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第三章
ハッピーエンドへの鍵
 三つの扉を通り過ぎ、廊下の突き当たりのドアを開く。そして、私は目を丸くして息を呑んだ。
 まるでホテルの一室のような、広々としたカウンターキッチンつきリビング。全面窓に囲まれ、マンション街の夜景が一望できる。角部屋だからこそ、の贅沢だろう。テレビは薄型五十インチ。フローリングの上に白い絨毯が敷かれ、L字型の純白のソファが白いテーブルを囲うように置かれている。
 私が呆然と立ち尽くしていると、「何か飲む?」と後ろから長谷川さんの声がした。
 弾かれたように降り返ると、彼はキッチンでコップに水を汲んでいた。それを見つめて、ふと料理しているところを想像する。きっと彼はそこに立って料理をしながら、リビングにいるさくらちゃんの様子を伺っているのだろう。愛おしそうに目を細めて。
 それにしても、娘さんがいたなんて。本当に驚いた。だって、長谷川さんの子供ってことは……つまり、遺伝子的には和幸くんの子供? ううん、そうはならないか。母親のDNAだって混じってるわけだから。でも、少なくとも、さくらちゃんのDNAの半分は和幸くんだよね。って、遺伝子ってそんな単純な足し算引き算なんだろうか。もう、よく分からない。考えても混乱するだけだ。余計なことはこの際無視。とりあえずは、正義さんに娘がいた。その事実だけを受け止めよう。
 けど、そうなると今度は別の点が気になりだす。さくらちゃんはいくつなのか。長谷川さんはどう見ても二十代前半……もしくは半ば。三十を越していることはまずない。ということは、十代のときの子供なんてことも有り得る。失礼かもしれないけど、意外だ。

「オレンジジュースか、リンゴジュース」長谷川さんはコップいっぱいの水を飲み干すとそう言って、くるりと背を向け冷蔵庫を開けた。「それくらいかな。炭酸は買わないんだ。身体によくないから」

 身体によくない……か。私はつい頬をゆるめた。さくらちゃんへの愛が言葉の端々から伝わってくるな。

「気にしないでください」と私が微笑んで答えると、長谷川さんは冷蔵庫を閉めてこちらに振り返る。
「本当に? 遠慮しなくても……」
「大丈夫ですから」

 そうか、とつぶやいて長谷川さんはパッとしない表情を浮かべた。私が遠慮していると思い込んでいるようだ。

「とにかく、座って」言いながらキッチンから出てきた長谷川さんの手には、大きなゴミ袋がぶらさがっている。「悪いんだけど、ゴミ出しを忘れていた。ちょっと待っててくれないか」
「あ、はい」
「すまない」

 申し訳なさそうに苦笑して、長谷川さんは鍵とゴミ袋を手にリビングから足早に出て行った。
 私はぽつんとリビングに一人佇む。ガチャンと玄関のドアが閉じる音が廊下に響いてリビングまで届いてくる。

「ゴミ出し、か」

 思わず、笑ってしまった。一週間前、和幸くんを利用して人を殺そうとした男は、まるで普通の人だ。――いや、普通の父親、だ。なんだか気が抜ける。あのときは、彼のことが怖くてたまらなかったのに。まさか彼の部屋にこうして来る日が訪れるなんて思いもしなかった。
 私はしばらくじっと部屋を眺めていた。白いテーブルに白いソファ。きちんと整理整頓された部屋。

「似てる」

 部屋の大きさはまるきり違う。テーブルやソファの形も違う。でも、全体的に似た雰囲気を感じた。和幸くんの部屋にそっくりだ。すうっと鼻で空気を味わうように吸う。香りまで似ている。――引いては返す波のように、急に寂しさが戻ってきた。それも、どっと押し寄せてくる。
 思わず、その場に座りこみそうになった。そのときだった。

「まさよしは?」
「!」

 怯えたような小さな声が後ろからして、私はビクッとして振り返る。

「さくらちゃん!?」

 いつのまにリビングに来ていたのか、言われたとおり髪をほどいたさくらちゃんがそこに立っていた。相変わらず、熊のお友達を連れて。

「どうかした?」と私は彼女に近づいて、しゃがみこんだ。近くで見ると、一段と可愛らしい。澄んだ瞳はキラキラと輝いている。頬はふっくらしていてつい触りたくなるほどだ。
「おはなし……」

