第184話「ライザ、語る」
アレスは物覚えが悪い方ではない。剣でも知識でも割と良く覚える方だ。しかし、人の顔や名前を覚えるのは不得手である。覚えられない。これはなかなかバツが悪いものだ。親しげに前から「よお」と手を挙げられても、後ろからガバリと抱きつかれても、反応ができない。そんなとき相手は、初めのうちは、「久しぶりだから思い出せないのだろう。よしよし、少し待っててやるか」といった感じで鷹揚に構えていてくれるのだが、そのうちに、「どうしてオレのことが思い出せないんだ、このヤロウ」といった感じで怒り出してくる。まるで、覚えていないことが罪ででもあるかのように、イライラオーラで糾弾してくるのである。
「しかし、覚えていないものは覚えていないんです」
アレスは正直なところを口にした。
女はムッとしたようではなかったが、ちょっとがっかりしたような顔をした。二十代の半ばほどの年だろうか。肌の露出度が高いちょっと目のやり場に困るような服装でゴージャスな体のラインを強調して見せており、背にはマントを羽織っていた。エネルギッシュな美女という趣。
「アレス、呼びつけてすみません」
女のすぐそばにルジェがおり、彼はテーブルについていた。その後ろに控えるように、アレスを部屋に連れてきたターニャが、立った。ちょっと不機嫌そうに眉をひそめているのは、自分の慕う人間の近くに綺麗な女性がいることが気に食わないのだろう。
アレスはルジェの真向かいに座ると、「いいさ、大事な用件なんだろ」と言ってから、
「それで、姐さんは、どこのどなた様?」
美女に声をかけた。
「ホントーに覚えてないの?」
「すいませんっした!」
「……本当に?」
「いや、どっかで会ったような記憶はあるんですけど……」
アレスは言葉を濁した。
女は、小首をかしげて金色の髪を揺らすと、
「覚えてないなら覚えてない方がいいかもしれないわ。今日ここで初めて会ったっていうことにしてもらえる?」
おかしなことを言ってきた。それではまるであまり良くない出会いだったような言い方ではないか。
「その通り」
「気になるなあ。どんな出会いだったの?」
「聞きたい?」
「是非」
「それは夕闇せまる頃、川岸の土手でわたしたちは出会いました」
「なかなかロマンチックだなあ」
「二人はすぐにお互いが普通ではないことを悟り――」
「へえ、互いが互いにとって特別だと思ったってこと? オレ多分、十歳くらい年下だけどいいのかなあ」
「殺し合いを始めたの」
「ええっ!」
「それは凄惨を極める死闘だったわ。わたしは持てる暗殺術の全てをつぎ込んであなたを殺そうとしたのだけれど、あなたは殺されてくれなかった。どころか、わたしを殺そうとしてきたのよ」
「いや、そりゃ、殺されかけたら、いくら温厚なオレでもそうなるよ」
「わたしは不利を悟ったわ。このままじゃマズイ。そして逃げることにしたの。どうにか、あなたの魔の手から逃げ延びたわたしには一つ悟ったことがあった。もう絶対にあなたには近づかない、と」
そう言って、女は、「さあどう?」と言わんばかりに、手を広げた。
「全く分からない」
「じゃあ、イードリでリシュをめぐって争った女だって言ったら分かる?」
アレスはようやく思い出した。そう言えば、エリシュカと一番初めに会ったとき、彼女は山賊団に追われており、そいつらを片付けたあとに、怪しげな女と戦ったのであった。それが彼女か。
「確か、クリスティーナだったよな」
「誰ソレ! わたしはライザよ。ライザ・ロエル。あのときは名乗ってなかったと思うわ、多分」
「何やってる人?」
「ミナン諜報部に属してるわ」
アレスは、女の名前を何度か口ずさんだ。
「そんなに特別な名前というわけでもないけど」
自分の名前を連呼する少年に、女は少し戸惑ったような顔をした。
「……ライザ?」
どこかで聞いたことのある名前だった。なにやら不快なイメージがある名である。ちょっと考えると、今度はすぐに思い出した。確かその名は、エリシュカに良からぬことをイロイロと教えている人物のものであった。
「エリシュカが可愛くなくなったのは、あんたのせいだな。そうすると、オレの亭主関白という夢をぶち壊してくれたのもあんただってことになる」
「勇者って何かを人のせいにするの?」
「責任を取ってくれと言ってる」
「もう無理でしょ」
「無理なもんか。これからエリシュカに会って、そのとき、『何でもアレスの言うことに従うように』とかなんとか適当に吹き込んでくれればいい」
「ムチャクチャ」
「それが勇者のやり方だ」
アレスとライザの実り薄そうなやり取りをストップするため、ルジェが咳ばらいをした。放っておくと際限なくおしゃべりが続いていくような気がしたのである。
「ライザ殿。ボクに話してくれたことをそっくりそのままアレスにも話してください」
ルジェが丁寧な口調で言った。
ライザは、分かりました、と言ってから、ミナンの現状について話し始めた。