第157話「エリシュカの決心」
エリシュカの拳は鋭く、そして重かった。最近、ちょこちょことヤナの手ほどきを受けているせいで以前よりもなお強い。
アレスは頬のあたりに向かってきたそれを、どうにか手の平で受け止めて、二歳年上であることの威厳を守った。しかし、受け止めた手の平はしびれている。この分だといつまで受け止め切れるか自信は無い。それにしても、エリシュカの才。アレスは、剣専門であるとはいえ、近接格闘の訓練もそれなりに積んでいる。それを安々と追い越そうとするのだから、きっとエリシュカは戦いの神かなんかに愛されているのだろう。どうせなら、もっとカワユイものに愛されればいいのに、とアレスは思った。
「笑ってみろ、エリシュカ」
アレスはつかんでいた拳を放して言った。
「キミはいつもこう眉根を寄せて、むずかしげな顔してるから、変な神に気に入られちゃんだよ。ふわあっとさ、花が開くような笑いかたをする女の子には、きっといいことがある」
「そんなことより、わたしがここを出るってどういうこと?」
「何だよ。できないのか?」
エリシュカはムッとしたようだった。隣からヤナが、「乗るな、リシュ。アレスの手だ。さっきの話をうやむやにしようとしてる」と注意を与えたが、エリシュカは手を上げてそれを遮った。それから、アレスに向かって、「これでいいの?」と言って、口角を上げた。
そのままにしていれば生い先の楽しみな可憐な少女の顔に、にやあっというぎこちない作りものの笑顔が現れた。それは激しく悪夢的であり、アレスは一歩飛びのきそうになる自分を押さえるのに最大限の努力を要した。
「どう、アレス?」
「誤解しないでくれよ、エリシュカ」
「努力する」
「オレはもちろん好きだけど、まあ、一般的に言うとキモチ――」
ぞっとするような殺気を感じ、アレスは思わず口を閉じた。ヤナが切れ長の目を吊り上げるようにしているのが見えた。もし先のセリフを言い終わっていたら、彼女に文字通りの意味で吊るし上げられていたことだろう。
「わたしはここを出る。それで、アレスはどうするの?」
エリシュカが綺麗な声を出した。アレスはその声に応じて率直に答えた。
「オレは一月ここに残る。『石』の代わりに、王女と取引した」
エリシュカは腕を組んで、なにやら思案している。やがて一言。「おかしい」
「何が?」
「アレスはそんなことする人じゃない」
「どういうこと?」
「欲しいものは力づくで奪うんでしょ。何で取引なんてしたの?」
「ええっ! オレ、そんなイメージだったの?」
それでは盗賊である。これまで清く正しく美しく、かつ強くユーモアもあるというイメージを前面に打ち出して来たと自負しているアレスは、己のあまりの悪印象に甚大なショックを受けた。
エリシュカは、何を今さら、という顔である。
アレスはヤナを見た。ヤナはうなずいた。「すぐ殴りかかるしなあ」
アレスはオソを見た。オソは、「少しだけそういうところが」と言って、あとは口を濁した。
アレスはルジェを見た。ルジェは視線をそらした。
アレスはターニャを見た。ターニャはあどけない顔で小首を傾げている。
アレスはズーマを見た。見るまでもなかった。
「そんなバカなことがあってたまるか!」
アレスは狂乱気味になって言った。「オレのイメージの作り直しを要求する!」
エリシュカは、アレスの袖を引くと、「それ以上うるさくすると、ひっぱたく」と幼い子どもを言い聞かせようとする母の口調で言った。アレスはすぐに静かになった。新たにアレスには、軟弱者というイメージが加わった。
「怖い人なの?」
エリシュカが言うのはもちろん王女のことである。
アレスはうなずいた。王女の人となりは相当に恐ろしい。しかし、それよりもなお恐ろしいのは、彼女が、現在アレスたちのいるここヴァレンスの為政者であるという事実である。どこかの太子とは違って、けして理不尽なことはしないことは分かってはいたが、やろうと思えばできるのである。アレスにはそれだけで十分だった。
アレスはエリシュカの肩に手を置いた。
「一カ月後に迎えに行くから、それまで待ってて欲しい」
「どこで?」
「オレの知り合いの家」
「一カ月会えないの?」
「いや、そんなことしたら、オレが寂しくて死んじゃうだろ。会いに行くよ、もちろん」
エリシュカはアレスの瞳を見た。そこにはいつものおちゃらけた色はなく、真面目な光がある。
「いつもそうしてたらいいと思う。でも、いっつもそうしてたらアレスじゃない」
「何のことだよ?」
「分かった」
「え……分かったって何が?」
「待ってる」
「じゃあ、ここからオレの知り合いの家に移ってくれるの?」
エリシュカは首をうなずかせたが、それはほんのかすかな動きにしかならなかった。
アレスはヤナを見た。
ヤナは軽く両手を広げるようにした。
「分かってるよ。安心しろ。リシュにはあたしがつく。ただし、本当に一カ月だけだぞ。それを過ぎたら、ここに無理矢理乗り込んででもお前を迎えにくるからな」