第187話「レティーツィアの行方」
太子は、私兵を持っている。それは太子だけではない。ミナン貴族は法に基づいて、位階に応じた数の兵を持つことが許されている。
「その太子の私兵集団の中に、レティーツィアはいるわ」
ライザは簡単に言った。
「どうすれば連れ出せる?」
アレスは、どういう経緯で彼女がイードリの研究所を出て現在いるところに至ったのか、そういうことには興味が無い。知りたいのは、太子から彼女を取り戻すためにはどうすれば良いかということだけである。いや、実はそれさえもそんなに興味があるわけではない。アレスが本当に必要な情報は、現在、彼女がどこにいるのか、というそのことだけである。
「太子の私兵集団を束ねる男にギュウセイという者がいるわ。その男の屋敷にいる」
「二週間だ」
アレスはいきなり言った。
「何のこと?」
「アンシ殿下が戴冠なさるまでの間なら、ルジェの護衛を引き受ける。オレがいないときは、ズーマがつく。……覚えてるか? オレの相棒」
「銀髪のチョーカッコイイ人。恋人いる?」
「自分で訊け」
「顔はいいけど、腕は確かなの?」
「腕だけは確かだ」
「決まりね」
アレスは、戸の近くから再びテーブルについた。早速今日からここで寝泊まりさせてもらう旨を告げると、ルジェは心苦しそうな顔をしたが、ターニャはがっかりしたような顔を何とか隠そうと必死の様子だった。ターニャは現在この部屋でルジェと起居を共にしている。そこへアレスが来る。折角の愛の巣に迷い込んできたお邪魔虫という趣。敵意を向けられないだけマシだとアレスは思った。敵意は売るほどもらっているのだ。もうそうそうは必要ない。
「では、わたしはこれで失礼します、殿下」
ライザは膝を折ると、優雅に頭を下げ、すっと立ち上がった。
翻したマントに、アレスはぞんざいな声をかけた。
「二つ、言っておく」
ライザは立ち止まった。
「まず一つ目。オレを引き入れることで、アンシ殿下を引きこもうとしているのなら、当てが外れたな。殿下はオレの個人的なことなんかに頓着なさる方じゃない。オレがルジェを助けても、アンシ殿下はそのオレをバックアップしたり、特別にルジェに力を貸したりなんかしない」
そこで、いったん言葉を切ったアレスは、
「ただ、特別じゃないことであればちゃんとやる。あんたはオレにルジェの護衛を頼んだが、この部屋はそんな必要が無いほど、しっかりと守られている」
言った。
「二つ目」
ライザは、背でアレスの言葉を待っている。
「まさかやらないとは思うけど、エリシュカには会うなよ」
その声は穏やかではあるが、反論を許さないきっぱりとした強さを持っている。
いや、それだけではない。
ライザは、今すぐ振り向いて構えを取りたくなった。
声とともに、ぞっとするような圧迫感を感じたのである。
やはりこの少年は只者ではない。
ライザは振り向かないまま、大きく首をうなずかせた。
諜報部員が部屋を出ていったあと、ルジェは立ち上がって、アレスに頭を下げた。
「またあなたにご迷惑をおかけするようです」
「二週間一緒にいるだけだ。別に大した迷惑じゃない」
頭を上げたルジェは唇をキュッと引き結んでいた。自分の立場が歯がゆいのだろう、とアレスは推測した。兄のせいで国を追われ、自由を奪われた生活をしている。それがどのくらいの辛さかアレスには分からないが、しかしそれは、今日生きていくのに精一杯であるヴァレンスの貧民たちの悩みと比べればどうか。それを思えば、ルジェはもっと悩んだ方が良い。まだまだ悩み足りないとさえ言えよう。そうして、もし自分の悩みに汲々とするのみで、他人の悩みに思いを致せないようであれば、その高も知れるというものである。それでは太子と大差ない。
ルジェはテーブルにつくと、そばにあった大部の書物を取り、開くと静かに読み始めた。
そうして、その静けさは一週間ほど続いた。
平和な時間である。
十分な食事と睡眠、オソに剣の稽古をつける軽い運動、たまに呪文の勉強。それをひたすらに繰り返す日々である。満ち足りた生活だなあ、とアレスは思った。これで、隣に可愛い女の子でもいてくれたら言うこと無いと思ってきょろきょろ見回してみたが、目に入ったのは、ルジェを兄の如く慕っているターニャと、オソの気を引こうと躍起になっているミラーナだけだった。そうして、ルジェとオソはそれぞれの女の子の相手をしなければならないので、アレスといえばズーマしか話し相手がいないのだった。
「昔の仲間に会いに行かないのか?」
ズーマが言った。ルジェの部屋の中である。
「会ってどうするんだよ。パーティでも開くのか?」
「それは好きにすればいいがな」
「別に会いたいヤツがいるわけじゃなし」
本心である。仲間に会って一年前の思い出話でもすれば良いのだろうか。アホらしい。思い出などにアレスは興味が無い。アレスは前向きな男の子である。その前向きさたるや、前を向き過ぎて足元がおろそかになる、ということもよくあるほど。
「会いたければ、逆にオレに会いにくればいい」
アンシの訪問を得たのは、その言葉が終わるか終わらないかのうちのことだった。