第183話「ライザ、再び」
ゆっくりと眠ったアレスは体力を十分に回復し、朝目覚めたあと、その一部を朝食作りと後片付けとグラジナの白眼視に耐えるために使ったのち、御者台で鞭をふるった。
爽やかな一日である。薄い雲の隙間から太陽が顔を出したり引っ込めたりしており、光と影が交互に差す中を、馬車は軽快に走った。
正午ごろ、宮殿に到着。アレスはほっと吐息をもらした。これで、ようやく針の筵から解放されるというものだ。アレスは、エリシュカのことを懐かしく思い出した。今思えば彼女は、時にイライラを与えてくれることはあっても、たいていの場合は安らぎを与えてくれる子だった。対して、王女殿下とその忠実な女官、チビ巫女の三人には全くそういう気配が無い。およそ人をリラックスさせることとは無縁の気質である。
アレスは、エリシュカに会いたいなあ、と自然な気持ちで思った。ヤナでも良い。でなければ、とにかく気持ちをほぐしてくれるような子に会いたい。できれば女の子が良い。大体にして、どうしてこんなストレスフルな生活を送らなければならないのか。それに想到したとたん、アレスは、腹が立つのを覚えた。魔王を倒した後であるにも関わらず、ひょっとするとその時以上に精神的に圧迫されているのはなぜか。
「断固、オレへの待遇の改善を要求する!」
アレスは、宮中の自分の部屋に戻ると、どん、と拳をテーブルに叩きつけた。
「お帰りなさい、アレス。お怪我ありませんか?」
オソがホッとしたような顔で言う。アレスはつくづく彼が女の子でないのを残念に思った。
「もしオソが女の子だったら、この場でお付き合いをお願いするね」
こんなことを言っても気持ち悪げな顔をしないのだから、いいヤツである。
オソの目は、アレスの後ろに控えるようにしている少女に向けられた。
アレスは、ミラーナを紹介した。
「神器の洞窟の管理人だ。訳あって、宮中に来た。その訳は聞くなよ。トップシークレットだからな。まさか、神器を守る巫女が物見遊山のために都に来たなんてことは死んでも言えない」
ミラーナはとことこと歩いてくると、オソの前で止まり、じいっと彼を見上げるようにしていた。オソが慌てて自己紹介しても、まったく無視である。アレスは、困ったように向けられたオソの視線に対して、肩をすくめてみせた。そうして、彼女とのファーストコンタクトを思い出して、オソに内心でエールを送った。年下の女の子からひどいことを言われるのも良い修行になる。ガンバレ、オソ!
「あの……わたくし、ミラーナと申します。十一歳です。今は巫女見習いですが、将来は立派な魔導士になりたいと思っています。趣味は読書とお裁縫。好きなものはクリームパイ。好きな色は緑。現在、恋人募集中です……やだ、わたくしったら、初めて会ったかたにそんなことまで」
ミラーナは両手で頬を押さえるようにすると、小さな体をくねらせてから、上目遣いでオソを見上げた。オソはどう反応すれば良いのか分からないながら、よろしくお願いします、とペコリと頭を下げた。
「わたくしのことはミラーナとそのままお呼びください、オソ様。神器の巫女なんていってもただの雇われですから。全然偉くなんか無いんです。そして、わたくしは常々身分なんかくだらないと思ってます。そういう進歩した女性なんです。そもそも愛があれば身分差なんて……え、オソ様はミナンの貴族の出でいらっしゃるんですか? ステキ! ええ、もちろん、オソ様の身分なんてわたくしは全く気にしていませんけれど、でもやっぱり生活していくにはある程度はお金があった方がいいでしょうし、暮らすって色々と大変なものですから――」
矢継ぎ早に話し続けるミラーナに、オソは礼儀正しく相槌を打っている。
アレスは、もしもミラーナの髪がポニーテールなり三つ編みなりになっていたら、それをギュッと引っ張ってやれたのに、と残念に思った。それから、かなりの二重人格ぶりを見せる少女に気に入られたオソを気の毒に思うとともに、今のところパーティの中で唯一自分を癒してくれる存在を独占できなくなるのではないかという恐れを抱いた。
「て言っても、オレのじゃないけどな」
部屋を出たアレスは、ルジェに顔を見せに行った。ターニャを隣にしてテーブルについていたルジェは少し痩せたように見えた。亡命生活のストレスのせいだろうか。たったの二週間でコレだと、仮にこの生活が一年続いたりした場合、どうなってしまうのだろうか。
「ルジェもちょっと運動してみるか?」
「いえ、ボクは結構です」
アレスは床に積まれた立派な装丁の本を見た。
「今は読書がしたいんです。色々知りたいことがあって。それにしても、殿下は寛大な方ですね。他国の人間にこれほど大っぴらに自国の書物を見せてくださるなんて」
その声の喜色に、どうやら彼の憔悴ぶりはストレスというわけでは無いらしい、とアレスは考えた。
それから二日が経ったあとのことである。
アレスは、ターニャに呼ばれて、ルジェの部屋へと導かれた。オソも呼ぼうかと思ったが、呼ばれているのはアレスだけである上、オソはミラーナに捕まっていた。
「お召しにより参上しましたー」
アレスの冗談めかした声の先に、見慣れない、いやどこかで見たような女の立ち姿があった。
「久しぶりね、勇者くん」
女は丹念にルージェを引いた唇に楽しそうな笑みを乗せた。