 さくらちゃんは、ぽつりとつぶやいた。恥ずかしそうに私から目をそらして。

「おはなし?」
「寝る前のおはなし。すこしだけでもしてほしくて」

 あ。そういえば、さっきも二人でそんな話をしてたな。おはなしは? と問いかけるさくらちゃんに、長谷川さんは……
 
―今夜は、ごめんな。お客さんが来てるから。

 ついさっき耳にしたその声が脳裏によぎる。あのときは、おはなしって何のことか分からなかったけど……そうか、そうだったんだ。

「いつも、寝る前にお話してもらうんだ?」と優しく尋ねる。すると、さくらちゃんは熊のぬいぐるみを強く抱きしめて頷いた。
「そう」

 私は懐かしさがこみ上げて、目を細めた。

「私も、よくしてもらったんだ」
「え?」

 目をぱちくりとさせるさくらちゃんに、私は微笑みかける。
 寝る前のお話……かすかに頭に残る思い出。あの、優しく愛のこもった声。包まれるような暖かいオーラ。護られているという絶対的な安心感。きっと、母親の胎内に眠る胎児のような気分だ。暗闇で顔も分からなかったけど、確かに誰かが傍にいてくれた。幼い頃、枕元で毎晩のようにおはなしを語って聞かせてくれたんだ。一体、誰なのかは分からない。実の私の両親か、忘れてしまったベビーシッターか。はたまた……私の守護霊なのか。
 何者でもいい。とにかく、あの声が恋しい。特に、今はすごく……。
 いつから、姿を現さなくなってしまったんだろう。それも思い出せない。はっきりと覚えているのは、そのおはなし。不思議な御伽噺(おとぎばなし)――『終焉の詩姫』。

* * *

あるところに、土からできたお姫さまがいました。
お姫さまは神さまに愛されていました。神さまのかわいいお人形です。
しかしかわいそうなことに、お姫さまが生まれた世界はとても邪悪で、神さまは悲しみました。
そこで神さまは、お姫さまにある(うた)を教えました。
その詩は、世界に終焉をもたらすものです。
神さまはお姫さまに言いました。
『つらくなったらいつでもこの詩を(うた)いなさい。
 汝を苦しめる世界は破壊され、汝は楽園へと導かれるだろう』
お姫さまは十七歳になるまで、世界に耐えました。
しかし、とうとう、お姫さまは憎しみに病みました。そして……

* * *

「そして?」

 カヤの『おはなし』を聞くなり、さくらはベッドに横になったまま首を傾げる。
 月明かりだけが照らす薄暗い部屋で、カヤはベッドに腰を下ろして彼女を見つめていた。引っ越してきたばかりなのか、子供部屋にしては味気ない。彼女が抱いている熊のぬいぐるみ以外、おもちゃや人形は見当たらない。といより、物がない。必要最低限の家具くらいしか置いていなかった。ただのゲストルーム。カヤはそんな印象を受けた。

「そして、どうなるの?」と、さくらはもう一度尋ねる。
「そして……」と、カヤは言葉を詰まらせた。

 言葉を切ったのは、もったいぶるためではなかった。カヤにも、続きは分からないのだ。いや、覚えてないだけなのかもしれない。記憶の海に漂う懐かしい御伽噺。今となってはそれを聞かせてくれたのが誰だかもカヤには知る由もない。ただ覚えているのは、その声が暖かく愛にあふれていたことくらい。
 正義がさくらに毎晩『おはなし』を聞かせている。そう聞いて、ついカヤは懐かしくなってこんな話を記憶の奥から引っ張り出してしまった。それが単なる自己満足に過ぎないことに気づきもせず。エンディングの分からない話を幼い子供にしてどうするんだ。違う童話にすべきだった、とカヤは心底後悔していた。
 だが、すでにここまで話してしまったことを考えると、「分からないの」で締めくくるわけにもいかない。カヤは苦し紛れに好ましい(・・・・)エンディングを口にした。

「そして……幸せに暮らしました」

 取ってつけたようなハッピーエンド。カヤは苦笑するしかなかった。
 さくらは目をぱちくりとさせて困惑の表情を浮かべている。こんなあどけない少女を困らせてどうするんだ、とカヤは罪悪感にかられた。それも単なる御伽噺で。

「ごめんね」とカヤはたまらず謝罪する。「つまらなかったよね」

 そもそも、話がはちゃめちゃだ。カヤががっくりと反省して頭を垂れると、さくらは遠慮がちに尋ねてきた。

「王子さまは?」
「え」

 カヤは顔を上げて振り返る。月明かりに照らされて煌くさくらの瞳が、じっと彼女を見据えていた。純粋な眼差し、そのものだ。

「王子さまは出てこないの?」さくらは消え入りそうなほど小さな声でそう問いかける。その質問に、今度はカヤが目をぱちくりとさせた。

「王子様?」
「だって」とさくらは鼻までふとんに顔をうずめて、はずかしそうにカヤに伝える。御伽噺のなんたるかを。「お姫さまがしあわせにくらすには、王子さまが迎えにこなきゃいけないんだよ」
「……」
「いつも、そうだもん」

 少女の純粋な願いにも似た指摘に、カヤはぽかんとして言葉が出なかった。
 なんてかわいらしいんだろう。そう思いつつも、いつのまにか忘れていた幼い夢を思い出した気がした。そういえば、自分も小さいときはお姫さまに憧れていた。一体誰に刷り込まれたのか、女の子は皆、一度は夢見るものだ。白馬に乗った王子、という存在を。

「そうだね」とカヤはため息混じりにつぶやいて、天井を仰いだ。この御伽噺を思い出すたびに感じていた物足りなさ。それは確かに、お姫さまを救い出す存在だったのかもしれない。――欠けていたハッピーエンドへの鍵だ。

「じゃあ、こうしよう」

 カヤは明るく微笑んで、口を開いた。
 そして語りだす。新しい『終焉の詩姫』。王子さまが現れる、幸せな終焉を付け加えて。

「あるところに、土からできたお姫さまがいました……」
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