第88話「一路、ヴァレンスへ」
来た道とは逆方向に馬車は疾走した。
追っ手はすぐ後ろを走っていると思うべきである。
「オレが太子だったら、ルジェを絶対にミナンから外には出さない」
アレスは隣にいる少女に言った。
「もちろん、オレたちのこともな」
死人に口無し。目撃者は始末しておかなければならない。
「こっちの利は、オレたちがどこに向かおうとしているのか知られてないってことだ。それから、あっちの策士が大したことないってことだな。策っていうのは必ず失敗したときのことを考えて立てるべきだ。どうやら太子の近くにはしょうもないヤツしかいないようだ」
あるいは、と考えを巡らせるアレスには油断は無い。もしかしたら、クラが知らされてなかっただけで、王子暗殺に失敗した場合は別の人間に指示が出ているのかもしれない。なんにせよ、楽観は禁物である。アレスは思わず体に入りそうになる力を抜いた。ヴァレンスまでは楽しい旅になりそうだ。
「エリシュカ。聞いてるのか? 反応ないと、オレがひとり言好きな痛々しいヤツみたいになっちゃうだろ」
アレスに返されたのは、はーあ、という気の抜けたような音である。
どうやらエリシュカはお昼寝の時間らしい。目をしぱしぱさせながら、口元に手を当てて、あくびを押さえようとしている。
「キミには緊張感ってものがないのか。お子ちゃまだなあ」
エリシュカはムッとしたようである。
「子どもじゃない」
「いーや、子どもだね」
「違う」
「そんなお子ちゃまのエリシュカちゃんには、今度、クリームパイを買ってあげよう」
「……なにそれ?」
アレスは唖然とした顔を作った。
「知らないのか? クリームパイを? うわ、それはマズイね。流行に乗り遅れてるよ、エリシュカ」
「食べ物?」
「もちろん。巷の子どもに大人気のお菓子さ。食べたい?」
「……要らない。子どもじゃないから」
「今、ちょっと考えただろ。……あ、そうだ! この前なんかプレゼントしろって言ってたよな。そのプレゼントにしよう」
「安いものにしようとしてるんだ。この甲斐性無し」
「うお! キミ、ちょこちょこそのセリフ言うけどなあ、男にとってはダメージ大きい言葉なんだぞ。自覚してるか?」
「してる」
「してるの!? じゃあ、なお悪いよ!」
エリシュカは眠気との戦いを放棄すると目を閉じて、アレスに寄りかかった。アレスは、馬車の速度を落とすと、エリシュカに客車で寝るように言った。
「御者台から落っこちたくなかったらな」
「……落っこちないように……支えてくれればいいのに……甲斐性無し」
「また!」
エリシュカは半分眠っているようにぶつぶつと言うと、しかし、大人しく客車のドアの向こう側に消えた。少しして、代わりにルジェが御者台に現れた。レディは寝顔を見られたくないだろうという、そういう気づかいを見せたのである。
「ボクは後車のヤナさんと替わった方がいいですね」
「やめてくれ。両手に花になっちゃうだろ。オレを殺す気か?」
アレスは再び馬車のスピードを上げた。
街道近くにところどころ生えている低木が接近しては遠ざかった。
「本当にすみません、アレス。こんなことになってしまって」
しばらくの無言の後、ルジェは口を開いた。重たげな声である。
アレスはため息をつきそうになるのを抑えた。そうして、これ以上詫びの言葉を続けて御者台周りの空気を暗いものにするくらいなら、いっそ黙っていてもらいたい旨を、はっきりと告げた。
「しかし、あなたにはちゃんと謝りたいんです。もちろん、皆さんにも」
「謝ってもどうなるものでもないだろ。そんなことより、これからのことを考えろ」
ルジェは口をつぐんだ。
その様子を横眼でちら見しながら、アレスはちょっと言い方がキツかったかもしれないと反省したが、その反省を今後に活かす気は特に無かった。柔らかい言い方で人の気持ちをほぐすなどということはアレスの得意とする所ではない。そうして、得手不得手があるのが人というものなのだから、苦手なことまで得意になる必要はないとアレスは思っていた。呪文しかり、女の子しかりである。
「……ヴァレンスは現在、先王が亡くなって喪中にあります。他国の王子を迎え入れる余裕があるでしょうか?」
ルジェが気を取り直したように言った。どうやら他人の忠告を聞く耳は持ち合わせているようである。
「死んだ人間よりもこれからのことの方が大切だろ。そんなことも分からない国に未来は無い。喪中だってことで同盟国の王子を、厚遇してくれなかったりまして受け入れてくれなかったりしたら他国に行きゃいいさ」
アレスの声はカルいが、言った内容はそれほど軽いものではない。王の四男であるルジェの王位継承順位は四位なのである。これがもし太子や次子であれば王になる可能性を大いに持つ者として、亡命先が、彼が王位についたあとの見返りを期待して、手厚く遇してくれることも十分に考えられるだろう。しかし、第四位ではまずもって王になることは不可能であって、そんな者を受け入れても益は無い。もっとも親しい国であるヴァレンスに粗略に扱われたら、他に行くにしても実質的に行くところなど無いのである。
「ま、とりあえず、ヴァレンスに入ることが先決だ。そのためにはみんなで協力する必要がある。ルジェにも御をやってもらうからな」
後のことは後で考えるしかない。
ルジェは迷いを払うように勢い込んでうなずいた。