第205話「問題をうやむやに」
公子モウライが三百の兵を率いて王宮に攻め入ることができたのは、戴冠の儀に参席するために護衛の兵を引き連れて来たからである。公子という立場からすればその数は特に多くはない。しかし、それがそっくり敵兵に回るとすれば多すぎる数だった。
「よほど玉座に執着があったのでしょうか」
ミストラス邸であてがわれた部屋の中で、アンシが言った。室内は持ち主の人柄を表すような質朴な造りである。部屋の中には、魔法の光球が幾つかふわふわと浮いて、深夜であるにも関わらず朝のような明るさだった。アンシが呪文で造ったものである。
「先王がおなくなりになったとき、次はご自分であると思っていたところ、わたくしのような小娘に席を奪われたので思いあまってのことでしょう」
室内には、アレスとズーマ、ルジェとターニャ、オソとミラーナがいた。グラジナは別室で既に休んでいる。主の前に休むことなどできないとグラジナは抵抗したが、アンシが許さなかった。
「祭器が奪われたとなっては戴冠の儀はかないません。戴冠式の三日前に宮殿を襲われ即位できなかった間の抜けた王女として、ヴァレンス史にその名を燦然と残すことになりそうですね」
アンシの声は溌剌としている。まるで、それが喜ばしいことででもあるかのような口ぶりである。しかし、もうアレスは彼女の存念を聞きたいとは思わなかった。アンシが何を考えていようといまいと、アレスにできることはない。
「そういうことで、オレはここでおりさせてもらいますよ、殿下」
部屋の壁際に立っていたアレスが言うと、アンシは少し責めるような口調で、
「わたくしを助けてくださらないのですか?」
言い返した。
「お約束は戴冠の儀まででした。それが執り行なわれないわけだから、契約は無効です」
「これから嵐の海を渡らなければなりません。水先案内人がいないのでは心もとないでしょう」
「嵐はやり過ごすに限ります。女の子の怒りの嵐はいつもそうやってやり過ごしてます」
「女性の場合はもっと簡単なやり方がありますよ。花を送るとか」
「クリームパイとか?」
「あなたの力が必要だと言ってもですか?」
アンシは真情を込めた声を出した。アレスはその声に思わず胸を打たれたが、打たれた胸の痛みに屈すれば別の約束を反故にすることになる。それだけはできなかった。アレスの苦渋の表情を、アンシは見逃さなかった。
「分かりました。そのように言うとお困りになるようですから、言わないようにしましょう。どうやらこれはわたくしの試練のようですね」
「代わりにズーマを残していきます。こき使ってください」
アレスは勝手なことを言ったが、ズーマは肩をすくめただけで反対しなかった。
「よろしいのですか、ズーマ?」
アンシが確認するように言うと、
「殿下にお仕えできるとは、むしろ光栄の至りです」
そう答えて、優雅に膝をついた。
まだ問題はある。ルジェの件だ。戴冠式のその日までルジェの護衛をすることを、ミナン国の諜報部員であるライザと契約したわけだが、戴冠式は行われなくなったわけだから、こちらも契約はここで終わったとみていいだろう。しかし、ルジェに対してはアンシに対するのと同様、契約云々以上の情がある。アレスがルジェを見ると、彼は微笑んだようだった。
「これまでありがとうございました、アレス。あなたを縛る権利はボクにはありません。どうぞ心のままに」
ルジェはついていたテーブルから立ち上がると、アレスに握手を求めた。アレスはその手を取った。その手は男の子の手にしては繊細で、何とも頼りなかった。
「何かあればズーマに言ってくれ。こいつは大抵何とかしてくれる」
アレスがつい口にしてしまった適当なことを、ズーマはまた否定しなかった。
「何なりとお申し付けください、殿下」
そんなことを言って、今度は立ったまま優美なお辞儀をする銀髪の魔導士。
これで二つ問題は片付いた。片付いたというよりは多分にうっちゃっておいた、という解決の仕方であるが、それもまたやむを得ない。
さて、アレスの目前に最後にして最大の問題がある。
アレスはそれをどう解決しようか考えをまとめもせずに、ミストラス卿の屋敷を出た。最後の問題とは、むろんのことエリシュカの件である。アレスがルゼリアを抜け出すことを彼女はどう思うだろうか。いや抜け出すことについては問題は無いだろう。問題は、アレスがひとりで抜け出すことだ。これまで散々、「キミを一人にする気は無い」と約束していた男がふらりといなくなったことを知った少女はどう思うだろう。悲嘆に暮れるだろうか。それとも、人間不信に陥るだろうか。おそらくそのどちらでもないだろうとアレスは思った。アレスの脳裏に、大剣を手にした少女が猛スピードで追いかけてくる図が映し出された。彼女の白い顔は怒りでいつもよりもなお白くなっている。
アレスは自分の想像に自分で身震いしながら、エリシュカがいるはずのフィオナの家を目指した。