第214話「人生を始めよう」
エリシュカは振り返った。視線の先に、微笑むフィオナの顔がある。
「そんな顔しないでください。可愛い顔が台無しですよ」
そう言われて、エリシュカはますます渋面になった。
フィオナはエリシュカのもとに歩いてくると、少女の両肩にそっと手を乗せた。
「わたしのことは心配ありません。まあ、勇者に比べれば大した腕ではありませんが、自分と身の回りのことくらいは何とかなるでしょう。あなたは、お姉さまを救い出していらっしゃい。殺すのではなく助け出してくるのです。そうして恩を返したいと言うなら、事が終わったあと、お姉さまと二人でわたしに会いに来てください」
フィオナの声は、妹に向けるような優しさに満ちていた。ただし、その言葉はその当の妹を危地に放り出そうとするものである。ただ優しいだけの姉ではないということだ。しかし、エリシュカには十分だった。自分を思ってくれているというただそれだけで。
エリシュカは、フィオナに抱きついた。
フィオナはよしよしとエリシュカの白髪を撫でるようにした。
「アレスに任せておけば、良いようにしてくれるかもしれません。でも、あなたも女の子なら、自分の人生は自分の力で切り開きなさい」
エリシュカは、フィオナの体に顔を押しつけたまま、「はい」と小さくうなずいた。
この一カ月の間でエリシュカに対してどういう教育がなされたのか、アレスは分かった気がした。それはエリシュカにとっては幸福なことだったかもしれないが、その夫となる予定の者にとっては必ずしもそうではないだろうとアレスは思った。亭主関白を目指している身であれば尚更である。
「何を変な顔をしているんですか、アレス。あなたはリシュのために命を捨ててくださいね」
軽くエリシュカを抱きしめるようにしながら、フィオナが言う。
「え、死ななきゃいけないの? 決定なの?」とアレス。
「ただ死ぬのじゃなくて、リシュのために死んでください」
「いや、だからさ、何で死ぬのが前提なの? そう言えば、さっきもエリシュカに、『お姉さんと一緒に』とは言ってたけど、オレと一緒にとは言ってなかったよね」
「言いませんでしたっけ。わたし、弟より妹が欲しかったんです。だから、あなたはわたしにとってはもう用済みです」
にっこりとしながら、実にむごいことを言ってのけたフィオナは、言葉のナイフにまともに胸をえぐられたアレスを見て、
「冗談ですよ。あなたも無事にね。でも、妹が欲しかったのは本当」
中途半端なフォローを入れた。
いつの間にか、一人でミナン王都に行きたいと思っていた希望の火が吹き消され、エリシュカと一緒に行くという流れになっているのを認めたアレスは、この流れに棹させるかどうか考えてみたが、どうやら難しいようだった。エリシュカと一緒に行くしかないようである。
――仕方ないな……。
あーあ、と内心でついたため息は湿ったものではない。からりとしている。その理由はあんまり考えたくないアレスである。
ミナン王都へはエリシュカと一緒に行く。
「ただし、一応、ズーマに体を診てもらってからだ」
死病により乱された体調がどこまで回復しているのか、確認しておかなければならない。いまだフィオナにくっついているエリシュカの背に向かって声をかけたあと、アレスは視線をめぐらせた。その先に、ヤナがいる。
「姐さんはどうする?」
「わたしはここに残ります」
ヤナは即答した。そのあと、「先生とフィオナが許してくださったらですけど」と付け加えると、
「もちろん歓迎します! ねえ、先生!」
とフィオナは声を大きくした。師は肩をすくめた。
「いいのか?」
アレスは確認するように訊いた。
「もう少しヴァレンスにいたいんです」
そう言ってから、アレスに近づくと、「手ぶらでは帰れないからな」とそっと言って、片目をつぶってみせた。子どもの使いではない。ヴァレンスまで来て大した情報無しでは戻るのは、情報屋としての矜持が許さないということだろうか。
「親父さんにヤナのことを頼まれてるんだけどな」
「親父は子離れした方がいい。まあ、連絡は入れるようにするさ」
「オレの借金はどうする?」
「気長に待つよ。利子はつけないから、十倍にして返してくれ」
「ありがとう」
ヤナにはこの言葉しかない。例え、ヴァレンスに来たこと、エリシュカの面倒を見てくれたことが彼女の意志であったとしても、感謝の気持ちは変わらない。アレスはどうしてもこの言葉を贈りたかった。
「ありがとう」
アレスは万感の思いを込めてそう言った。
ヤナは、にやりとした。
「その言葉に免じて、十一倍にしてやろう」
「あれ? 増えたよ!」
「増えたな」
そう言って、ヤナは手を差し出した。アレスはその手を取って、握りしめた。
「どうやら話は決まったようだな」
上座から、外見が十代半ばの師が言った。
「折角お会いできたのに、またお暇しなければいけません」
アレスが丁寧な口調で言う。
師は、また肩をすくめた。
「生きてれば、それでいいさ」