間の話7「エリシュカの平和な生活」
明るい空の下、ピヨピヨと鳥の鳴く、穏やかな昼下がり。
そんな平和な雰囲気にそぐわない濃密なプレッシャーをまともに浴びたエリシュカは、ここ二週間である程度慣れたとはいえ、やはり背筋が寒くなるのを覚えた。目前にいるのは人ならざるモノである。と言っても、角の生えた一つ目の怪物であるとか、十二本の腕と四本の足を持つ化け物であるとか、そういう類のものではない。むしろ、そんな気持ち悪げなものとは真逆である。たおやかな細身の乙女。エリシュカは男の子ではないので、断言はできないが、おそらく美人に属する人だろう。
「さ、どうしたのです、リシュ。打ちこんで来なさい」
美人が言う。日の光に、淡い金色のショートカットがキラキラ輝いている。
エリシュカは、じり、と半歩、いや四分の一歩、踏み込んだ。手にするは、バンブス刀。植物から作られた練習用の摸造刀だ。同じものを、女性も持っている。エリシュカが両手でしっかりと柄を握って、その刀の先を相手に注意深く向けているのに対して、女性の方は片手、しかも刀の先を地面に向けている。余裕の構えである。というか、構えてない。
「思いきり来なさい」
女性が誘うように言う。エリシュカは踏み込んだ。
バンブス刀は中空に綺麗な弧を描いて、女性の頭に向かった。なかなかの一撃である。凡百の剣士であれば、なすすべなくデコをかち割られていただろう。しかし、エリシュカの刀は、相手の刀に見事に受け止められた。そのあと、さらりと受け流されて、エリシュカは持っている刀に振り回される格好でたたらを踏んだ。
ぞっとするような気配を感じ、慌てて刀を盾にしたところ、そこに向かってまるで猛獣の一撃ででもあるかのような鋭く重たい剣撃が加えられた。反射的に跳んだエリシュカだが、エネルギーを受け流しきれず、地面に膝をついた。
「すぐ立ちなさい」
静かな女性の声。
エリシュカは素直に立ち上がった。それから剣を構え、もう一度向かっていったところ、今度は、繰り出した剣を連続してかわされることとなった。手ごたえを得ない剣を振るつまらなさ。当たったと思ったらまた相手の剣に受け止められている。二本のバンブス刀が十字を描く。
「ここまでにしましょうか。おやつにしましょう」
女性は微笑して言うと、バンブス刀をおさめた。
エリシュカは、本心ではもう少し続けたかったのだが、わがままは言わなかった。
二人がいるのは家の庭先である。
家の中に導くようにする女性のあとにエリシュカは続いた。おやつも魅力的だった。
アレスと別れて二週間が経っていた。
この二週間は非常に規則正しい生活を送っていた。朝早く起床、そのまま剣術の稽古、朝食、また剣術の稽古、昼食、またまた剣術の稽古、おやつ、古代語のお勉強、夕食、自由時間、早めの就寝。この繰り返される毎日が嫌にならないのはエリシュカの順応性というより、この生活を強制している人への尊崇の念のせいである。
「初めてアレスとあったのは今から二年前のことです。ちょうどあなたと同い年のときですね、リシュ。そのときからあの子は相当強かったですよ。リシュはあの子より素質がありますから、もっと強くなれますよ」
家の主代行である先の女性、フィオナがエリシュカが初めて来た日に言った言葉である。これを聞いたとき、エリシュカの中にむんとやる気が起こった。アレスよりも強くなれるということはいつでも彼をとっちめることができるということだ。魅力的! そうして、エリシュカの方がアレスよりも強くなる、と言うことができるということは、フィオナはアレスよりもずっと強いということである。尊敬!
その日から早速トレーニングは始まって、フィオナは優しい顔立ちをしなばら結構厳しいことを要求してくる人であったが、その厳しさは心からエリシュカを強くしてやりたいという気持の裏返しであり、不快なものは感じなかった。むしろ心地よいものを覚えていた。
家の中ではヤナが焼き菓子を用意して待ってくれていた。ちなみにヤナは剣のトレーニングには参加していない。フィオナは、ヤナにもただならぬ何かを感じて剣を勧めたのだが、
「いや、あたしは剣には興味ないから」
と言って断られた。
「剣は乙女のたしなみですよ」
フィオナはなおも勧めたのだが、
「あたしは男の子に守ってもらいたいんです。自分で自分を守るのではなくて」
という乙女の正道を主張されて、ショックを受けたようだった。
「どうだった、リシュ?」
まずフィオナのカップに茶を注いでから、エリシュカのカップに淹れてやりながら、ヤナが訊いた。
「また負けた」
焼き菓子を頬張りながら、くぐもった声で言うエリシュカ。
しかし、悔しさは無い。フィオナと打ち合っていると、自分の中から無駄なところがそぎ落とされていくような感覚を覚えて、剣が洗練されていくような感覚を覚える。この短い期間に、確実に強くなっているのが分かるのだから、フィオナは大した教え上手である。剣の稽古だけではない。ここでの生活は楽しいものだった。フィオナともヤナとも良く話をした。ヤナからは料理も学んでいる。
その楽しさを与えてくれた少年のことを、エリシュカはたまに考える。いや、実はたまにどころか、いつも考えている。いつも考えていると思うのは癪なので、たまにということにしているのである。彼は元気でやっているだろうか。別れてから全く音沙汰がない。連絡が無いということは相変わらずの調子でやっているに違いない。目下、一番心配なのが浮気であるが、これはもうここで心配していても始まらないので、エリシュカは自分に今できることに集中することにしていた。すなわち剣の稽古である。浮気が発覚した時に、きっと役に立つことだろう。