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第三章
偶像崇拝
 トーキョーのトシンから離れたところに、高級住宅がならぶ一角がある。和幸は、そのうちの一軒、特に豪勢な邸宅を見上げて立っていた。ほかの住宅よりもずっと高いブロック塀。三メートルはあるかもしれない、と和幸は苦笑する。

「金持ちは大変だな」なんてのんきにつぶやいて、和幸は軽くストレッチを始める。屈伸しながら、ふとカインであった過去を思い出す。毎晩のように、こうして泥棒まがいのことをしていたものだ。それも、いつも侵入するのは豪邸だった。それだけ、このトーキョーの金持ちが腐っている、ということだ。金持ちは金と引き換えに子供を買い、あるものは実の子として育て、またあるものは玩具としてあつかっていた。虐待目当てに買われ、自分が来たときには手遅れだった子供もいる。
 和幸は、その光景を思い出し、ぴたりと動きをとめる。封じようとしていた、ある気持ちが襲ってきた。カインをやめたことに対する、罪悪感だ。自分がこうしている間にも、誰かは攫われ売られている。それを思うと、自分がとてつもない身勝手な人間に思えてくる。自分の生き方を優先し、助けを求める子供たちに背を向けた。自分勝手以外の何者でもない。
 だが、それでも……と、和幸は体を動かし始める。足首をまわし、腕を伸ばす。たとえ裏切り者とののしられようと、罪悪感におしつぶされようと……カヤへの想いを断ち切ることはできない。
 ただ、カヤと一緒にいたいんだ。今、自分にできる弁解はそれだけだ。彼は心の中で強くそう唱え、目の前にそびえる塀を見上げた。短い間隔で監視カメラが設置されているのが分かる。今まで『おつかい』で侵入した豪邸と比べても、かなり守りは堅そうだ。何より面倒なのは、ガードマンを攻撃できないことだろう。『おつかい』と違って、相手は敵ではない。今から連れ出すのは、売られた子供ではない。今から侵入する家は、あくまで……

「彼女の実家なんだよなぁ」

 和幸は、改めてそれを確認すると、がっくりと肩を落とす。

「玄関から入りたいよ」

 そんな愚痴をこぼしながらも、なんて気が楽だろう、と笑みをこぼす。たとえ、見つかって捕まっても、怒られるだけ。『おつかい』と違って殺されるようなことはない。――本当に、自分は命の綱渡りを引退したんだな。そんな実感が唐突にやってくる。といっても、見つかればカヤとの付き合いは、より難しくなるだろう。不法侵入なんかする男を、どこの親が気に入るだろうか。下手すれば、別れろ、といわれるかもしれない。気は楽だが、プレッシャーは、もしかしたら『おつかい』よりもあるかもしれない。和幸はそんなことを考えていた。
 そのときだった。

「お」

 ブー、と何かがポケットの中で暴れ始めた。和幸は、その何かをポケットから抜きだす。それは、最近よく使うようになった携帯電話だ。セットしていた十二時のアラーム。時間だ。和幸は、それをすぐにしまうと「よし」とため息混じりにいって、かぶっている帽子を深くかぶる。そして、胸ポケットにしまっていた黒縁眼鏡をとると、なれない手つきでそれをかけた。
 『おつかい』と違って、今回は顔を隠す必要がある。顔を隠さず向かっていくのはカインの意地であり誇りだったが……今回の場合、見つかっても殺されはしないにしろ、カヤとの今後がかかっている。ちょっとでも監視カメラに顔が映れば、アウトだ。顔を隠していれば――自分だとバレさえしなければ――どっかのこそ泥ということにもできるだろう。

「そんじゃ」と和幸は塀から距離をとる。「誘拐しに行くか」

 塀に向かって勢いよく助走をつけ、思いっきり足に力をいれた。筋肉の収縮が全身を駆け巡り、生々しい感覚として伝わってくる。それに妙な興奮を覚えつつ、和幸は地面を蹴った。限界まで圧縮されたバネが解放される。その瞬間、まるで地面が爆発したかのように、体が宙へと弾かれる。解き放たれた筋肉が喜びの声をあげている。和幸はそんな懐かしい感覚に、心を躍らせた。全てはたった一瞬の出来事なのに、スローモーションのように一つ一つの体の変化をとらえることができる。走り高跳びの要領で、宙でくるりと体をひねらせ、塀を背中に感じる。すべるように塀を越え、真っさかさまに地面へと落ちると、それまでコマ送りだった世界が一気に早まわしになる。
 あっという間に地面が目の前に迫り、和幸は両手を地面に突き出し、バク転するように体を回す。ザッという音を鳴らし、足が地面に埋まるように着地した。気づけば、まるでクラウチングスタートのような姿勢をとっている。ふと顔をあげると、かぶっていたはずの帽子が目の前に落ちている。和幸はしばらくそれを見つめ、ふうっとため息を一つこぼす。
 両手を地面からはなし、パンパンと土をおとすと、それをひろって頭にのせた。

