第182話「女王への道」
しばらく二人の影は月光の下にあった。冴えた月である。
「……だから、来なくてもいいと断りました」
どこか言い訳めかしたようなアンシの口調である。
アレスは出発時に、「嫌なら来なくていい」と言われていたことを思い出した。あのとき覚えた不吉な予感は、確かに現実のものになってここにある。
「わたくしのことを軽蔑しましたか?」
サラリと出した言葉に、アレスは答えようがない。人を殺す人間は基本的に嫌いである。ただ、それだけなのだ。
「わたくしはこれから無数の人を殺します」
剣呑極まる宣言を行うにしてはいかにも清らかな口調であって、アレスは一瞬、彼女が何を言っているのか分からないほどだった。
アンシはアレスの正面に立った。
「ですから、アレス、もしそれがお嫌なら、今わたくしを殺すことも可能ですよ」
そう言って、彼女は答えを待つかのように、口を閉じた。
アレスは、ヴァレンス王女のほっぺたを引っ張ったりしたらどのくらいの罪に問われるのだろうか、と考えた。考えてそうして、「見つからなければ、別に大丈夫だろう」という結論に達した。アレスは手を伸ばして、アンシの頬に触れた。冷ややかでなめらかな感触である。それから、ちょっと力を入れてつねってみた。少しの間そうしていたあとアレスは手を放した。
「去りたかったら、王宮を去っても構いません」アンシが言う。
「二週間後の戴冠式まではいるよ。そう約束したろ」
「……アレス」
「なんだよ?」
「わたくしはヴァレンスの主になりたいのです」
「もうすぐなれるだろ」
「王冠を戴けば誰でも王でしょうか」
「違うのか?」
「違います。少なくともわたくしの目指す王とは、冠をかぶれば誰もがなれるようなものではありません。真の王です。しかし、そのために多くの血が流れるでしょう。これは避けられないことです。あなたは不満かもしれませんが」
「オレの不満なんか聞く気はないだろ?」
「はい」
「それでこそアンシだ」
アレスは皮肉な口調で言った。しかし、実際のところ皮肉な気持ちは無い。アンシが何をやろうとしているのか、おぼろげながら見えたような気がしたからである。そうして、彼女の意志をくっきりはっきりと聞く気は無かった。というのは、事情を聞いたところで、助けられないからである。アレスにはアレスでやるべきことがある。
「ヴァレンスの王になるためには、わたくしにもそれなりの覚悟が必要です」
アンシが言った。そのための先の戦闘だったか、とアレスは納得した。すなわち、アンシはどこか後ろの方で部下に向かって、「殺せ」と命令するだけのような痛々しい存在にはならないつもりだということだ。
アンシは、不意に身を翻すと、客車の中に戻っていった。もう話したいことはないのだろう。アレスにも話したいようなことはなかったので、ちょうど良かった。見上げた月はどこまでも明るい。
翌日、城門を見たのは、昼もかなり下った頃のことである。帰り道では盗賊に襲われるようなこともなく、行きよりはリラックスして帰ってくることができた。
「いつ美少年に会えんの?」
ミラーナが御者台で足をぶらぶらさせている。いまさっき王都外壁にある北門を通り過ぎたばかりのことである。もう少しすると日が沈むが、沈むまでちょっとでも宮中に近づくためにギリギリまで走り続けるつもりでアレスはいた。
「王宮についたらだ」
アレスが隣に言う。ミラーナは、アレスに対して含む気持ちが無いようで――もっともそんなもの持っていない方が普通な訳だが――昨日から気楽に話しかけてくる。おそらく王女に話しかけるとグラジナからの注視を受けることも、アレスに話しかけてくる理由の一つではないか。そんなことをアレスは思う。
「ホントーに美少年なんだろーな?」
ミラーナは疑り深い目をした。
「オレから見たらな」
「でたよ! 男から見た美少年なんか信用デキナイ!」
「それを言ったら、女から見た『可愛い女の子』の方がずっとうさんくさいね」
「お前、アンシの何なんだ?」
唐突な話題チェンジは子どもの特権である。
アレスは古い友達だと答えた。
「『大切な人』っていうのは?」
「それは殿下一流の冗談だよ。王女ジョーク」
「ふーん……まあ、そりゃそーだ。だって、つりあわないもん」
くりくりした瞳で言う。
「じゃあ、誰だったら吊り合うんだよ。殿下には?」
「王女には王子だろ。隣国の王子とかが良いんじゃないかな」
再び夜がやってきて、アレスはレディ三人分の食事の用意をさせてもらい、立派な紳士に一歩近づいたのではないかと思って満足した。果たして立派な紳士が野営するのかと言えば、多少怪しいところもあるが、王女が野営しているのである、紳士も野営くらいするだろう。アレスは三人の淑女に恭しく礼をすると、先に休ませてもらう旨伝えて、さっさとテントの中に潜り込んだ。さすがに王都内部であるので、見張りに立つ必要は無い。ここ二日に渡ってあまり寝られていなかったアレスは、その夜ぐっすりと眠った。