最終話「昔の話を」
「そりゃないよ、王子様。やっと厄介払いできると思ってたのに!」
アレスの心よりの叫び声は華麗にスルーされた。
席を立ったルジェはその完璧な美貌を、傷心の少年に近付けた。
「これまでありがとうございました。また会えることを楽しみにしています」
そのあと、エリシュカにも同じように声をかける。エリシュカは軽く頭を下げるようにした。
アレスは手を差し出した。握られた手をギュッと握り返してからしばらくして、目の前の少年への情を断ち切るように、彼の手を潔く放した。そうして横を見ると、王子の隣に控えるようにしているターニャの姿がある。ターニャはペコリと頭を下げた。
最後はオソである。
「ご無事で」
アレスは、近づいてきた彼を抱きしめるようにすると、
「お前もな」
とだけ言って、身を放した。男と抱き合う趣味など無いアレスだったが、どうやら彼にとってオソは例外のようであった。
「また会えるでしょうか」
「お互い生きてればな」
「では、生きることにします」
真面目に言うオソの顔を見ながら、アレスは微笑んだ。
「危ないときは逃げろ。逃げるのは決して恥じゃない」
「お言葉を肝に銘じます」
「いや、こんな言葉、肝に銘じなくてもいいだろ。オレ、もっと良いこと言ってるよ」
「覚えてません」
「ええっ!」
「だから、今のお言葉を肝に」
「分かった。好きにしろよ」
「はい」
オソはアレスから視線を外すと、エリシュカに向かって旅の安全を祈ったのち、
「お姉さんと必ず再会できると信じています」
と、少女の未来を言祝いだ。
「ありがとう」
エリシュカは強い意志を含んだ声で返した。
図らずも始まってしまった別れの儀式は終わりを迎えた。もう一人、オソの隣にくっつくようにしている少女がいたが、アレスは無視した。特別、別れを惜しむような間柄でも無い。
アレスは、エリシュカとズーマを後ろにして部屋を出た。見送りの為に出てくる者はいなかったし、アレスも振り返らなかった。
屋敷の前には馬車が用意されている。卿の好意だろう。アレスは、ひとり見送りに来てくれたメイドの子に、
「ミストラス卿に礼を言っておいてくれ」
御者台から伝えた。
「はい、アホス様」
少女はニッコリとして答えた。
アレスは目をつぶってしばし心の痛みに耐えたあと、馬車を出した。ゆっくりと車輪が回り始める。
快晴の空である。新たな旅立ちにふさわしい空と言える。
ヴァレンスで何かを為したのかと言えば、それは何とも疑わしい。ルジェのこともアンシのことも中途半端にしてきてしまった。彼らの行く道は険しくて、その先払いくらい努めてやりたい気持ちを後ろに残したまま先に行かなければならない自分を、しかし、アレスはそれで正しいのだと思うことにした。離れていくアレスには、このヴァレンスでたった一つだけできたことがあって、その一つはルジェやアンシの件と同じかそれ以上に素晴らしいことであるという確信があったからだ。
アレスは、そっと隣に視線を向けた。何やら考え込んでいる様子の少女の姿がある。うんうん言いながら、盛んに首を捻っている。認めたくないことではあるが、その横顔はとっても愛らしい。その可憐な花顔を守ったのは紛れもなく自分自身なのだと、アレスはちょっと自惚れてみた。それから、
――これでいいんだよな。
そっと心の中で呟いてみる。
「それでいいんだよ。お前はよくやってる」
すぐに耳の奥に響いた言葉に、アレスは肩をすくめた。願望が作り出した幻の声に慰められていたら世話は無い。よっぽどお気楽な性格である。しかし、それでも、現にちょっと気分が良くなったりしているのだから、単純!
アレスが自分自身のカンタン極まりない精神構造に絶望していると、隣からエリシュカの声がした。
「ねえ、アレス?」
「何だい、ハニー?」
「やめて。引っぱたかれたいの?」
「引っぱたかれたくはない」
「じゃあ、ちゃんとして」
「はい、ママ」
引っぱたかれた。アレスは頬をさすりさすり用件を尋ねた。
「あなたに何か返してもらうものがあったんだけど、思い出せないの。わたし、何か貸した?」
アレスはぎくりとした。それから、ふるふると首を横に振った。もちろん、借りたものは覚えていた。そうして、
「もう返しました」
と言いたかったのだが、それを言えば乙女の睡眠中に邪な行為をした破廉恥漢として、軽蔑の視線で串刺しにされることだろう。あれはエリシュカと別れるつもりでなしたことなのだった。ところが何の因果か、別れるどころか分かちがたく結びついてしまった。
エリシュカは強い視線を向けてきた。
アレスはついっと視線をそらし、馬車の進行方向を見た。人は前だけ向いて生きていくべきである!
「クリームパイをご馳走するってヤツじゃないか?」
潔い信念とは裏腹に誤魔化しを行おうとする少年。彼に幸あれ。
「それもある。でも、それじゃない」と少女。
「じゃあ、あれだ。魔法剣を買うっていう」
「あ! それもあった! ……でも、それはいい。フィオナに貰ったのがあるから」
「ふ、ふーん、なるほど。じゃあ、何だろうなあ……」
しばらく沈黙が落ちた。
口を閉ざした二人の間に、からからという車輪の音が響く。
エリシュカがじいっと見てくる。じいーっと見つめてくる。
アレスはごくりと唾を飲み込んだ。
――他に何かなかったか……。
思案して、そうして、
「分かった。オレの過去を話すってやつだろ」
言ってしまってから、そんなことを言い出した自分に自分で驚いた。
エリシュカも驚いたようである。
「……話してくれるの?」
彼女らしからぬ遠慮気味の口調がそれをよく表している。
アレスはうなずいた。つい口を滑らせてしまうようなそういう内容では断じてないのだから、それが口をついて出たということは、自分がそうしたがっているというそのことなのだろう。アレスは、「かなり長い話になるけど、いいか?」と前置きした。
「時間はたくさんある」
「そうだな。じゃあ、どこからにするか……」
「初めからにして」
「生まれたところから? オレがどんなに可愛いベイビーだったのかってところから話を始めるか」
「その辺は、はしょって。興味無い」
「了解」
アレスは肩に少女の体温を感じた。エリシュカがくっついてきている。いつもなら、その淑女らしからぬ態度について一言物申すところであるのだが、心にやましいことがあるのでそうもいかない。アレスはくっつかれたままの態勢で、昔の話をゆっくりと語り出した。ミナンの王都に着くころまでには語り終わるだろう。途中で何かに襲われたりしなければ。
行く手の空は遥かに高く、絶好の物語日和と言えた。
もちろん、他の何をするにしても良い日和ではあったが。