「陸上部、はいろうかな」なんてぼやいて立ち上がり、屋敷のほうへ体を向ける。あたりはよく手入れされた松の木や、たくましい桜の木が何本も並んでいる。和幸はその中の一本の木に身を隠すようにして、庭の様子を伺った。見える範囲には、二、三人ほどのガードマンがうろついている。ちらりと視線を屋敷の二階へとうつす。一番はじの角部屋。そこがカヤの部屋だ。
 ふと、和幸はあることに気づき、不敵に微笑む。

「いい木があるじゃないか」

 それは、カヤのべランダまで到達するほどの、背の高い立派な桜の木だ。あれをうまく利用すれば……和幸は、監視カメラの死角をぬって桜の木へと向かった。

* * *

「おやすみなさい」

 カヤはそう言ってソファから立ち上がる。

「おや、もう寝るのか?」

 眉をあげ、焼酎を片手にそう言ったのは彼女の養父、本間秀実だ。ソファにふんぞり返るようにして座っている。その隣には、彼の秘書である前田が背筋をぴんと伸ばして浅く座っていた。

「明日は日曜日なんだし、もう少し晩酌につきあってはくれないかね」

 言って、本間は焼酎をカヤに掲げるようにしてみせる。カヤは、申し訳なさそうに微笑んだ。

「ごめんなさい。もう眠いので」
「そうか……それなら、仕方ないね」

 残念そうにそう言って、本間は焼酎のビンをガラスのテーブルに置く。

「おやすみ、カヤ」

 カヤはぺこりとお辞儀をすると、テーブルにおいてある紅茶のカップを取ろうと手をのばした。すると、前田がハッとし身を乗り出す。

「僕が、片付けておきますから」
「え、でも……」
「おやすみなさい、カヤさん」

 カヤの言葉を遮るように前田はそう言うと、いそいそと腰をあげてカヤのティーカップを手に取る。ここまでされては、断れない。カヤは、じゃあ、と戸惑いつつ言うと、前田にもお辞儀をしてリビングから出ていった。
 ティーカップ片手に、カヤの背中をじっと見つめる前田。その頬はほんのりと紅潮していた。パタンと扉が閉められ、カヤの姿は見えなくなった。閉ざされた扉。それは、自分の彼女への想いをよくあらわしている。前田のティーカップを持つ手が震えた。

「流しにおいてきます」と本間に言うと、リビングの奥にあるキッチンへと向かう。
 もう十二時近い。メイドはすでにさがっている。暗いキッチンで、前田はティーカップをじっと見つめた。これを流しに置いて去ればいいだけなのに、彼にはそれができなかった。せいぜい自分が彼女に触れられるとすれば、こうした物を媒介とした間接接触くらいだ。
 五日前に出会った少女。それは、自分の上司である本間秀実の養女。彼女と会った瞬間、そのあまりの美しさに、彼は身ぶるいした。まるで、時が止まったようだった。いや、時を止めたかった。本間が自分を彼女に紹介すると、彼女は丁寧にお辞儀をし屈託のない笑顔を浮かべた。魂が吸い取られたようだった。それからというもの、昼夜彼女を考えている自分がいる。秘書である自分は、本間につきっきりだ。こうして家に招かれることも毎日のよう。彼女とも同じ空間にいる機会は多い。だが、そこには徹底的な距離があった。絶対に踏み込めない線。それが、彼女と自分の間に引かれている。どんなに近くに座ろうと、彼女に触れることは赦されない。彼女に熱のこもった視線を送ることも赦されない。自分にできるのは、陰から彼女を慕うことだけ。
 前田は、ティーカップの口を震える指で、撫でるようになぞった。ふと、ある箇所に、乾いた紅茶が弧を描いているのを見つける。ここは……と、前田はごくりとつばを飲む。間違いない。彼女はここに口をあてて、紅茶を飲んでいたんだ。薄暗いキッチンで、前田はそっとその部分に自分の唇をあてる。もうすぐで十七を迎えるというあどけない少女。それなのに、他のどの女からも感じたことのない、魅惑的な色気がある。前田は彼女を思い浮かべて、乾いた紅茶を舐めた。それだけで、彼女を自分のものにしたような満足感を覚え、前田はうっすらと笑みを浮かべた。
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