第216話「それぞれの道へ」
ミストラス卿の屋敷に戻ると、起きていたのはズーマだけだった。みな、既に休んだらしい。公子モウライがはしゃいでくれたおかげで、みな疲労の極みであって、夜中にのこのこと女のところに出かけたナンパヤロウを待っている気力などは無かったようである。
「旅に出ても問題無いだろう」
エリシュカと再会したズーマは、握手をして礼儀正しく喜びの気持ちを表したのち、ロクに診察らしいことをした様子を見せもせずに、ぞんざいに言ってのけた。室内である。屋敷の門をくぐったところに控えていた召使の女の子に案内してもらった部屋であるが、どうやらここはアレスとズーマのために割り振られた部屋であるようだった。他に人の姿が無い。
「随分、簡単なんだな」
アレスは疑わしげな声を出した。死病の予後を診るのに、手をかざして何やらぶつぶつ言うだけで終わりとは。それに対するズーマの答えは、
「じゃあ、お前がやるか?」
という無茶なものであった。
主治医から順調な快復のお墨付きを得たエリシュカは、清々とした気持ちでベッドの中に潜り込んだ。いい加減疲れていたアレスもそれにならう。もちろん、彼女とは違うベッドである。
すぐに朝になった。
反乱があって王宮が焼けようが、一人の心優しい男の子が女の子によって翻弄されようが、変わらず朝はやってくる。心を浮き立たせるような軽やかな光とチュンチュンチュンという可愛らしい小鳥の声の中でアレスは目を覚ました。昨夜の凶事がウソのような爽やかな朝である。
ベッドに起き上がって室内を確かめると、どうやらひとりぼっち、ズーマはともかくとしても、エリシュカまでいない。ヴァレンスにくるまでの間は、アレスかヤナに起こされていた彼女だが、どうやら自分で起きるということをおぼえたらしい。フィオナのところで規則正しい生活をさせられたのだろう、とアレスは、昔自分も同じことをさせられたことを思い出しながら、考えた。地獄の早朝トレーニングのため朝は早くに起きなければならない。良い思い出である。思い出になっているというところが特に良い。
寝癖を直しもしないで外に出ると、昨夜部屋まで案内してくれた子だろうか、メイド服姿の少女が近づいてくるのが見えた。
「おはようございます、アホス様」
そう礼儀正しく言って、軽く頭を下げる少女。清潔な笑顔を浮かべる彼女を見ていると、アレスは自分の名前が間違えられたことなど小さなことに過ぎないぞという気になって、鷹揚に彼女を許した。
「皆さま、食堂にいらしてます。ご案内いたします、アホス様」
アレスは若干精神にダメージを受けながら、少女の背を追った。可憐な口元から二回聞くのはキツイ名前である。
仲間たちは勇者に敬意を払う気など微塵も持ちあわせていないようだった。食堂についたアレスは、既に食事を始めている彼らを見た。というか、もう終わりかけている。アレスはテーブルの端につくと、満腹感で顔をつやつや輝かせている彼らをしり目にして、大皿からパンを取って食べ始めた。
しばらくアレスが黙々ともぐもぐしていると、戸口に男が立った。精悍な顔立ちをした中年騎士である。この屋敷の主、ミストラス卿だった。卿は、立ち上がろうとする皆に、
「いや、どうかそのまま」
と手を向けると、テーブルの一角に向かって歩いた。そこには彼の主君である少女が腰かけている。
「殿下」
卿は、女官長の少女に給仕してもらったお茶のカップを口に運んでいたアンシに何事か耳打ちした。
「分かりました。会いましょう」
アンシはすっと立ち上がると、卿に導かれて戸口へと進んだ。グラジナがその後に続く。そこで、ふと立ち止まると、アレスの席まで歩いてきた。
「王都の内門と外門は通れるようにしておきました。無事をお祈りします」
アンシは婉然と微笑んだ。今はまだ王女であるが、それは女王にふさわしい優美な笑みだった。
アレスは立ち上がった。
「一年間遊んでたわけじゃないんだろ?」
「さあ、どうでしょうか。ただ一つ言えるのは、わたくしの戦いはこれから始まるということです」
「盾になってやれなくて悪いな」
「盾など必要ありません。攻めあるのみですよ。では、また」
そう言って、王女は軽やかに身をひるがえした。燃えるような赤い髪が、朝の光の中に鮮やかである。
そのまま立ち去るかと思われたアンシだったが、戸口の前でもう一度振り返って、足早にアレスの元へと帰ってくると、軽くハグするようにしてから、
「昨夜は少しナーバスになっていたようです。ズーマはやはりあなたにお返しします。あなたの方が心配ですから」
そっと耳元で囁いた。
すぐに身を離したアンシは、もう振り返らなかった。戸口でグラジナが軽く頭を下げるのが目に入った。アンシに抱きしめられた瞬間、もっと色っぽい話かと思って戦々恐々としたアレスだったが、全然ツマラナイ話だったのでがっかりした。仕方ない。ズーマはルジェ専用にするしかないなと心を決めていると、
「ボクはもともとズーマ殿に仕えてもらうことなんて考えていません」
王子はそんなことを言い出した。