第193話「未来に向かって歩け」
消えない記憶がある。
消してはならない想いがある。
それらが消えることがあるとすれば、それはすなわち、今の自分とは違った自分になるということだろう。全くの別人にである。その考えはアレスにとっては、大して魅力的なものではなかった。未来は、過去と現在をつないだその延長線上にあるものであって、無限の可能性に満ちたものなどではない。そういう思いがある。
「不自由ですね」
宮門をくぐったところで、アンシが言った。
「過去にとらわれていたら、新しいものを生み出しようが無いでしょう。そんなものなら、すっぱりと捨ててしまえばいいんです」
まるで自分に言い聞かせているような口調である。本心というよりは口に出すことで真実にしようというような趣。しかし、それにしたって、口にできるだけ彼女の心根の方が強いということだとアレスは思った。
「甘えてもいいんですよ」
立ち止まったアンシは大きく手を広げた。
「たまにはあなたにも泣きたいときだってあるでしょうから」
その声に多少のからかいの色があるのはアンシの照れ隠しである。
アレスは、首を横に振った。残念ながら、女の子の胸の中で素直に泣けるほどの強さは持ち合わせていなかった。
「いつかあなたを泣かせてくれる人が現れてくれることをあなたのために祈ります」
アンシが微笑みながら言うと、アレスも、別の意味でならいくらでも泣かせてくれる子がいるけど、といつもの調子で答えた。
別れるときにアンシは、契約は解除します、と出し抜けなことを口にした。
「この三週間、ありがとうございました。久しぶりに楽しい時間を過ごせました。これから先は戴冠式のその日まで廟室に籠り、もうお会いすることもかないません。わたくしのわがままはここまでです」
アレスは、王家の秘宝であるサージルスの石を快く貸してくれたことに対して、礼を言った。
「他にも言いたいことがあるなら今のうちですよ」
アンシはすっとアレスの面前に立った。ほとんど鼻先が触れ合いそうな近さである。アレスは、彼女の翡翠の瞳の中に自分の顔を認めた。
「何かあるでしょう?」
アンシの吐息がかかる。
アレスはゆっくりと首を横に振……ろうとしたとき、頬をビタリと下から伸びてきた両手で挟まれて、固定された。
「ありますよね?」
ニコニコした瞳の中にある真剣な色がそこはかとなく怖い。アレスは、ゆっくりと首を縦に振った。
「じゃあ、おっしゃって」
アレスは、頬に当てられた少女の手に自分の手を重ねた。それから、彼女の手を自分の顔から離すようにして、少し力を入れた。
「アンシ……」
「はい」
「言いたいことは色々あるけど、とりあえず一つ」
「はい」
「三週間前に会ったときからずっと言いたかったんだ」
「はい!」
アレスは勇気を振りしぼった。
「ちょっと太った?」
「……はい?」
「いや、昔はもっと痩せてたような印象があってさあ。もちろん、オレはちょっとくらい太ったって全然気にしないよ。ていうか、太ってる子の方が好きかも。健康的でいいじゃん。そう思わないか?」
アンシはウンウンとうなずいている。そうして、口元は微笑んでいた。しかし、目は笑っていない。
「それだけ?」
「あー、そうね。まあ、あとはその、ちょっと肌が荒れてるんじゃないかーとか、目がキツクなったんじゃないかーとか、髪がボサボサしてるなーとか、色々言いたいことはあるけど、昔のよしみがあるから言わないことにするよ」
「……他には?」
少女の細身からゆらゆらゆらと立ち上るオーラのようなものが見えて、アレスは唾を飲んだ。どうやら調子に乗り過ぎてしまったらしい。とはいえ、真面目に答えようとすれば、アンシは満足するかもしれないが、アレスはそうもいかない。結局、アレスはアンシのことが好きなのであった。しかし、その感情を優先させれば、なすべきことがなせなくなる。そんなアレスをアンシも好まないだろう。
「他におっしゃりたいことは?」
うーん、と考え込む振りをするアレスの前で、アンシは吐息をついて、彼の手から自分の手を放した。
「あなたの気持ちがよく分かりました」
「いや、多分誤解してると思う」
「誤解なんかしてません」
「いや、絶対してる」
「してません。つまり、わたくしのことがお嫌いだということでしょう?」
「ホラ!」
アレスはことさらに不満げな声を出した。アンシは微笑んでいる。
次の瞬間、アレスはふわりとしなやかな腕に抱かれた。
かぐわしい香るがアレスの胸を満たした。
「あの……かなり恥ずかしいんですけど」
戸惑いがちなアレスの声がアンシの胸元に落ちる。
「わたくしの方が恥ずかしいので、我慢してください」
アレスは頭を抱かれたまま、はい、とうなずいた。
しばらくそうしていたあと、アレスは頭を解放された。
アンシは穏やかな目で言った。
「さよなら、アレス。またお会いできるときを楽しみにしています」
アレスは手を差し出した。
重ねられた手を握ったアレスは、「またな」とだけ言うと、王女に背中を向けて歩き出した。