第179話「戦闘回避の努力」
テンセイ教とやらがどんな宗教であるのか、聞いたことはあるような気がするが、アレスはよく知らなかった。とはいえ、いくら王女とはいっても未だうら若き女の子を刀のさびにしようとして問題が無い教えなわけだからロクな宗教ではない。アレスは戦場においては元々ほとんど手心というものを加えない男であるが、今回はいつにも増して容赦しないつもりだった。その感情の高ぶりを振るう剣の冴えとなすことができるのがアレスという少年である。アンシに詰め寄っていた男は、自分が何をされたか全く理解できないまま、意識を暗転させることになった。
何が起こったか理解できなかったのは、他の信者たちも同じである。唐突にリーダーが大地に寝転がったことからすると、攻撃を受けたと推測するほか無いわけだが、ターゲットとその仲間たちは誰ひとりとして微動だにしていないように見えた。
まさに目にも止まらぬ速度でアレスは剣を振ったのだった。その剣閃の鋭さは瞠目に値する。間近にいたグラジナやミラーナさえよくは見えなかった。
「……え? いま、斬ったの?」
ミラーナの呆然とした声に、
「……そのようですね」
とグラジナの固い声が答えた。認めるのが癪であるようなそんな言い方である。
二人の少女のオドロキの声を耳にしながら、アレスはすたすたと前に出て行った。その無防備な近づき方は返って男たちを狼狽させたようである。王女を囲む半円が少し外側に膨らんだ。
「リーダーはまだ死んでない」
アレスは静かな声を出した。それに応えるように、小さなざわめきが男たちの間で立つ。
アレスとしては、彼らにこのままリーダーを連れて帰ってもらった方が楽である。無論、彼らを問答無用で斬ることには何のためらいもない上、今はテンションが上がっているのでよっぽどそうしてやっても構わないのだが、感情で剣を振るような愚かさをアレスは持ち合わせていない。
「ただし、今すぐ武器を下ろさないと死ぬことになる。王女の隣にいる女の子が見えるだろ。あの子は超凶悪だからな。いっつも胸元にナイフを忍ばせている。そうして、王女に対する忠誠心は人一倍だ。オレなんか何にもしてないのに王女の知り合いだってだけで刺されそうになった。まして王女を脅迫したあんたらのリーダーは絶対に刺されるだろうな。間違いないね」
でも今ならまだ間に合う、と続けて、このまま素直に引き返すかどうか、アレスは回答の時間を少し取ってやった。リーダーの身など何とも思わないのであれば、彼らは脅迫を続行し、その脅迫が跳ね飛ばされたわけだから、襲撃に移るだろう。狂信者であればそうするだろうし、そこまで狂信的でない普通の信者であっても、同志の命より使命を重視するかもしれない。
提案を呑むにしろ呑まないにしろ、それはどちらでも構わない。迷えば迷うほど、それは向こうの虚となる。虚が大きくなれば戦いへ向かう気が衰える。そうすれば戦わない場合は格別、戦うにしろずっとやりやすくなるのである。戦いとは力や技の前に、まず気の勝負であるということをアレスは昔、嫌というほど教わったのだった。
どうやらアレスの提案通りにしようということになったようである。ヒソヒソと言葉を交わした男たちのうちのひとりが代表して、リーダー受け取り係に立候補してきた。アレスは王女のそばまで下がると、三人の少女を信者リーダーから離れさせた。グラジナだけが、「リーダー面してんじゃねーよ」的なちょっと納得の行かない目をしていたが、三人とも素直に従ってくれた。
リーダー受け取り係は武器をおさめると、ぐったりしているリーダーの元へ寄って本当に生きていることを確認した上で、その両脇の下に腕を入れて、ずりずり引きずり始めた。すぐにもう一人がついて、リーダーを引っ張る力は二倍になる。リーダーは足を引きずられたあとを地面に残しながら、仲間の元へと帰った。
「安心しろ。一日くらい経ったら目は覚める」
アレスはちょっとしたサービスを行った。戦わずに済んでエネルギー消費を抑えることができた礼である。
男たちは感謝の言葉を述べたりすることはもちろんなく、おもむろに立ち去ろうとした。
そんなときである。
アレスの近くから、澄んだ軽やかな声が聞こえてきた。その声が紡ぐのは、聞き慣れない言葉である。それが古代語であると気がつくのと、それを唱えているのがアンシであるということに気がつくのと、そうして唱えることによって彼女が何をしようと思っているのかを理解したのはほぼ同時のできごとだった。
振り向いたアレスの目の前に、アンシの姿がある。彼女の周りを小さな光の円のようなものが幾つも幾つも浮いていた。円の真中には、今はもう使われない古の魔法文字が浮かんでいる。
「どういうつもりだ、アンシ!」
アレスの叫び声は答えを得なかった。
王女のたおやかな手が、戸惑いの表情を浮かべているテンセイ教信者たちに向けられる。
光の円から、魔法の光弾が発射されたのは一瞬後のことだった。