第192話「一年前のあれやこれや」
アレスの前にほっそりとした手が差し出されている。
アレスはそれをじいっと見た。綺麗な手である。その手の主が言う。
「デート中は手をつなぐ。コレは世界の常識です」
アンシの声には力があった。
アレスは無視して歩き出そうとしたが、
「腕を組んでもいいんですよ」
という甘い脅迫を受けて仕方なく手を取ることで妥協した。
「で、どこに行く?」
「街を一回りしましょう」
「そんなアバウトなプランでは女の子は満足しないぞ、アンシ」
「わたくしは満足です」
「なら良し」
アレスがアンシの手を取って、二人は手をつないだまま大通りを歩き出した。
メインストリートであるにも関わらず相変わらず人気のない通りである。
「この通りを人でいっぱいにしないとな」
「できると思いますか?」
「キミ次第だろ」
「自信が無い……と言ったら笑いますか?」
「笑わないけど、高慢なキミ以外のキミは認めない」
アンシはフードの下で笑ったようである。
「わたくしはそんなに高慢ですか?」
「高慢どころじゃないね。高慢で傲慢で我がままで自分勝手でゴーイングマイウェイだよ」
「大変な子ですね」
「いや、キミのことだからね」
天空から降り注ぐ光で二人の行く道はキラキラとしている。
「あなたを殺したいと思うときがあります」
だしぬけにアンシが言った。
え、と訊き返す気も起こらないような普通の口調である。
アレスはアンシの告白を全くの冗談だと受け止めた。というより、冗談でなかったら怖い。いや、冗談でも十分に怖い内容である。
「いいえ、本気ですよ。本気であなたを殺したいと思うときがあるんです。再会してここ三週間の間。だって、そうすれば、あなたはわたくしの胸の中だけで永遠に生き続けるわけでしょう。誰のものにもならず」
アンシは平然と続けた。
現世でもう少しくらいは生きたいと思っているアレスとしては、手を放して彼女と離れたほうが良いだろうかと思い、そうしようとしたが、向こうが放してくれなかった。すべすべとした手から伝わってくるものの中に冷たい何かを感じて、アレスは背筋がぞわぞわとした。
「あなたがいなくなったから、せめてヴァレンスだけでもと思い、これまでやってきたんです。それなのに中途半端な時にまた現れて。責任を取ってください」
「首は勘弁してくれ」
「じゃあ、他のことを頼めますか?」
「痛くないことな」
「わたくしの夫になるというのは?」
「却下」
「少しは考えてください」
考えたってどうにもなるものではない。大体その件は一年前にケリがついている話なのだ。
「一年前は純情だったんです」
アンシの手に力が込められた。アレスは自分の手がギュッと握られるのを感じた。
「もし今のわたくしだったら、あなたを絶対に逃がしたりしません」
「オレが逃げたみたいな言い方やめてくれよな。あれはコウコの所為だぞ」
「彼女の悪口は許しません」
「悪口じゃない。事実なんだよ。言葉本来の意味で殺されかけた」
「当たり前です。遊びで剣を振る子ではありませんから」
アンシの声はどこか誇らしげであった。アレスはげんなりした。
「何でちょっと自慢げなんだよ。こっちは死にそうになったんだぞ」
「わたくしのためを想ってやってくれたのです」
「おい!」
「もうすぐ帰って来ますから、アレス、では、わたくしと一緒になる代わりにあの子と一緒になってくれませんか?」
「何言ってんの? 絶対ムリだろ。ていうかオレ婚約者いるからね」
「二人くらい一緒に面倒見たらいいでしょう」
アレスは試みにその状態を想像してみた。途端に足先から震えが起こり、震えは頭の上まで到達した。全身がその想像を思いきり拒否していた。
「ところで、あいついつ帰ってくるんだよ?」
「さあ」
アンシの声は弾んでいる。アレスは嫌な予感を覚えた。この頃良い予感というものを覚えた例が無い。
「コウコには何をさせてるんだ?」
「興味がありますか?」
本当言うと少しあったのだが、聞かない方が良さそうだと思い直したアレスは首を横に振った。
二人は通りを東に折れた。それからしばらくして今度は北に折れる。大通りよりは細い道を宮殿の方角に向かって歩く格好になる二人。
「リシュさんと一緒になるつもりですか?」
アンシが言った。表情は見えないが、声は清々としている。
アレスは答えない。
「あなたは他人と一緒にいるのが怖いのでしょう。そのくせ他人を求めている」
「寂しがりの子どもみたいな言い方やめてくれない」
「でも、事実でしょう?」
「…………」
「まだ、あのことを気にしているのですか?」
アンシの声は辺りをはばかるかのように小さくなった。
微風が吹き、街路樹がさわさわと葉ずれの音を奏でた。
アレスは無言で歩いた。
アンシはフードを取って、緋色の髪を溢れさせるようにすると、アレスの横顔を見つめた。
アレスはアンシに目を向けると、フードに手を伸ばして、彼女の顔を隠した。あまり見つめられたくない顔をしているだろうということが、自分で分かったからである。
「あなたの責任ではありませんよ」
アンシはフードの中からそっと言ったが、アレスは口を開かなかった。
それから宮殿に戻るまでの間、アレスはずっと無言だった。口を開けば、気持ちの堰が切れてしまうような気がしたからである。