第198話「行く当てのない道行き」
レディファーストである。王女と女官三人を先に登らせるアレス。あまりに彼女たちが手際よく登っていくので、
「縄で壁を登るのは王宮住まいの必須技能か?」
と思ったほどだった。アレスはいったん光の剣から光を消して元の短剣に戻してから腰の鞘に納めると、壁を登ろうとしたところに縄が無い。
「このクソガキ!」
などという言葉を上に投げて時間を無駄に使うような愚かしい真似をアレスはしなかった。壁にとりついてさっさとよじ登り始める。壁の石の冷たさとともに、ロロと呼ばれた少女のその心根の冷たさを知ったアレスである。上につくと、壁はかなり分厚い代物らしく、人一人がゆったりと寝そべることができるくらいの幅がある。
「遅いぞ、グズグズするなよ」
ロロ嬢が言う。アレスは我慢した。女の子に対するときは、耐えてナンボである。本来なら壁から突き落としてやりたいところ、その気持ちを押さえつけていると、彼女はさっさと壁を下って行った。どうやら下りる方の壁には既に縄がかけられているらしい。なかなか用意が良い。というより、それを伝って登って来たのだろうか。
今度は逆にアレスが他の少女たちより先に降りた。降りた先の安全を確認してから、「いいぞ」と上に向かって声をかける。
「安全に決まってるだろ、アホ」
隣から聞こえてきた悪口をアレスは無視した。
「で、どうするんです、これから?」
無事降りてきたアンシに訊くと、
「何か良い案があったらおっしゃってくださいな」
とんでもない答えが返ってきた。
「何も考えてないんですか?」
「人を考え無しみたいに言わないでください。仕方ないでしょう。夜襲をかけられれば、何を考えているヒマもありません。そもそも逃げるつもりがなかったわけですから。廟室で敵を迎え撃つつもりでしたので」
じゃあ、すぐ傍にいる秘密諜報部員は何なんだ、ということになる。こういう事態を予想したからこそ、前もって打ち合わせておいたのではないのか。
「違います。ロロが助けに来てくれたのは只のわたくしへの好意です。わたくしたちお友達ですから」
アンシが明るい声で言う。
「畏れ多いです~、王女さま~」
ロロは間延びした甘え声で言った。そんな彼女のお尻をはたきたい気持ちを押さえつつ、アレスは、それにしてはタイミングが良すぎるじゃないか、とアンシの言葉を怪しんだが、そんなことより大切なことは、これが打ち合わせた行動じゃないとすると、
「じゃあ、ホントにどうすんの、これから?」
ということであった。
依然、干戈の音がかまびすしく夜を伝わってくる。今のところ、この付近には怪しげな気配を感じないが、ウロウロしていれば見つかるのは時間の問題だろう。
「ルジェ殿下のように国外に逃げますか」
まるで、近くの丘にピクニックにでも行きましょうか、とでも言っているような気安さでアンシが言った。
「それとも、王都近くにある市で再起を図るか」
アレスは嫌な予感がした。どうして王都を出ることばかり考えているのか。王女の与党、例えば五大臣の屋敷に逃げ込み、その兵を以って王宮を奪還すればよいのではなかろうか。
「わたくしより頭が回るようですね、アレス」
からかうような声である。
「しかし、残念ながらそれは難しいでしょう。わたくしの為に兵を出そうとする大臣はおそらくいませんから。彼らは自らの保身のため勝ちそうな方につきます。反乱軍と王宮軍の勝負がつかない間は動かないでしょう」
アレスは急に自分の頭が悪くなったような気がした。勝負がつかない間は動かないと言うが、王宮軍は負けそうなのである。現にトップの王女が逃げているのだ。このまま手をこまねいていれば王宮軍は負けるだろう。負けたあとにこちらについてくれても何の意味もない。そうして、保身を考えるというのであれば、自らの奉戴する王女を助けるべきであって、静観を決め込むなどというのは全く理屈に合わない。
「政治の世界はなかなか複雑怪奇なのです。あなたが考えているようにすっきりとしていると良いのですけれど。とりあえず、その辺の話はあとですね。今は逃げないと。わたくしの為に戦ってくれている兵の死が無駄になります……決めました。ルゼリアを南に出て、サモワ市に行きましょう」
アレスは何の因果で王族の逃走を二回も手助けしなければいけないのか、と己の運命を奇異に感じたが、もっと奇妙なのはその奇妙さをどこかで受け入れてしまっている自分自身であった。
「ここまででも良いのですよ、アレス。ズーマやみなのことが気になるでしょう?」
アンシが言う。それは本心からの言葉のようであった。
「いや、ズーマなら大丈夫です。みんなも無事ですよ」
「信頼しているのですね。そう言えば、ズーマが何者かということについては、ついにわたくしにも教えてくださいませんでしたね」
「直接訊いてください。あいつは美人に弱いうえ、あなたのことを気に入ってる」
アレスは歩き出した。それから背に負っている剣の柄にそっと触れた。何事もなくルゼリアを出られるとは思っていない。何事かあれば躊躇なく背中の剣を抜くつもりだった。