第207話「夜の下の再会」
全く気配が無かった。まるで地中からすっと現れたかのように唐突に背後に現れた。
「何をしてるのか訊いてるんだが」
言葉づかいは男っぽいが、女の声である。
その声の響きから、彼女が自分とほんの二歩ほどしか離れていないことが、アレスには分かった。
二歩。それは普通の武器の間合である。しかも、アレスは背を向けている。この状況を、かいつまんでごく簡単にまとめて説明するとしたら、アレスは死の淵に立っている、ということになるだろう。
「女所帯に夜這いでもかけに来たのか?」
女が言う。
アレスは思い切り首を横に振った。そんな恐ろしいことをするくらいなら、反乱軍なり魔王なりと戦った方がまだマシである。
「じゃあ、アレか、もしかしてフィオナの男か? 夜中の逢引き?」
「いいえ、違います」
ようやく驚きから醒めたアレスは前を向いたまま言った。会いに来たのは本当だが、ランデヴーなどでは無い。
「隠さなくてもいい。そうかー、やっとフィオナに男がな。お前、本気なんだろうな?」
「何がですか?」
「何が、だと……」
声は怒りを含んだようである。
「フィオナのことに決まってるだろ。あの子をちゃんと幸せにする気があるんだろうな?」
「あの……何か誤解があると思うんですが」
「もちろん誤解はつきものだ。しかし、二人で生活していく中でその誤解を一つずつ解いていけばいい。そうだろ?」
「何の話をしているんですか?」
「将来の話だ」
「将来?」
「そうだ。ところで、少年、キミは何をして生計を立てているんだ?」
「何ですって?」
「生計だよ。つまり、何の仕事をして金を稼いでいるのかってことだ」
アレスは考えてみた。そして正直に、主に賞金稼ぎをして日銭を稼いでいる旨を伝えた。
背にため息がかかるのを感じるアレス。
「その日暮らしか。大事な娘を預けるにしては頼りないな」
「すみません」
「官職につく気はあるか?」
「官職って言うと……えーと……」
「王宮仕えだ。王女に特別なコネがある。やる気があるなら紹介してやるが」
その王女のもとからいままさに逃げ出してきたところである。アレスは丁重に断った。すると、女は、
「これだから近頃の若いヤツはいやなんだ。キミも一攫千金を夢見るタイプか。『魔王を倒して一山当ててやるゼ』的な。もう魔王いないからな。おあいにくさま。そんなバカな夢を見るのはやめて、堅実に生きろ。職を持ち禄をもらい家族を養え。それでこそ一人前の男だろう。いつまでふらふらしているつもりだ。人生は短いぞ。あっという間に年を取るんだ。目を覚ませ」
心底からこちらを思っているかのように懇切に言ってきた。
夜の闇の中で見知らぬ人からお説教を受けるアレス。しかも背後から。しかも、簡単に後ろを取られてしまうほどの達人に。何でこんなことになってしまったのか、日ごろの行いは良いハズなのに、人生は理不尽である。
「わたしが言いたいのはだ、少年」
たっぷり十分ほど、同じような説教を繰り返されて、それにアレスが、「はあ」とか「その通りです」とか、「すみません、心を入れ替えて今日から働きます」とか答えていたところ、女はまとめの段階に入ったようである。少し間を置いたあとに、
「話を聞くときは人の目を見て聞け、ということだ」
女は言った。
「ええっ!」
今さらですか、と口にしたところ、
「何が今さらか。そのまま話を聞けと言った覚えは無い。さあ、振り向け」
女が答える。
「あの……」
「何だ?」
「いきなり斬ったりしませんよね?」
「いきなり斬りかかるとはどこの野蛮人だ」
それは、フィオナである。
――あんたの大事な娘さんとやらにそんなことをされました。
と言ってやりたい気持ちになったが、そんな勇気は無かった。アレス自身も結構そういうことをしているということもあるし、言い返すとまた説教が始まるかもしれない。と、そこで、
――ん? 娘?
気がついたことが一つ。そう言えばさっき、声はフィオナのことを「娘」と呼んでいた。音も無く背後に現れたことで泡を食って先ほどは頭が回らなかったが、ということは今まさに後ろに立っているのはフィオナの親ということになる。あるいは、親代わり。アレスは身震いした。彼女の親には面識が無いが、親代わりには面識があった。ありすぎた。
「何をしてる。さっさとしろ。年長者の言うことが聞けないのか」
アレスは、両手を軽く挙げて害意が無いことをちゃんと示しながら、ゆっくりと振り向いた。できれば自分の想像が違っていて欲しいと願いながら。
二歩ほど離れたところに、女がひとり立っている。アレスよりも小柄な背である。
その姿を認めた瞬間、アレスは諦めて、両膝を地につけると頭を垂れた。
「久しぶりだな、アレス」
先ほどまでとは打って変わった優しい声が降ってくる。
アレスはますます深く頭を下げた。礼を示すためということもあるが、それよりも多分に謝意を表すためである。
いくら一年ぶりだとはいえ、まさか師の声を忘れてしまっているとは、アレス一生の不覚であった。