「もう、やだ!家出してやる!」
そう言って家を飛び出したのは一時間前。
家の近くの河川敷、大橋の下。
そこに石田澪はいた。
辺りが段々橙色に染まり、夕日が沈む様子がはっきり水面に映る。
澪は体育座りをしてその様子を見ていた。
「……何してんの」
澪の体がビクッと震えた。
なんとなく分かっていたものの、そっと振り返ると、
三つ年上の友樹兄が自転車を引いていた。
本当の兄ではなくて、石田家の隣の秋川家に住んでいる。
俗に言う幼馴染、という存在だ。
「友樹兄こそ」
「いや、俺は高校の帰りだけど」
「……」
友樹兄は高校三年生。
近くの商業科の高校に通っていて、
そこがあまり成績面で優秀でないのは近所の評判だった。
しかし、どうしてもそこに進みたい、と言って入ったらしい。
今は、そんなことは考えたくないけれど。
「どしたの、そんな所で」
「……別に、なんもない」
澪は再び友樹兄に背を向けた。
少し沈黙があってから、ガサガサと言う音がした。
ビニール袋を漁る音。
そして、ガコンと自転車を止める音がした。
「ほら、食う?」
友樹兄は澪の隣にまわり、腰を降ろした。
ちらりと横目で友樹兄を見ると、手に乗っていたのは肉まんだった。
「食わないなら、俺が食うけど」
そう言って友樹兄はわざと大袈裟に口を開けて食べる振りをする。
澪は慌ててそれを遮った。
「……食べないとは言ってないもん」
友樹兄はくすっと笑った。
馬鹿にされた気がして、なんとなく嫌だった。
そんな気持ちを隠すように、澪は急いで肉まんに噛り付いた。
「どうしたの、こんなところで?」
「……肉まんに釣られて言うとでも思った?」
友樹兄はうーんと唸って、こう言った。
「まぁ、春から高校生だもんな。そんな子供じゃないし、当たり前か」
にっと歯を見せて笑う友樹兄の顔は、夕焼け色に染まっていた。
昔から、変わっていないのはこの笑顔くらいだ。
身長も体格も性格も、もちろん年齢だって、変わってしまった。
性格に限っては、澪に対しては変わらないけれど、色々使い分けている。
友樹兄のお母さん、クラスの友達。一度だけ見た彼女の前でも。
「……みんなしてそう。そうなの。
まだ“子供”だって言うのに、変なときに“大人”扱いするの」
澪はすっかり食べ終えた肉まんの紙の部分をくしゃくしゃに丸め、
膝と胸の間に顔を埋めた。
一瞬見た友樹兄は、困ったような変な顔をしていた。
言わないようにしてたのに、言ったも同然じゃないか。
不意に、頭に友樹兄の大きくてごつごつした手が置かれた。
「……あるよ、そういうこと」
ぽつんと言ったその言葉は、水面に反射して何度も耳に届くみたいに頭の中に響いて、
どこかの線が切られたみたいに、涙が流れた。
「……高校、自分で決めなさいって。
なんにも、わかんないのに、自分がいいところ決めなさいって。
友樹兄、みたいに、やりたいことあるわけじゃないのに……」
ところどころ嗚咽が混じって、自分でもどう言ったか分からない。
頭を撫でる友樹兄の手が心地よかった。
「……子供でいたい。世の中なんて、分かんないから。
だけど、大人になりたいんだよ。でも、甘えてたい……」
ただ泣きわめくことも出来なくて、
社会の仕組みも理解出来なくて。
狭間の人間なんだ、今の私は。
次から次へと言葉が溢れるのに、
上手く言葉に出来ない。
みんなそういう時って、あるのかな。
「魔法使いが居たらいいのに……もう早く過ぎたらいいのに……」
仕舞いには魔法使い、なんてメルヘンな話にまでいってしまったけど、
澪は本気だった。
そんな気を察したのか、友樹兄は口を開いた。
「……俺さ、あんまり深く考えてなかったんだ、高校のこと。
入れればいい、職業につければいいから……そんな感じだった」
嘘だ、そんなの。友樹兄はいつでもそうだ。
世の中の知られたくないことは、いつもそうだった。
子供はコウノトリが運ぶとか、いい子にしてないと雷さまにへそをとられるとか。
「もうお前は大人だろって、プレッシャーだよな。
まだ、親も必要なのに、見離されてさ……」
そう、そう、そうなんだ。
親の期待とか、親の頑張りとか、全部がかかる。
もう平気でしょ、なんて、寂しいに決まってるのに。
「大丈夫、そんな俺が出来たことだから。澪もきっと平気」
友樹兄の言葉はいつも根拠はないけれど、
いつも励ましてくれる。
「……ん……」
澪は少し顔を上げて頷くと、ゴシゴシと涙を袖で拭った。
友樹兄は微笑んで、ポケットから携帯を取り出した。
「わ、もう五時だし」
見渡すと、さっきよりも日が落ちて、薄暗い。
しかし家の方はまだ橙色に光っていた。
水面にも夜色と橙が映えて、綺麗だった。
「……帰ろっか、乗ってく?」
友樹兄は自転車を指差して言った。
「……うん」
ガシャン、とストッパーを外した。
友樹兄がサドルに跨ると、その後ろに澪が乗った。
「ねぇ、友樹兄」
「ん?」
自転車が走り出す。
夕方の冷たい風が友樹兄をすり抜けて伝わる。
「今度は、落とさないでね?」
「友樹兄のばか……だから二人乗りなんてやめようって言ったのに!」
「ごめんごめん、まさか落ちるなんてさ……。
でも澪だって賛成したじゃん」
「それは……」
友樹兄を信じてたから、と言いかけて言葉を飲んだ。
澪が俯くと、友樹兄はポケットを漁った。
そして、目当ての物がなかったのか手を取り出した。
「……泣くなよ」
友樹兄は澪の目線までしゃがみ、頭を撫でた。
「……うん」
「落とさないよ。だからしっかりつかまってろよ?
中三だって、まだ子供なんだから」
そう言った友樹兄は、背中越しに笑っていた気がする。
魔法使い、ここにいたね。
いつだって、魔法をかけてくれるのは、友樹兄だったから。
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