第199話「王都を南に」
王城を出てサモワ市までは二日の距離だと言う。サモワの市長は信頼できる人間であるから、窮状を見かねてきっと助けてくれるはずだとアンシは続けた。
――「きっと」って……。
アレスが納得がいかなかったのは、希望的観測で行動するということそれ自体ではなく、他ならぬアンシがそういう行動を取るというそのことである。希望的観測でとりあえず行動するということに関してはアレスにも覚えがある。こうなったらいいなあ、という甘い予測でもって進退を決めるということが。現在の状況に至っていること自体が、その結果であると言えなくもない。しかし、アレスの知る限り、アンシという少女はそのような無目的さとは無縁の存在であって、どうにも先ほどからの言動が彼女らしくないように思われる。
「どうかしましたか?」
月光の下で見つめすぎたようである。視線をアンシに捉えられたアレスは、何でもない、と返した。
「あなたには面倒をおかけします」
アレスは首を横に振った。
「友人が困っていれば助けるだけの話です」
「ありがとう」
そう言って頭を軽く下げるアンシにはやはり余裕が漂っていて、追われている者の切迫した感じがまるでなかった。これが生まれてから一歩も王宮を出たことがないような真正のお姫様であれば、事態が飲み込めていないのだ、と解釈することもできるかもしれないが、アンシは一年前に国を滅亡に追い込まれたときに危うい淵を渡ってきた子である。世間知らずとは対極に位置する彼女が、このただ今の状況が危険極まりないものであるということが分からないはずがない。それなのに、この余裕綽々。策があるのでなければ、その振る舞いは強がりにすぎず、余裕があるように見せかけているだけと考えることもできなくはないが、人が強がるときにまとう固い雰囲気がアンシには無かった。
秘密諜報部員のロロの先導によって、一行は夜の街並みを歩き出した。いや、歩くよりは少し小走りの感じで、暗闇の中を大路を避けて行く。反乱軍は、王女が逃げたときに備えて街にも兵を配置しているかもしれないが、南側は比較的安全である。ヴァレンスでは南は不浄の方位。逃げるにしても、まさか南から逃げるとは敵も思っていないだろう。
ふと振り返ったアレスの目に赤々と燃える王宮があった。火の手は大分回っているようである。考えなしに火などつけても、王女の捜索は難航するだけだと思うのだが、敵は、王女を探すことなど特段考えもせず、宮中に住まう者の全てを殺す意図があるのかもしれない。
道はひっそりとして怪しげな――と言っても、敵からすればこちらが怪しくなるのかもしれないが――影などはなかった。どうやらこちらは手薄である。あるいは、手薄に見せておいて待ち伏せがあるのかもしれないとアレスは勘ぐった。確実に捕えるためには、一か所だけ逃げ道を作っておくことである。そうしてそこに伏兵を配しておく。一生懸命逃げてきて、「逃げられるかもしれないぞ」と希望を抱いた瞬間、敵の手のひらの上で遊ばされていたという絶望を与えることによって、戦意をなくさせる。
「もしそうなったら、どうします、アレス?」
アンシがいたずらっぽく言った。
「どうもしません。突破するだけです」
「久しぶりに二人で戦いましょうか」
「ウキウキしているように聞こえるのは気のせいですよね?」
「ええ、もちろん気のせいです。ウキウキではなくて、ワクワクしてますから」
ヴァレンスでは町の南側に経済的な恩恵に与れない地区ができる。王都でさえその例外ではない。
南に広がる貧民街に入りそうになったところ、アレスは、「止まれ!」と前を走るロロの背に短く言葉を投げた。同時にアレスも足を止める。それから、すばやく短剣を抜いた。魔法の言葉に応じて、短剣に光が帯びる。
「何のつもりだよ?」
魔法の光に、苦々しい表情をしたロロの顔がはっきりと見える。
「修行不足だぞ、ロロちゃん」
「何のことだ?」
「誰かいます」
アレスの代わりにアンシが言う。声に応じて、女官たち三人は王女の壁となった。
ロロは辺りを見回した。見回しながら、周囲の気配を探ってみた。しかし、辺りには何もないようである。ムッとしたロロが、アンシを傷つけることなく、アレスだけにダメージを与えるような素敵な言葉を探していると、数歩の距離に唐突に人の気配がして、背筋が凍りついた。
「誰だ!」
恐怖をかき消そうとして不必要に大きくなってしまったロロの言葉に、
「上司に向かって何だその口の利き方は」
セリフの内容ほどは怒っていない緩やかな声が返ってきた。
「リーダー……ですか?」
「そう呼びたくないなら、いつ辞めてもいいぞ」
どうやら味方らしい。ロロの上司であり、「王の眼」の隊長のようである。アレスも面識があった。しかし、警戒は解かないアレス。
「こんなとこで、何してる? 用件を言いな」
「リーダーに向かってなにその口の利き方!」
甲高い声を出すロロを無視して、同じことをもう一度訊くと、隊長はアンシに向かって、
「ミストラス卿の協力を取りつけてきました。卿は手勢を準備しております。いかがなさいますか?」
穏やかな声を出した。