第155話「ひとつの旅の終わり」
ズーマの呪文の声が室内に不気味に響く。それはまるで死そのものが出すような響きである。声に応じるようにして、テーブルの上に置かれたサージルスの石が光り始める。さっきまで、ただの石ころだったのが、突如黄金色の輝きで溢れ、眩しいほどである。室内が強い光に染まって、まるで光の海に溺れているよう。
皆の細めた目に、ひとりの少女の姿が映る。驚いたことに、彼女は宙に浮いている。見えないベッドに身を横たえてでもいるかのような様子である。ズーマの声がひときわ大きくなると、少女の胴の辺りをぐるっと囲むように大きな青色の輪が現れる。同じものが、胸の辺りと足の方にも。さらに、輪の円周上に、今はもう使われなくなってしまった古い魔法のことば。
ズーマの呪文の効果によるのか、それとも恐怖からか、少女は目を閉じている。
ズーマの呪文はなおも続く。こんなに長く詠唱しなければいけないということは、やはり大呪文なのだろう。死が決まっている病から救い出すのだから、そんなに簡単にはいかないのだ。そう、簡単ではない。サージルスの石という王家に秘蔵されたアイテム、今はもう使い手のいなくなった秘呪文、そうしてその呪文を使うことができる非常識な男ズーマ。この三つなくしては、死病から救い出すことはできないのだ!
……などというのは、アレスの全くの妄想だった。そんなことは何一つ起こらなかった。
「良し。終わりだ」
ズーマは手にしていた「石」をテーブルに戻した。いましがたエリシュカの額に当てられていた「石」はやはり、路上で子どもに蹴っ飛ばされるくらいがお似合いのたたずまいをしていた。
「え、もう、終わりなの?」
椅子に腰かけていたエリシュカの呆気に取られた言葉は、室内のみなの気持ちを代弁していた。
死病の治療はおそろしいほど簡単に終わった。時間にして、ほんの一分程度のことだろう。アレスとの話し合いから帰ってきたエリシュカを、ズーマは椅子に座らせると、王女の許可を得てから「石」に手をつけた。そのあと、それをエリシュカのおでこに押し当てるようにすると、呪文を唱えた。そのまま、少しの間、「石」をぐりぐりと押し付けていたあと、呪文の終わりを告げたのである。
「おしまいだ、リシュ。もう死病を怖れることは無い」
アレスはできることなら叫び出したかった。これまで結構な苦労をしてようやくたどり着いたクライマックスがこんなもので良いのか。しかし、叫ぶことなどできなかった。というのも、治療など簡単に済めば済んだに越したことはないからだ。
「とはいえ、今かけた呪文には副作用がある。この呪文をかけられた人間に対しては、治療の呪文の効果が低くなるということだ。怪我をしても、治療の呪文でその怪我を治すことは難しい。だから、あまりはしゃぎすぎないことだな」
「分かった」
「他にも、疲れやすくなったり、精神的にいらいらしたりする。副作用が抜けるまでは、おそらく数カ月ほどかかる。とはいえ、普通に生活するには何の問題も無い」
エリシュカは、ぴょんっと椅子から飛び降りると、深々とズーマに向かってお辞儀した。
「ありがとう、ズーマ」
「別に大したことはしていない。礼は無用だ。どうしてもしたければ、そっちのアホ面の男にしろ。アロスにな」
エリシュカは、とことこと歩いて来ると、アレスの前で頭を下げた。いつにない素直なエリシュカの所作にアレスはぎこちなくうなずいた。それから、エリシュカは、他の仲間、ヤナとオソにもしっかりと謝意を表した。
アレスはズーマに近づいた。
「安静にしてなくてもいいのか?」
昨夜王女の話を聞いて、てっきりベッドの生活を予想していたアレスは、拍子抜けした感を注意深く隠しながら尋ねた。
「今言った通りだ。十三歳の女の子として普通に生活するなら問題ない」
「普通っていうのは?」
「恋をしたり、甘いものを食べたり、将来の夢を描いたり、とかそういうことだ。伝説の神剣を探しに行ったり、魔王を倒しにいったりするのは普通じゃない」
「そんな十三歳いるか!」
「まあ、安静にしているのに越したことは無いが、わたしなら、動ける体で何カ月も安静にしていたら退屈で死ぬ自信があるがな」
「お前は何にでも自信があるんだなあ」
「それがお前のような半人前との違いだ」
エリシュカは、隣室のルジェとターニャにも礼を言いたいと言って、部屋を出た。その背を追おうとしたアレスをヤナが手で制して、代わりに出て行った。
「では、わたくしもこれで失礼します」
王女の微笑に、アレスは頭を下げた。下げた頭で満足するような女の子でないことは分かっているし、アレスの方としてもそれで終わらせる気はないのだが、気持ちは気持ちである。素直に頭を下げたい気分だったのだ。
「感謝します、殿下」
頭を上げたアレスに、
「なにお安いご用です」
そう言った王女は、石を小袋に戻すと、さらりと部屋を出た。アレスは王女の後を追わなかった。追う必要は無かったし、他にやるべきことがある。