エピローグ
風が吹いた。
そよそよとした優しい風だった。
少女は、葉ずれの音を聞きながら、瞳にかかった髪を軽く払うようにした。
樹上である。
古の昔からあり続けてきたような堂々とした大木の太い一本の枝の上に少女は腰かけている。
大樹に宿る妖精が枝の上で遊んでいるような、一見してそんなことを思うほどの美貌を少女はまとっている。年はまだ二十歳に満たない。一筋の光も寄せ付けないような漆黒の髪に、冬の光を集めて作られたかのような白い肌。均整のとれた体つき。優美な目元や可憐な口元に、どこか生気が無いように見えることも、彼女の妖しい美しさをひき立てていた。
少し離れたところに、屋敷が見える。ここはその屋敷の庭の一角なのだ。ギュウセイ家。ここミナン国では多少は名が知れた家らしい。なにせ当主が、ミナン国の太子すなわち次期国王の腹心の臣下だからである。
この家に二カ月くらい前に少女は連れてこられた。どこから連れてこられたのか。それは少女には分からない。彼女にはこの家に来た二カ月前より昔の記憶が無い。記憶喪失である。夢から覚めたときに夢の内容をすっかり忘れてしまって現実世界に立ち返るように、過去のことを何もかも忘れてしまって気がつけばこの屋敷にいたという感じだ。
「街道を所在なく歩いているところを保護した」
とは、この家の当主に受けた説明である。それからここに住まわせてもらっている。当主がした簡単すぎる説明に、彼女は何ら口を差し挟まなかった。差し挟もうという気持ちにならなかったのである。記憶への執着というものが彼女には無い。それをなぜかと考える気も起こらない。
――もしかしたら、わたしは死んだのかもしれない。
たまにそんなことを考えたりもする。この空想は少女を少しだけ愉快にさせた。一度死んでしまって生まれ変わった彼女は以前の生の記憶をなくしたのである。だから、過去のことを覚えていないのだ。
さわさわと梢が揺れる。
風に乗ってどこからか少女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼女が答えないでいると、
「あっ、やっぱりここにいた!」
樹の下に少年の姿が現れた。十歳くらいだろうか。仕立ての良い服を着ており、一目で上流階級の出だということが分かる。ここギュウセイ家の五男である。少年は上を見上げると、少女に向かって声を張り上げた。
「こんなとこで何やってんだよ! 探してたんだぞ!」
「何か用ですか?」
少女が返すと、少年は憤懣やるかたないといった調子で、いいから今すぐ降りて来い、と威張って言った。
次の瞬間、少年は息を呑んだ。少女は言葉通り、すぐに降りた。そう、枝から飛び降りたのである。枝はそう高い位置ではないにしろ、ひょいっと飛び降りてしゅたっと着地できるような高さではない。少年は、とっさに少女が落ちてくる位置に移動した。女の子とはいえ、向こうの方が数歳年上である。あと数年すれば追い越せるかもしれないが、背も体格もあちらが上。つまり、少年の行動はどういう結果を生んでしまうのかというと……しかし、そんなことまで考える余裕は少年には無かった。それに、そんなことにはならなかった。
まるで鳥の羽が舞い落ちてくるようにゆっくりと少女の体はふわふわと、そうして、何かを受け止めようとしているかのような格好で腕を伸ばしている少年から、一歩離れたところに着地した。
「……え? ……なに、今の?」
少女が飛び降りるのをみたときの倍は驚いた少年が、唖然とした表情をすると、
「魔法です」
と、それがどうしたと言わんばかりの声が返ってきて、驚きがさらに倍増した。
「魔法って……なあ、ユウ。お前、もしかして『飛行』の呪文とか使えんの?」
「ええ。それで、あの枝まで登りました」
先ほどまでいた太い枝を指差す少女。少年は開いた口が塞がらなかった。「飛行」の呪文は、遠い昔に滅んだものであり、今は使い手のいない伝説の魔法である。それをいとも簡単に使えると言ってのける。「じゃあ、見せてくれよ!」と意気込もうと思ったところで、少年はよしよしと頭を撫でられた。
「……え? 何で?」
「なぜでしょう」
「おれが訊いてるんだけど」
「昔こういうことをしていたような気がして」
「思い出したのか?」
「いえ、全然」
少年はがっくりと肩を落とした。
「何か用があったのでは?」
少女が訊くと、少年は、「あ、そうだ!」と何かに思い当たったかのような顔をして言った。
「ユウ。お前はおれのそばにいないとダメだろ。ふらふら禁止! それが言いたくて探してたんだ。目を離すとすぐにいなくなるんだからな。お前ってヤツはさ」
「それが用ですか?」
「そうだよ」
少年は腰に手を当てて、ぐっと睨みつけるようにする。少女の方が背が高いので、差を埋めるためにちょっとつま先だったりしてみたところ、バランスを崩して、体をよろめかせた。
「ユウ、おれはお前の何だ?」
少年は、体勢を直してから胸を張った。
「何でしょう?」少女は心から分からないような口調で言う。
「だぁーっ! この前も言ったろ! おれはお前のご主人さまだ!」
「そうなんですか?」
「そうだよ。『ユウ』っていう名前もオレがつけてやったんだからな!」
少女は記憶とともに自分の名前さえ失っていた。新しい名前は、確かにこの少年によって付けられたものである。
「『ユウ』っていうのは、古代語で『優しい』っていう意味があるんだ。知らなかったろ? 賢いご主人様を持ってお前は幸せだな」
「『憂い』という意味もありますが」
「……え? そうなの?」
「はい」
「ふーん……お前、そういうことは覚えてるのな。……って、呪文を使えるってことはそういうことだよな。まあ、いいや。おれにとってのユウは『優しい』ってイメージな」
「そうなれるように努めます」
「いいよ、努めなくて。そういうの、ガンバルもんじゃないだろ。それに、今のユウのままで十分優しいし」
「そうですか? わたしにはよく分かりませんが」
「おれに分かればいいの。ほら、行くぞ。もうすぐメシだ」
少年に手を引かれた少女には、一つだけ覚えている言葉があった。初めそれは自分の名前かと思ったのだが、どうやら違うようだ。その言葉を発音するときに心が少し浮き立つようになる。自分の名前を呼ぶことでテンションが上がるなどということはあるまい。
「エリシュカ」
少女は、呪文を唱えるときよりもなお慎重にその言葉を紡いだ。
言葉は光の中に散って、そのまま虚空に吸い込まれた。