乞われて、女優として出演した作品が大ヒットするなど、ラスの人気は天井知らずなほどだったと言ってよかっただろう。その上、その年の話題をさらった若くてイケメンのF1ドライバーとの交際など、公私ともに充実し、頂点を極めた瞬間の、突然の引退であった。
 実をいうとラスはモデル以外に、<本当に自分がやりたいと思うこと>を見つけていたのである。そして最初は模造宝石イミテーションを使ってアクセサリーを作ることをはじめ、自分がモデルのラスであることは隠して、パリに小さな宝石店をだした。
 やがて友人の薦めに従い、本物の宝石を使ってアクセサリーを作るようになり、次にはアクセサリーに合う帽子や靴やバッグ、それに服もデザインするようになった。こうしてブランド・ショップ<ラクロス>が誕生する頃には――その店のオーナーが元スーパーモデルのラスであることは、周知の事実となっていたのである。
 ファッション帝国の女帝となっていたマリア・アクアクランは、<ラクロス>のブランドを彼女が元スーパーモデルということを最初は隠した上で、あらゆるファッション雑誌に紹介していたし、ヴォーグの編集長に納まっていたシャナイア・ローレンもまた、<ラクロス>の品質のよさや非の打ちどころのないセンスのよさを褒めちぎったものである……ところで、マリア・アクアクランがジョルジオ=アーロンフェルドと結婚したと伝えられ、実に豪華な結婚式が行われた翌日――彼は実に悲劇的な死を遂げていた。
 いわゆる精力増進剤の過剰摂取により、心臓発作を起こしていたのである。アーロンフェルドの最初の妻と息子は、マリア・アクアクランのことを金目当てに結婚した汚い女と糾弾し、彼女のことを裁判に訴えてでたが、アーロンフェルドの担当医師が彼がインポテンツであり、なんとかして若い妻を喜ばせるために危険な薬にあえて手をだしたことを証言したため、その裁判はただアーロンフェルドの生前の行いに恥を加えるという形にしかならなかったのである。
 その後、ローレンはマリアと愛人関係を続けつつ、かねてよりの夢だったヴォーグの編集長の椅子におさまり、マリア自身はといえば、世界中のあらゆる都市で講演会に出演して、自分が幼い頃に経験した悲惨な戦争体験を語り伝えていた。そして平和というものがいかに尊いものかということを、その後のモデルとしての成功談も交えて涙ながらに訴えたのである。
 おそらく、あの野心家のローレンが何故、ヴォーグの編集長の椅子ひとつに満足しているのか、不思議に感じられる方も多いだろう……だが、小さな頃からの本当の夢が叶った時、ローレンはそれまで自分が憎しみ続けた男が死んだこともあって、その地位に十分満足していたのである。アーロンフェルドがローレンが思ってもみない早い時期に死んでくれたことで、彼女の執拗な嫉妬の対象から、リサ・クリスチャンセンもまた外されていた。
 もっとも、その後もスーパーモデルとして活躍し続けたリサではあったが、ローレンがヴォーグに就任後、一度も表紙を飾ることはなくなったというのは事実であるにしても……。
 時代は移ろい過ぎゆき、毎年たくさんの新人モデルたちが生まれては、消えていった。その中でかつてアマンダ・ソアレスというスーパーモデルがいたことも、人々の記憶の中では薄れゆき、今では彼女が何故死んだのか、その<真実>に疑問を差し挟もうとする者もいなければ、そのことを探りだそうとする人間さえ、誰ひとりとして存在してはいない。



『探偵M~トップモデル殺人事件~』、終わり




・参考資料
『トップモデル~きれいな女の汚い商売~』(マイケル・グロス著、吉澤康子さん訳/文春文庫)
『プラダを着た悪魔』(ローレン・ワイズバーガー著、佐竹史子さん訳/早川文庫)
『リトビネンコ暗殺』(アレックス・ゴールドファーブ、マリーナ・リトビネンコ、加賀山卓郎さん訳/早川書房)
◇二次創作サイト『探偵Lの部屋』
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