第175話「枯骨の山へ」
問題の山まで到達するには、休憩と睡眠を含めて丸一日かかった。昼過ぎに城を出発したので、着いたのは翌日の昼ごろである。一体どんなおどろおどろしいことが待ち受けているのだろうか、と気を引き締めていたアレスだったが、大したことは無かった。盗賊団に一度襲われたくらいのものである。その際、同行しているグラジナにアレスは、ひとつその魔法で賊を追っ払ってくれるよう水を向けてみたのだが、
「わたしは補助魔法専門なので」
ときっぱりとした声が返ってきただけだった。補助魔法とは、戦闘の補助をする魔法を指し、戦っている者の力やスピードをアップしたり、敵の呪文を防ぐ魔法のバリアを作ったり、もちろんそれはそれで役に立つ話ではあるがあんまり目立ったものではないし、そもそもそれでどうやって王女を守るつもりなのかと訊きたくなったアレスが実際に思いを口に出したところ、
「かけましょうか? パワーアップの呪文を」
平然とした声が返ってきた。もう納得である。よく分かった。自分の手は汚さず、誰かに補助魔法をかけて王女を守らせようとはいかにも女の子らしい発想だとアレスは思った。折角の申し出ではあったが、アレスは首を横に振った。呪文にはどんなに程度の軽いものであれ副作用がある。一時的なスーパーパワーが得られても、そのあとの行動に支障が出るようでは意味が無い。
アレスはいつも通りの光の剣で、二十名くらいの賊を適当に斬った。過半数を斬ると、数の利を頼んでも意味がないことが分かったらしく、残りは仲間を置いて散り散りになって逃げて行った。
「竜勇士団は何をしているんです?」
王都付近パトロール隊のそのずさんな仕事ぶりにアレスは文句を言った。
「彼らはよくやってくれていますよ」
それがアンシの答えである。よくやっていないからこそ自分が働かなければならない羽目に陥っている身としては納得の行かないところであるが、グラジナの前であるので、あんまり強くも言えない。というか、王女殿下にもの申す時点で相当頭に来ていることだろう。グラジナの目はカッと大きく見開かれて、その中に炎が立っていた。怒りの炎ではなく恋の炎を燃やして自分を見てくれる女の子が現れんもんかと、アレスは思った。
青々とした空にのっぺりとした雲が寝転がっている。
山の登り口前で、馬車は停まった。道は幅が広く整備されているので馬車で登っていけそうであるが、ここから先、神器がおさめられた洞窟までは歩いていくのがしきたりであるという。
「洞窟に行くまでに心を空にし、大地の神をこの身に降ろすようにするのです」
そうアンシは説明すると、先に立って歩き出した。
その後につきながらアレスが訊く。
「ところで、コレは儀式の一つなんですよね?」
「そうです。戴冠の儀の一部と言っても過言ではありません」
「じゃあ、どうして、誰もいないんです? 儀式であれば、もっと人がいるのが普通のような気がしますが」
こんな寂しい儀式は見たことがない。
「これは、王というものが究極的には一人である、ということを肝に銘じるための儀式です。王はその一身に国の全責任を負っています。誰にも言い訳ができる立場ではない。それを感じるために、洞窟の中で一人になり、孤独を知るのです。その本来からすれば一人でここに来るべきなのでしょうけれど、四人まで従者をつけることが許されています。四は、初代ヴァレンス王がこの枯骨の山で、神器である鉞を見つけたときに連れていた仲間の数です。何でも何代目かの王を継ぐはずの王位継承者がひとりでこの山に来て不慮の事故にあったとか。それ以来従者をつけることが許されるようになったそうです」
アンシが滔々と述べた。
「枯骨の山」は、その名前とは裏腹に、緑の多い豊かな山だった。さわさわと梢が揺れる音に、虫の鳴き声が和す。空から降る光はあくまで清々としており、のどやかな雰囲気である。
アレスは残してきた二人のことを想った。ズーマはともかくとしても、オソは残念がっているだろう。どうも彼は王女というものにひとかたならぬ憧憬の念を持っているようで、自分が王子の連れだということを忘れている向きがある。アレスとしては、オソをあんまりアンシに近付けたくないので、今回は連れてこなくて良かったと思っている。もしかしたら、後から恨み事を言われるかもしれないが、そのときはそのとき、受け止めてやるほかない。
「もうすぐです」
アンシが言う。
オソつながりである。アレスはルジェのことにも思いを致した。この二週間というもの部屋に籠り、終日読書をしているようである。動きようがないときは動かない方が良いことを知っている。そうして、いざ動くときのためにエネルギーを溜めているのだろう。それがいつのことになるかは定かではないが、その時のために準備をしておくのが君子というものである。
「着きました」
アンシが、すなわち一行が立ちどまったその前に、ぽっかりと口を開いた洞窟がある。