第206話「フィオナの家への途上」
夜の下を歩きながら、アレスは考えていた。今、反乱軍が宮城を襲ってから大した時間も経っておらず適当に働き疲労し腹が減ったそんなときに、なにゆえ自分は歩いているのだろうか。もちろん、エリシュカに会いにいくためなのであるが、では、それは何のため。会いに行ってどうするつもりなのか。さっぱり分からない。
そもそも、エリシュカのことにここまでこだわるのはどうしてなのか。そこからして分からない。一カ月前までは彼女の命を助けるために奔走し、今また彼女の姉代わりの少女レティーツィアを助けるためにここルゼリアを出ようとしている。それを、「愛情」の一言で片づけることができればよほど楽な話なのではあるが、残念ながらアレスはそこまで単純な構造ではなかった。
では、どうしてか。
アレスは街路の石畳の確固とした感触を踏みながら歩いている。周囲に人影は無い。疾風のようにいなくなった反乱軍についてはまだしも、王宮で火災があったことくらいには気が付きそうなものである。それなのに、誰も街路に出ていない。おそらく戴冠の日近くということで夜間の外出を禁止する命令が下されているからであろうが、それにしてもという感じがする。火の粉が飛んできても、飛んで来たそれを払おうともせず、延焼した家の中で命令を守って死ぬ気なのだろうか。
おそらくそうなのだろう、とアレスは思った。ルゼリア都民は、王のお膝元で暮らしている関係上、王家に対して多分に親近感めいたものを持っている。王は、「我らの王」なのだ。一年前のクヌプスの乱のとき、もし外から攻めよせるクヌプス軍に応じて彼らが内から蜂起していたとしたら、王都は間違いなく陥落していただろう。しかし、そんなことにはならなかった。むしろ、クヌプス軍を撃退するために都民は剣と杖を取り、力を尽くした。それは当時クヌプスと戦ったアレスとしては大いに助かったわけだが、人の生き方それ自体としてはどうか。王家の為に生きるという生き方は、一面で潔いものともいえるが、反面で実に醜いものだともいえる。信じるものの為に生きると言えば聞こえは良いが、それは多分に、それを信じたい自分の為だと言えるのではなかろうか。
夜の静けさにそんなことまで考えてしまったアレスは自身を苦笑した。他人の生き方にケチをつければ、自分が偉くなったように感じることができる。しかし、そういう自分を省みれば、大した生き方をしているわけでもない。今だって理由も分からないままに歩き、歩きつつ、できれば回れ右をして帰りたいなあなどと考えているのだから。
それに比べると、エリシュカの生き方は実に清々としていた。もちろん、彼女とは短い間の付き合いでしかないわけなので、知り合ってからの生き方という意味でだが。一言で言えばそれは、
「嫌なものは嫌!」
という姿勢であって、嫌悪を感じることに対しては敢然とその力を振るう。実にシンプルである。アレスは、アンシと再会した一カ月前のシーンを思い出した。連行されかけたアレスを助ける(?)ため、王女の護衛を豪快に蹴り飛ばすエリシュカ。その表情は真剣そのものである。そのとき手に握っていたものが真剣だったとしたら大変なことになっていたことだろう。
アレスは思わず声を出して笑ってしまい、自分で自分のことを気持ち悪く思った。
「いや、お前はもっと笑ったほうがいいよ」
どこからともなく聞こえてきた声が、心の中のものであるということに気がつくのに、時はかからなかった。聞き慣れた、しかし、ここ一年の間、聞いていない声である。
「笑ったほうが可愛いからさ」
声は少年のものだ。アレスは顔をしかめた。こういうことを言ってくれるのが女の子でないところが自分の最大の不幸であると思う。目前の闇に浮かびあがった少年の姿は、アレスとそう変わらないくらいの年である。悔しいことにその姿態は、凛として気高く、惚れ惚れするような光輝を放っている。恥ずかしいのであまり言いたくないことではあったが、アレスにとって彼は人としての理想像であり永遠の目標でもあった。行動に迷ったとき、
――もし、あいつだったら……。
と考えてみる。すると、答えはすっきりと明瞭に出る。彼の行動指針もエリシュカのそれと同様にシンプルだからだ。シンプルでそれでいて美しい。
「良し」
アレスは決心した。
同時に、なぜエリシュカの件にこだわるのか分かった気がした。そうして、そのことについては、以前エリシュカに既に言われていたことを思い出した。とすれば、彼女の方がアレス自身よりもアレスのことをよく分かっているということである。それにも笑うしかなかった。
フィオナの家に着いた。窓辺に灯りがともっている。どうやらまだ起きているらしい。さすがにフィオナは、ルゼリア都民と同じような太平楽の中にはいないようである。ホッと安心したアレスが、どうやってフィオナだけを呼び出そうか、門前で悩んでいたところ、
「人の家の前で何してる?」
急に背後から声がして、思わず声をあげそうになった。