第190話「宰相の席」
「あー、えーと、何コレ?」
アレスは、依然として腕を組んだまま、ビッと片手の人差し指を伸ばした。伸ばした先にあるのは異形のモノである。大きさは子どもくらい。形も子どもに似ている。背はアレスの半分ほどしかなく、小さな手足が伸びている。しかし、とてもよしよしと頭を撫でてやる気にはならない。なにせ人ではない。その全身は茶色く、頭部には大きな目が一つだけついている。鼻や口は無い。
「とりあえず、味方ではありませんね」
アンシの声が離れたところから聞こえてくる。脇に避難したのだ。なかなか素早い行動である。そうして的確な行動でもある。特に仲間を置いて自分だけ逃げるところが素晴らしいと、アレスは思った。
「あのさあ、オレは別にあんたと戦うつもりなんかないんだけど」
いまだ腕を組んだままでいるのは、男の意地というものであり、またこちらに敵意が無いことをアピールするためでもある。アレスは、そのままの状態で一歩下がった。土から作られたモンスターは、ボコボコボコと次々に生まれて、今や十体程度になっている。十個の不気味な目に見られて、アレスはたじろいだ。
「失礼ですが、あなたは?」と女。
「アレス。王女の古なじみ」
周囲を気にしながらアレスが答える。
「この国を救った英雄と同じ名ですね」
「だからよく誤解されて困ってる。アンシが嫌いか?」
「好き嫌いではありません。わたしは殿下のことを信用していない。信用に足ることをしていないから」
「クヌプスの乱のとき国を救うため先頭に立った。それで不服か?」
「周囲から偶像として担ぎ出されたというのが実態でしょう。それは、何をしたことにもなりません」
女はいくら何でも遠慮がなさ過ぎる物言いである。アレスはちょっとムッとした。仮に彼女の言う通りだったとしても努めたことに変わりはないわけであって、しかもアレスは、アンシが単なる魔王打倒の旗印以上の働きをしたことを知っているのである。それなのに、大した働きをしたわけじゃないなんていうのは、じゃあ、逆に訊くと、「あんたはそのとき何をしてたんだ」ということになる。
「何もしていませんでした。何せわたしはクヌプスを応援していましたので。大抵の国民と同じように」
王女の前でしゃあしゃあと言ってのける女。もはやいい度胸と言うよりも、心のどこかが不感症なのかもしれない。
アレスは、周囲にいる土人間たちを見回した。
「コレはあんたの魔法か?」
「わたしは魔法は使えません」
「じゃあ、誰の? 自動的に発動したりするヤツか?」
「家の中に仲間がおります」
「なるほど。で、この気持ちの悪いヤツラは何ができるの?」
「大したことは何も。ただ、あなたと殿下を追い払うことはできると思います」
アレスは、少し離れた場所でこちらのやり取りを窺っているアンシに目を向けた。アンシは親指をグッと立てて、「ゴー、アレス」という意を伝えてきた。「ゴー」と言われても、アレスは紳士である。女性にむやみと暴力を振るったりすることなどできない。
「王宮に来る気はないのか?」
「今のところ、ありません」
「今のところってのは?」
「先に申し上げた通りです。殿下がヴァレンスの民の為になるお方であれば、ご協力いたします」
随分と上からの言い方である。さっきは謙遜していたが、それなりの自信はあるようだ。
「何をすれば、民の為になる?」
「それが分からないような方ならば、どのみちお仕えすることはできません」
とりつくしまもないとはこのことだろう。
アレスは、腕を解いた。女は警戒するような目をしたが、アレスには攻撃の意志などなかった。
「もしあんたが民の為にしたいことがあるなら、自分の力でそれを為すことができるかどうかまず考えるべきだろう。アンシがどうこうじゃない。ていうか、アンシを操って自分の理想の政治をするくらいの気概がなくてどうする。大軍師の弟子ってのはハッタリか?」
アレスは言いたいことだけ言ってしまうと、くるりと背を向けた。彼女に乱暴を働く気は無かったし、かといって土のモンスターと戦う気もなかった。運動をするなら、オソの稽古をつけていたほうがよっぽど楽しい。
アンシの元に行くと、意外なことに彼女は怒っていないようであった。
「仕方ないですね、帰りましょう」
まったく執着を見せずにあっさりと言う。
アレスは拍子抜けした。「いいのか?」
「来たくないというし、かと言って、あなたは力づくが嫌だと言うわけですから、どうしようもありません」
どうしようもないことをどうにかしてしまうのが、このアンシという少女のバイタリティである。こういう物分かりの良さは、アンシに似つかわしくない。
「まあまあ、いいじゃありませんか」
「いや、オレはいいけどさ」
「じゃあ、参りましょう」
そう言うとアンシは、女に向かって軽く頭を下げて、そのあとアレスの手を取った。
唐突に話題からはじき出された女は呆然としている。
アレスは、このまま土人間と戦闘しないで済むように、足早にアンシの手を引いた。