第195話「宮中からの逃走劇」
廟室は、宮中の正門からすると奥深いところにある。広大な王宮である。賊が侵入して来てもある程度は時間を稼げるはずだ。
――もちろん、正門から礼儀正しく入って来てくれてればの話だけどな。
アレスは走りながら考えた。
一体なぜ王宮に攻め込んできたりしたのだろうか。現在政柄を握っているのは喪中のアンシではなく、五大臣と呼ばれる重臣たちである。とすれば、アンシに対して不満を持っても仕方ないということになる。もちろん、それはアンシの隣の位置にいるアレスの理屈であって、下から見れば、アンシが五大臣を取り仕切っているように見えるのかもしれない。しかし、仮にそうであったとすれば、それは馬鹿げた話である。もしもこの反乱が政を正したいという意志の下でなされたとするなら、狙うべきはアンシではなく、五大臣のハズだ。
――そんなことも分からないバカが反乱なんか起こすのか?
反乱は死罪に当たる。それをロクに調べもせずに起こすとしたら、相当命を軽んじているか、やぶれかぶれになっているかのどちらかだろう。そのどちらでもないとしたら……。
――何でだ?
アレスは考え続けている。最高スピードで走りながら、周囲にも警戒を怠らない。戦場で考えることはあまり賢明な行為ではない。頭よりも体を使うことが戦闘では大切なことであり、なまじ頭など小賢しく活用しようとすると、その間に敵の一撃を受けて頭ごと斬り落とされるようなことになりかねない。ただ敵を殺すことだけを考えるのが戦場の習いである。しかし、アレスは違った。何も考えない殺人機械になって生き残るのであれば、思考を保った人間として死にたい。そういう思いがある。
――もちろん、死なないのが一番だけどな。
廟堂の前には、数十人の女官が陣を組んでいた。その先頭に、指示をする形でグラジナが立っているのをアレスは認めた。どうやら、賊よりも先に到達できたようである。ほっとしたアレスに、
「宮中をお出になるように申し上げさせたハズですが」
不快を隠さずにグラジナが言った。
「その憎まれ口が聞きたくてわざわざ来たんだよ。殿下は?」
「中です」
「入らせてもらうぞ」
廟堂の扉に向かおうとしたアレスの前にグラジナが立つ。その切れ長の瞳には明らかな敵意があったが、そんなものに頓着するようなアレスではなかったし、まして今は時間が無い。
「オレが殿下を説得して連れ出してくる。ここにいたら殿下もろとも死ぬぞ」
「本望です」
グラジナは強い口調である。アレスはわざと嘲るように
「主と一緒に死ねればそれで満足か。大した忠臣もあったもんだな。本当に主のことを想ってるんなら、何が何でも命を救うべきだろう」
言うと、グラジナを押しのけるようにして、先へ進もうとした。そんな不埒な少年に対して、女官たちが一斉に、手にしていた杖を向ける。どうやら、彼女たちは魔導士部隊であるらしい。
近いところから剣撃の音が聞こえて来ていた。
夕べが薄闇のベールをまとい始めている。じき、夜が来る。
「頼む」
アレスは軽く頭を下げた。
グラジナはその様子を見ながら少し無言でいたあと、「必ず説得してください」と鋭い声を出したかと思うとさっと道を開けた。アレスはうなずくと、女官たちが割れてできた道の間を足早に歩いた。廟堂の扉に着いたアレスは、ノックをする手間を省略して中に入った。
「どなたですか?」
ひんやりとしてカビ臭い空気の中を、清冽な声が渡ってくる。
「勇者」
アレスがきっぱりと言うと、闇色に染まりつつある室内で明るい笑い声が立った。
足音とともに、薄い闇が少女の輪郭を作る。
「やはり二人は再会する運命でしたね」
信じられない第一声である。冗談も時と所を弁えて言え、とアレスは口早に言った。
「それをアレスに言われるとは、とても心外です」
「ここを出るぞ」
「それは難しいと思います」
「簡単だ。足を何回か前に動かせばいい。左・右・左・右ってな」
「わたくしはここから出ません」
アンシは断固とした口調である。
「いや、出るんだよ。今すぐにだ」
アレスも同じくらい力強い口調で言った。累代の王の霊が安置している場であるからと言って、賊が紳士的になってくれるとは思われない。ここにいたら、殺される……かどうかは分からないが、少なくとも何かしら危害は加えられることだろう。王族の玉体には指一本触れることなかれ、という古き良き伝統はいまだ残っているとしても、賊には通用しないだろう。
「来てくれると思ってました」
アンシがどこか楽しな様子で言った。
アレスはムッとした。その言葉はウソである。女官に逃げろと伝えさせておきながら、待っていたとしたら、どんな天の邪鬼だということになる。
「そんなわたくしを愛してください」
「生き残る方が先だ」
アレスは剣を持っていない方の手でアンシの手を握った。
「これ以上グズグズ言うなら、キミを気絶させてから担いで行くからな」
アレスは本気だった。口にしてみるとそれは非常に魅力的な案に思えてきた。
「いたしかたありませんか」
アンシは覚悟を決めたような声を出した。
「どっちのことだ。一緒に走ってくれるのか、それともかつがれるか?」
「走ることにします。わたくしを援護してください」
「逆だろ。キミがオレの援護に回るんだよ」
二人は手をつないだまま廟堂を出た。
打ち合う音がさっきよりも近くに聞こえた。