第197話「秘密の抜け道」
戦闘の最中、魔法の炎が闇を焦がした。女官のひとりが敵に向かって放った呪文である。
余計なことを、と思ったアレスだったが、我が身と王女を守るためにやっていることだろうから、批難もできない。十人くらいの敵などアレスには何でもない数であるが、彼女たちにとってはそうでもないことだろうし。
光の剣が夜気を裂くたび、次々と苦悶の声が上がった。仲間を呼ばれるのを防ぐために、できるだけ、すばやくひそやかに倒したかったアレスだったが、どうもうまくいかなかったようである。闇に映る刺客の影を全てきっちりとかき消したと思ったとたんに新手が現れた。
女官に向かって、「手を出すな」と言おうとする前に、
「アレスに任せなさい」
アンシの声が聞こえた。
「必要があれば百でも二百でも斬ってくれます」
状況にそぐわないいやに悠然とした声である。アレスは、気楽なことを言ってくれやがる、と思う気持ちをバネにして勇躍した。新たに現れた影の一団に剣を振るう。闇の中から伝わる確かな手ごたえ。二三人を斬ると、影の集団にひるみが見えた。その隙を見逃さず、また二人斬るアレス。斬ると言っても、アレスの剣は一日痺れさせるだけのもので、斬られても死にはしない。
「運が良かったな」
残る数人をアレスは一気に斬り伏せた。バタバタッという音が地から上った。
「よし、行くぞ」
とアンシの方に声をかけたところ、第三波がやってきたので、アレスはげんなりした。しかし、嫌になっているわけにもいかない。足に力を入れようとしたそのときに、
「燭台を捧げもつもの、弓もて撃たん……光弾!」
呪文の声が聞こえて、アレスの横を後ろから幾筋もの光が通り抜けた。その光は、アレスの前に立ちはだかっていた影の全てにあやまたずヒットした。影は、げえっという苦悶の声を上げて、倒れた。そうして彼らは永遠に起き上がることはない。
その様子を見たアレスは胸を熱くしたが、さすがにそれが感傷に過ぎないことは分かっていた。いくら彼らのことを悼んでも、自分が代わりになってやるわけにもいかなかったのであれば、仕方ないことである。
「行きますよ、アレス」
アンシが隣から言った。
アレスは彼女の後ろについてまた走った。
それにしても、ここまで簡単に王宮内に賊が入れるとはゆゆしき事態である。王を絶対至上のものとするヴァレンスでは、これまで反乱を起こしたものなどいなかった。そのため防備は手薄である。せっかくクヌプスという貴重な例外が出たのに、学習しなかったらしい。それはいかにも貴族らしい優雅さ、すなわちアホさだった。
怒声が響いてくる。反乱軍と王女軍の戦いはどちらが優勢なのかは分からないが、そば近くまで剣刃が迫っていることを考えれば王女軍が不利であるに違いない。
「『竜勇士団』はどうしたんです?」
アレスが訊いた。「竜勇士団」は、王女お抱えの騎士団である。王女のそば近くにいずして、どこをほっつき歩いているのか。
「彼らには別の仕事を頼んであります」
「王女の守護より大切な仕事があるんですか?」
「わたくしの守護などに大事な人員をそうは割けません」
どのくらい走ったのか、一行は中庭に出た。月が皓皓として、地の草を白くしている。周囲に敵影は無い。しかし、逃げられるところも無いようである。
アンシはさっさと庭を突っ切っていった。着いた先は壁である。庭を囲むようにして堅牢な石壁があって、それは一見行き止まりのように見えるが、
「いえ、本当にただの行き止まりです」
平然とアンシが言う。アレスは耳を疑った。てっきり、壁にぽっかりと穴かなんか開いて、秘密の抜け道か何かがあるに違いないと期待していたのである。
「そんな便利なものはありません」
「じゃあ、どうするんです?」
アレスは壁を見上げた。人五人分くらいの高さである。上ろうと思えば上れないこともないが、自分だけ上れたところで何の意味もない。
「『飛翔』の呪文を使ってください、アレス」
「ムチャ言うなよ」
「飛翔の呪文」とはその名の通り、空をすいすいーっと飛ぶ呪文のことである。高等魔法に属し、これができるのはごくごく一部の上級魔導士に限られる。
「じゃあ、わたくしが」
「え? 一年の間にそんなに腕を上げたんですか?」
「いえ、『飛翔』はまだ無理です。でも、この壁を破壊することはできます」
「ここまで隠密行動してきた意味がなくなります」
「困りましたね」
アレスは何者かの気配を感じて、アンシをかばう位置に立った。
月光の下にいつの間にかひとつの影がある。小柄な影である。アレスよりも少し低いくらいだ。
「誰だ? 二秒で答えろ。じゃなきゃ、斬る。一……」とアレス。
「斬られてたまるか、このクソヤロー! ロロだよ、王の眼だ」
「知らないな。はい、二秒」
「待ってください、アレス」
今まさに斬りかかろうとしていたとき、アレスはアンシに止められた。王女は、怪しげな影に向かって、
「ありがとう、ロロ。来てくれたのですね」
懇ろな言葉をかけた。
「もちろんです。わたしは殿下の忠実なしもべですからねー」
何やら調子のいいことを言った影は、どこかで見たことのあるような服装をしていた。迷彩服である。
「ぜってー、今度シメるからな、お前。覚えてろよ」
声が高い。どうやら女の子であるらしい。
ロロと呼ばれた少女は、壁にとりつくと、するすると上に登っていった。
それからすぐにアレス達の前に一本の縄が下りてきた。