第150話「宮中での密会」
白昼のルゼリアはまるで死んだような静けさだった。先王の喪中であるので市民が慎んでいるのだろうか。あるいは、一月後に迫る王女の戴冠式をはばかってみな神妙にしているのかもしれない。何にせよ、とても王都とは思えないような落ち着きぶりだった。大通りはそれなりに人はいるものの、喧騒とは無縁である。まるで活気が無い。
「暗いとこだね、ここ」
エリシュカが言う。アレスが事情を話してやると、彼女は、なるほど、とうなずいたあと、
「クリームパイ!」
静かな街路に美声を響かせた。それから、大通りの一角を指差す。そこには、屋台のようなものが軒を連ねており、何人かの客が列を作っていた。
アレスは首を横に振った。
「いや、違うよ、アレは。あれは、『イカス』っていう名前の軽食だからね」
「ううん、あれはクリームパイ。クリームパイだってことにわたしが決めた」
「腹減ってんのか?」
「お昼ごはん食べてない」
「姫が豪華なランチを御馳走してくれるかもしれないぞ」
「してくれないかもしれない」
エリシュカは、食べられるときに食べておくのは戦士の掟である、と真面目くさった顔で言った。
「いつから戦士になったんだよ、お嬢ちゃん」
「生まれたときから」
「生粋だな。ヴァレンスの騎士たちが手玉に取られるわけだ」
アレスはエリシュカにいくらか手渡すと、馬車を降りて買いに行かせた。馬車はゆっくりと路上を走っている。ほとんど人の歩く速度と変わらない。首尾良く「イカス」を手に入れたエリシュカは、たったったっと走って馬車に追いつくと、御者台にぴょんととび乗った。その手から良い匂いが漂ってきている。「イカス」とは、穀物の生地を薄く延ばして鉄板で焼いたものに、キノコや肉などを盛ってピリ辛ソースで仕上げた軽食である。
エリシュカはかぶりついたあと、心底幸せそうな顔をした。
「うまそうだなー」とアレス。
「食べる?」
エリシュカは食べるのを止めて言った。口周りにソースがついている。
「フ、オレを騙そうたってそうはいかないぞ、エリシュカ。そんなこと言って、くれる気なんかないんだろ」
「ほい」
そう言って、エリシュカは自分がかぶりついた口のマークがついているイカスをアレスの前に差し出した。
アレスは、胡乱な目を向けたが、エリシュカは平然とした顔をしている。これは彼女の策略なのか、罠なのか。それとも本当に純粋な好意なのだろうか。確かめるには心を決めるしかない。アレスは、あーんと口を開けてイカスに近づいていった。何と! 問題なく食べられた。イカスのかけらはアレスの口の中に収まった。
ゆっくりと二時間くらい走ったあと、王女の馬車はそのまま宮殿の門へと向かった。驚いたことに、ルジェ王子ご一行を宮殿の中に入れるらしい。宮殿は神聖な場所であって、普通は、王族以外は入れない。他国の要人を泊まらせたりするようなこともなく、そのための施設は宮中の外にある。ルジェを宮中でもてなすということは、それだけ王女の好意が厚いということの証である。ルジェは素直に感動していたが、アレスはそれほど純粋ではなかった。好意を与えるのは見返りを欲しているからである、と考えるのが普通だ。好意が大きければ、要求する見返りもそれだけ大きくなる。
――何を考えてるんだ、あいつ……?
用意された昼食を取りながら、アレスはハッとした。王女の好意の裏にあるものに思い至ったわけではない。そうではなくて、既に自分の手を離れた事態に対して余計なおせっかいを焼こうといている自分を認めて笑いたくなったのである。しかし、それは笑いごとでは全然ない。既に関係の無くなったルジェのことに気を取られて、肝心かなめのことができないのでは愚の骨頂。
そうしてそのかなめのことに関しては、チャンスをうかがうのが妥当かもしれないが、うかがっている時間は無い。であれば、チャンスは自分で作り出すしかない。
その夜、アレスは、エリシュカを寝かしつけたあと、静かに部屋を出た。部屋の外には誰もいない。見張りがいたら倒すつもりだったのだが、監視の目は無かった。
――さて……と。
目指すべき場所をもう一度頭の地図にマークしたときのことだった。
「どこへいらっしゃるの?」
闇の中から、ふわりと声が現れて、アレスは慄然とした。
声はそう遠くない所から聞こえてきたのにも関わらず、何の気配も無かった。
小さな足音とともに、やがて闇は少女の形を取った。
「どちらかへお急ぎでしたか?」
「キミのとこに行こうと思ってた」
「まあ、ステキ。何かお話があるのね。中庭で話しましょう」
言われるままにアレスは少し廊下を歩いてから庭に出た。
月明かりのもとである。
「今からどうしてヴァレンスへ帰って来たのかお聞きします」
少女の声はいたずらっぽい微笑を含んでいた。
「でも、わたくしにどうしても会いたくて帰って来た、という答え以外は許しませんから、そのおつもりで」
そう言うと少女はふっと身を寄せて、アレスを抱き締めるようにした。
清らかな香に包まれたアレスは、間近に、王女の顔を見た。