第210話「夜の下の再会 パート4」
どっぷりと夢の中に落ちたエリシュカを起こすのにはかなり苦労させられた。軽く揺すったくらいでは、ウンともスンとも言わない。名前を呼びながら、少し強く揺さぶってみたところ、その愛らしい口元に不似合いな、
「ウウウーッ」
というリーグルの唸り声にも似たうめきが漏れてきたので、アレスは思わず手を止めた。そこはかとない危険を感じる。こんなに寝起きの悪い子だったろうかと記憶を探ってみたアレスだったが、よくよく考えてみると今はまだ夜中、朝方起こすのとはわけが違う。
「エリシュカ、おい、起きろ」
もう一度トライしてみたアレスだったが、返って来たのは、「バウ!」という何かの動物の鳴き声のような声だった。
――もういっそ寝かしておいてやるか。
と諦められればそれで良いが、事は一刻を争う。この点については、争っているのはアレスだけであるという説もあろうが、「オレが争っていれば、それだけで十分だ!」と思って周囲に自分の事情を押しつけることができるのがアレスの天真爛漫さである。
アレスは、そのままエリシュカの名前を呼びながら、ほっぺたをつねったり、鼻をつぶしたりしてみた。むずかる声を上げるだけで、それでも目覚めようとしない少女の顔に、アレスはペンで落書きでもしてやろうかと考えた。一刻を争うときにそういう遊び心を持てるというところに勇者の特質があるのだと、アレスはひとりでうなずく。とはいえ、一カ月ぶりの感動の再会である。猫のヒゲが書き込まれた顔と向き合っては、折角の感動が台無しだとアレスは思い直し、折角の名案を取り下げることにした。
ゾッとしないことではあるが、エリシュカの寝顔を見ているうちに、アレスはお腹の底がふんわりと温かくなってくるのを覚えていた。この気持ちは一体何か、と真面目に考えると怖いことになりそうなので、あんまり考えたくはないのだが、少なくともエリシュカに対して負の感情を抱いているのではないことだけは確かである。
花のつぼみのような唇が目に入って、アレスは一カ月前の別れ際に、エリシュカに借りていたものを思い出した。アレスはもう一度少女の名を呼んで、その肩を揺さぶってみて起きないことを確認したあと、顔を近づけるとそっと彼女の清らかな額に口づけた。
「これで貸し借りなしだぞ」
アレスはつぶやくと、用心のために部屋のドアの方を見た。傍から見れば、今の行為は乙女の寝込みに乗じた変態的なものでしかない。師やフィオナに見られたらまず間違いなく半殺しの目に遭い、ヤナに見られたら恩を返す前だというのに、絶交を宣言されるに違いない。
アレスはホッと息をついた。どうやら誰もいなかったらしい。やれやれ、と安心したのも束の間、ギイと何かがきしむような音がして、背後で、つまりベッドの方で空気が揺れるのを感じた。アレスがゆっくりと後ろを振り向くと、そこには身を起こしたエリシュカの姿があった。
エリシュカは、じいっとこちらを見ている。
「よ、よお、オハヨウ」
一カ月ぶりに会うのに加えて、今の行為に気がつかれたかという恐れから、アレスはぎこちなく挨拶した。
「もう、朝?」
エリシュカが固まった体をほぐすように伸びをしながら言った。
「いや、まだ夜だよ」
「じゃあ、何しに来たの?」
「起こしに」
「起きた」
「うん、起きたね。じゃあ、服を着て下に来てくれないか。話したいことがある」
「メンドクサイ」
「だろうけどさ。大事な話なんだよ」
「じゃあ、ハイ」
そう言うと、エリシュカは両手を上に挙げた。大自然にあまねく存在するエネルギーでも集めようとしているかのようなポーズである。
「歩きたくないから、抱っこして連れてって」
「できるか! そんなこと!」
久しぶりに会ったというのに、思わず全力で突っ込んでしまうアレス。
「じゃあ、服。クローゼットにあるやつ何でもいいから持ってきて」
何が「じゃあ」なのか良く分からないが、そのくらいならお安いご用である。アレスは、クローゼットの一番取りやすい位置にあったチュニックを持ってきてやった。そうして、エリシュカに渡す。彼女はそれを着ると、さっさとベッドを立って歩き出した。
「なにグズグズしてんの?」
部屋のドアの前で、振り返るエリシュカに、慌ててアレスは応えると、彼女の後に続くような格好で部屋を出た。
「……あの、エリシュカさん?」
廊下を数歩もしないうちにアレスはおそるおそる声をかけた。
「なに?」
振り向いたエリシュカが首を傾げる。窓から入る月光を浴びて白髪がキラキラと光る。
「寝ぼけてるんですか?」とアレス。
「起きたって言ったでしょ。ちゃんと目は覚めてる」
「じゃあ、オレのこと誰だか分かります?」
「婚約者のこと忘れるわけないでしょ、アレス。そっちこそ、大丈夫?」
そう言うと、エリシュカはくるりと踵を返して、廊下を歩いていった。やがて階段へと差しかかる。
アレスもその後を追った。
一カ月ぶりの再会であるにも関わらず、何だかやたらと淡白な感じに、アレスは物足りなさを覚えたが、乙女ではあるまいし、思っていてもそんなことを言うことはできないのだった。